スーパーへの道をいそいでいたら、
小学生くらいの女の子がブロック塀をのぞきこんでいる。
ほそい路地で、ブロック塀のすぐむこうは一軒家だ。
わたしがとおりかかるのに気づくと、となりの家へはいっていった。
きっとそこが女の子の家なのだろう。
わたしがブロック塀にさしかかると、ネコのなき声がきこえた。
子ネコ特有の、かぼそくて、たかい声だ。
わたしがブロック塀ごしにのぞきこむと、
生後1ヶ月くらいの子ネコがみえた。
でも、ひとがこわいらしく、すんなりはでてこない。
お母さんネコをさがしているのか、
お腹がすいてたまらないのか、
ひっきりなしになき声をあげる。
そのうち、女の子がまたもどってきた。
女の子にようすをたずねると、
ゆうべからネコの声がきこえるようになったそうで、
そのときは、お母さんネコもいたという。
女の子も、子ネコが気になるけど、
家でかうわけにはいかないらしい。
ひとをおそれるので、わたしも家につれてはかえれない。
すこしかんがえてから、ちかくのコンビニへいき、
ネコのエサをかってこようときめた。
まだ固形食はたべれないかもしれないけど、
ものはためしだ。
コンビニで3種類のエサをかい、
そのうちの2つを、子ネコのいた場所においてみる。
ものすごくお腹がすいていたようで、
じきに子ネコは姿をみせ、エサをなめた。やがてたべはじめる。
あしたもまたこの道をとおり、子ネコの無事を確認しよう。
エサだけをあたえて役にたった気になるのは、
偽善的で、余計なお世話かもしれないけど、
わたしにはせいいっぱいの対応だ。
すべてのネコがしあわせであってほしい。
信念というほどつよくはないけど、ねがってはいる。
子ネコがどこかへ旅にでるにしても、そこにとどまるにしても、
お腹いっぱいになって、こころやすらかにねむってほしい。
スーパーでのかいものが、子ネコのエサやりでおそくなった。
かいものをすませ、いそいで家への道をあるいていると、
道路のまんなかで、ネコが毛づくろいしている。
とおもったら、サルだった。まだ子どものようだ。
サルがカエデの葉っぱをくわえてウロウロしている。
このところ、市内でサルをみかけると、
きょうと、なんにちかまえの2ど、新聞にものっていた。
保育園の庭にあらわれて、子どもたちをこわがらせたらしい。
わたしがであったサルも、わたしをみてもまったくにげない。
わたしが手にしている かいもの袋が気になったのか、
こっちにむかってきて ちょっかいをだそうとする。
わたしはかいもの袋をふりまわして おっぱらった。
近所のひとたちもちかくにあつまってきて、
興味ぶかそうに サルのうわさ話をしている。
ひとをおそれないサルは、わたしもこわさをかんじた。
子どもあいてだと、おそったりするかもしれない。
これまで町なかでサルをみたことなどないのに、
なぜきゅうに サルがあらわれるようになったのだろう。
子ネコへはエサをあたえ、サルにはつめたくする。
正反対の対応とはいえ、
サルにたべものをあげるわけにはいかないだろう。
だったら、なぜ子ネコだとゆるされるのか。
サルは、わたしの論理的な欠陥をみぬき、
堂々とたべものを要求したのかもしれない。
それともただあそびにさそったのか。
サルもわたしも、あいてがどううごくのか よくわかっていない。
正確な知識なしでの異文化交流は、
あまりいい結果をまねかないだろう。
おたがいの生活圏をおびやかさないいつきあい方が
いちばんおだやかに共存できる方法だろう。
サルがもうしでてきた交流のさそいを、
人間はうけとめる準備ができていない。
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