糸井重里さんが「おしゃべり」についてかいている。
お酒を飲む人たちが、「飲もうや」と集まるのも、
飲もうが飲むまいが「会おうか」と連絡とりあうのも、
学校や会社に「もうちょっといよう」と居残るのも、
電話しているのも、メールしているのも、
「ほんとうにしたいこと」は、ひとつなんじゃないか。
おしゃべりがしたい、ということ。
そういえば、たしかにそうだ。
おしゃべりがしたくての のみ会なので、
おしゃべりができそうにない会に わたしはいかない。
きっとわたしは「おしゃべり」をしないひとと、
職場でうけとめられているだろうけど、
自分では基本的に「おしゃべり」がすきだとおもっている。
自分ではなすだけでなく、ひとのおしゃべりをきくのもすき。
なにをおしゃべりしたいかというと、
こたえのない問題を、あーでもない こーでもないと
こねくりまわすのがたのしい。
たとえば「いかに生きるか」でもいいし、
なぜ日本人は外国語をまなぶのがにがてか、
みたいな問題もこれまでにずいぶんはなした。
イメージとしては、大学生が友だちのアパートにあそびにいき、
そこにまたほかの学生も顔をのぞかせ、
お酒をのみながらおしゃべりするかんじ。
仕事のはなしや、職場の人間関係については
はなしが生々しくなりやすいので できるだけさけたい。
外国のパブでよくありそうな、
先週おこなわれたサッカーの試合を
ファンどうしがふりかえっておしゃべりする、
みたいなのが、いかにも人畜無害でこのましい。
みじかくて 気のきいたセリフをさらっと口にする、というのは
いきな会話ではあるだろうけど、おしゃべりとはまたちがう。
おしゃべりには、あるていど かわされることばの量が必要だ。
すきなおしゃべりについての基本線はかたまっているけど、
日々の生活では あたりさわりのない会話にとどまっている。
友だちはすくないし、なんだかんだで毎日いそがしくすぎていくし。
だからこそ、糸井さんがいうように、おおくのひとが
わざわざ「おしゃべり」のためにあつまろうとするのだろう。
そとにでかけるのがおっくうなわたしは、
おしゃべりの機会をみおくることがおおい。
ブログはひとりでするおしゃべりみたいなものだろうか。
たまには時間をムダにつかい、
あーだこうだ おしゃべりしたくなった。
レストランでの食事をみたときに、
おしゃべりなカップルは不倫ちゅうのふたりで、
おしゃべりをしてないカップルが夫婦だと、
なにかの本にかいてあった。
わたしと配偶者の関係は、まさしく「夫婦」で、
おしゃべりにならない。
ここはひとつ、てっとりばやい解決策がもとめられる。
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