2018年03月08日

横尾忠則さんの「すべては未完である」がもたらす自由

「今日のダーリン」(ほぼ日)にのった
横尾忠則さんの「すべては未完である」は、
ものすごくふかいかんがえなのではないか。
横尾忠則さんの大きなテーマは、
「すべては未完である」ということです。
なにからなにまで、森羅万象の一切が未完である、と。
「達成感」とか「完成」とか「目的」とかを、
 頭から排除しちゃってる‥‥のだと高らかに語ります。
これ、言うのは簡単ですけど、
ほんとうにそう思えるかと言えば、なかなかむつかしい。
でも、その感覚を我がものにすることができたら、
もしかしたら「達成」とは無縁の「万能」と「自由」を
得られるんじゃないかと思うんですよね。

これは、横尾忠則さんとの対談でききだしたはなしを、
凡人にもわかるように、糸井さんが説明してくれたものだ。
よんだだけでも、こころがおだやかにみたされた気がする。
これはもう、思想といっていい。

一般的に、いまの世のなかでは、
達成感をとてもいいことのようにとらえているけど、
それを排除するかんがえがあったのだ。
老子の思想は、勇気を否定しているそうで、
ききかじったわたしは、おかげでずいぶん楽になった。
おなじように、達成感の排除はこころを自由にしてくれる。
弱いことを強くしたり、悪いところを直したりするのも、
なにかやりたいことがあってやるのなら、いいですよね。
でも、ただ「完成」に近づくために直すくらいなら、
それは無理だから(どうせ「未完」なのだから)、
しなくてもいいということでしょうね。
それをやめただけで、どれくらい自由になれることか。

ひらきなおりみたいだけど、なげやりではない。
バカボンのパパのいう、
「これでいいのだ」というかんがえ方につながっている。

ほぼ日にのった糸井さんと横尾さんの対談、
「ヨコオライフ」をよむと、
http://www.1101.com/yokoolife/index.html
もう、あきれるぐらい どうでもよさそうなことを
延々とふたりがはなしている。
たとえば、カレーライスのたべ方。
まず、あついごはんに できたてのあついカレーをかけてたべ、
夜になるとカレーとごはんがひえているので、
つめたいごはんにつめたいカレーをかけ、
ほかにもつめたいごはんにあついカレーという手もあり、
これがあんがいおいしくて、みたいなはなしを横尾さんがつぶやき、
ふむふむと糸井さんがきいて、かんじたことを横尾さんにかえす。
こんなやりとりから、糸井さんはどうやって
「すべては未完である」とまとめられたのだろう。

わたしは横尾さんについてまったくしらない。
糸井さんがこんなふうに ときあかしてくれなかったら、
わたしには横尾さんがなにをいっているのか
さっぱり理解できなかっただろう。
糸井重里というよいきき手のおかげで、
わたしは独創性にすぐれた 達人たちのかんがえにふれられる。

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posted by カルピス at 22:10 | Comment(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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