2018年04月20日

そういえば、ためいきをつかなくなっていた

ピピがいなくなったさみしさから、
このごろふかいためいきをつくようになった。
ためいきしつつ、そういえば、
ためいきをつくのが ひさしぶりなのに気づいた。
何年かまえのわたしは、やたらとためいきしては、
まわりのひとにいやなおもいをさせていた。
ただでさえ、ためいきはネガティブな印象をあたえる。
わたしのためいきは、自分ではそんなつもりはなくても、
もう生きるのがいやでいやでしょうがない、
という意思表明としてうけとめられるほど、
たちのよくないためいきだった。

そうしたためいきを、なぜわたしはつかなくなっていたのだろう。
仕事や私生活が順調だった、というのはあたらない。
わたしは、人生をほとんどおりた人間としてすごしており、
なにかを工夫したり、改善したりというのをなげだしている。
なるべくかんがえずに生きようと、にげまくっている人間がわたしだ。
家では、家族との会話はほとんどなく、
私生活の充実には こころあたりがない。

あるいは、そういうなげやりな方針が
ストレスをとおざけ、ためいきをつかなくても
すごせるようになっていたのかもしれない。
まえは、職場での立場じょう、
やる気のなさを露骨には あらわさなかったけど、
嘱託になってからは、職員会や勉強会には参加せず、
残業もまったくしないで、きっちりと勤務時間だけ職場にいる。
50代なかばということもあり、
よくいえば、すべてわかい職員にバトンをわたしたつもりで、
自分にできるのは、サポートていどだとわりきっている。
まわりもわたしを そんな人間だと認識してくれ、
じゃまものあつかいせず、丁重にあつかってくれる。
わたしが気らくにすごしている分、
だれかがその荷物をせおっているのかもしれないけど、
いつまでもふるいおじさんが幅をきかせるより、
組織全体のことをおもえば、わかい職員が活躍したほうがいい。
さっさと半隠居の立場を確保するのが
年長者のやくわりかもしれない。

なにかをしなければならない、という義務的な仕事がなくなり、
純粋に歯車としてのやくわりにじゅんずる。
そんな仕事にやりがいがあるのか、
というひとにはむかないかもしれないけど、
やりがいとか目標を否定しているわたしにとって、
いつのまにか いごこちのいいポジションをえて、
ぬくぬくとくらしていたようだ。
こんな仕事ぶりなのだから、ためいきをつく必要などない。
あんがいはたらき方改革をさきどりしていたのかも。
ピピがいなくなり、さみしさからためいきをつくことはあっても、
仕事を重荷にかんじてのためいきは、いまでもついてない。
はたらき方改革がうまくすすめば、
仕事にはげんでも、ためいきなしですごせるのだろうか。

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posted by カルピス at 20:29 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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