朝日新聞の書評コラム「古典百名山」で、
桜庭一樹さんが『異邦人』をとりあげていた。
「きょう、ママンが死んだ」という不穏な一行目に、一気に引きこまれてしまう。誰にとっても、母の死は、おおごとに決まっているからだ。ところがところが、主人公のムルソーは、悲しくないと嘯いて、ジリジリと焼けるような日光の下で女と遊び回ったあげく、衝動的に殺人まで犯してしまう。法廷で「人を殺したのは太陽のせいさ」と不敵にのたまうムルソーに、ついに死刑が言い渡されて・・・?
桜庭一樹さんが『異邦人』からうける印象は、
わたしとずいぶんちがう。
もっとも、いろんなよみ方ができるのは、
この作品の感想は、読む人によって、かなりバラバラだ。
と、桜庭さんもみとめている。
わたしが『異邦人』に「一気に引きこまれ」たのは、
不穏だからというよりも、
簡潔なリズムが新鮮だったからだ。
みじかくきられた独特の文体が小気味よかった。
「女と遊び回ったあげく」とあるのも、
本文をよんでいると、ごく自然な休日なすごし方におもえた。
マリイとの関係にしても、わたしには
おとなの男女として、理想的なつきあいにみえる。
「太陽のせい」は、けして「不敵にのたま」ったわけではない。
アルジェの海岸ならではの、
殺人的に強力な光がてらしつけていたのであり、
テキトーないいわけとして太陽をもってきたのとはちがう。
「太陽のせい」がよく理解されないまま
ひとりあるきしてしまった小説だ。
母の年齢さえしらなかったことを
ムルソーはつよく非難された。
それが、そんなにとがめられることだろうか。
母親が亡くなった数日後に、女性と海であそぶのが、
そんなに不謹慎なことなのか。
ムルソーのひととなりをよく理解している人物、
たとえばムルソーがよくいくレストランの主人・セレストは、
法廷でムルソーを弁護しながら、
なぜムルソーがひどい人間として
まわりから非難されるのかをもどかしくおもう。
ムルソーへの悪意が前提としてあり、
裁判はそれを固定するためにひらかれたようだ。
ボタンがどこかでかけちがわれたのに、
だれもそれを理解しないまま
一方的に裁判がすすんでいくことへのはがゆさ。
わたしは、同居している母(85歳)を、
どうみおくるか このごろよくかんがえる。
母さえ納得するのであれば、
できるだけ質素な葬儀がわたしのねがいだ。
お墓をもちたくないので、
遺灰はそこらへんにまいてすませたい。
そんなわたしだけど、なにか罪をおかしたときに、
母親をかろんじたからといって、
とがめをうけるのはたまらない。
殺人はもちろんゆるされないけれど、
事件とはなれた倫理観から、
無慈悲にさばかれたムルソーを気のどくにおもった。
こうしたわたしのよみとりも、
一般的にいえば かなりかたよっていそうだ。
ムルソーをどうとらえるかは、かんたんではない。
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