「犬というものの正体は、犬というかたちをした愛」
と発見している(4月18日の「今日のダーリン」)。
たしかに、「愛」といわれると、すごくよくわかる。
わたしがいっしょにくらしていたピピは、「これはなにか?」
とたずねられたら「ネコです」
というしかないのだけど、
それではこぼれおちるものがたくさんある。
「ネコ」だけではいいあらわせないなにかだ。
「ネコというかたちをした愛」ならよくわかる。
愛なので、具体的な形はない。
ネコのすがたをかりて、ひとの目にみえるようにしてくれている。
ピピもきっと自分のことを
ネコだとおもってはいなかっただろう。
わたしのことを、どう位置づけていたのかがすこし気になる。
せんじつは、しりあいからおくやみとして、
ネコの絵がかかれたワインをいただいた。
ピピの写真をみながらありがたくのませてもらう。
これもまた、ピピがふくらませてくれた愛のひとつだ。
写真をふりかえってみると、亡くなるまえのピピは、
すでにむこうの世界のひとみたいだ。
生きてるのが無理とおもえるほど、やせて毛がぱさついている。
ほんとははやく楽になりたいのに、
わたしのために、ずいぶん我慢して
この世にのこっていてくれたのかもしれない。
亡くなるまえの1年は、ピピというよりも、
ピピのかたちをした仏さまだった。
そんなピピに、もっといっしょにいたかった、
というのはわたしのわがままであり、
ピピにとっては残酷でしかない要求だ。
そんなことをいうのなら、
ふだんからていねいにくらしていけばいい。
テキトーにむきあっておいて、
死ぬときだけかなしむのはたちがわるい。
わかいころのピピの写真をながめ、
げんきなピピを、あたりまえのものとして
くらしていたころを なつかしんでいる。
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