2017年06月05日

「何でもたべる」は、日本人だけの美徳なのか

『21世紀のインド人』(山田和・平凡社)をよんでいたら、
すききらいがないのを美徳とする日本人のかんがえ方は、
世界的にみて、けして一般的ではないとかいてあった。
私たち日本人が、美徳の最たるものと見なしている「好き嫌いをしないこと」「何でも食べること」は、じつは日本人の美徳にすぎない。ヒンドゥー教徒は牛肉をたべず、イスラーム教徒は豚肉をたべないし酒も飲まない。

給食でたべのこしたりすると、
「世界には、じゅうぶんな食事ができないひとがいる」と、
道徳的なとらえかたで 子どもに圧力をかけるけど、
日本人以外はそんな価値観をもたないのだろうか。
日本では「好き嫌いがないこと」は社会的協調性が備わっていることと見なされ、親の躾が悪くなかったことを意味するだけでなく、その人物が我が儘でないこと、気むずかしく神経質な人間でないことさえも意味する。「何でも食べる」ことは善的価値のかたまりであり、転じて出来物、好人物であることさえ保証するのだ。このような価値観が通るのはしかし、日本人の間だけである。

日本の常識は、世界の非常識というのを、
「クールジャパン」などをみていると
つよくかんじるわけだけど、
とはいえ、宗教的なタブーと、
ピーマンやにんじんがにが手、というのを
いっしょくたに論じていいものだろうか。
なるほどなー、といったんはふかく感心したものの、
そんなかんがえ方もある、くらいにとどめ、
あくまでも「インドでは」の
ただしがきをわすれないほうがいいような気がする。

朝日新聞のコラム「特派員メモ」に、
「ヒンディー語では、明日と昨日がおなじ単語だ」
とあった。
インド人は時間をまもらない、といわれるけど、
明日と昨日がおなじ単語なら、
日本的な時間感覚とはかなりずれるのも
しかたないようにおもう。
そんな価値観のもとで生きているひとたちが
世界にはたくさんいることを、わすれないでおきたい。

たとえば、アマゾンの奥地でくらすピダハンのひとたちは、
数をかぞえることばがなく、右と左をわけることばもないという。
日本人からみると、おどろくような言語だけど、
文化は相対的であり、優劣はないのだから、
日本人的な価値観から
いい・わるいといってもしかたない。
自分のとらえ方が、世界的にみて
ぜったいただしいときめつけず、
文化の多様性のまえに謙虚でありたい。

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posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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