2018年06月05日

中途半端な知識でも大丈夫

よくいわれるように、中途半端な知識があると、
ついそれをひけらかして、まわりにつたえたくなる。
反対に、かなりふかくしっていることについては、
かりにそれが話題になっていても、
自分からウンチクをかたろうとはおもわない。

たとえばアメリカの人口や、
基本的な産業構造をしらずにおいて、
アメリカについてだれかと議論したところで
たいしたはなしはできないだろう。
では、どれだけしっていたら、
じゅうぶんな一般常識といえるのか。
どこまでしったところで、対象への情報にキリはないのだから、
完全な知識を前提にしていたら なにもいえない。
けっきょく、よくしらないことについても、
じゅうぶんな知識でないのを承知しつつ、
なんでも口をつっこんでいけばいいのではないか。
相手に敬意をはらいながら、おもったことをいえばいい。

野にさく花について、ただしい名前をしっていたら
それにこしたことはないけど、
名前をしっているからといって、
その花のすべてをしっていることにはならない。
名前をしっているだけなのに、
すべてをしってる気がするほうが、
名前をしらないよりも よくない態度になるかもしれない。
名前をしってることと、
その花についてしっているのとは べつのことだ。

どんな歴史があって日本にたどりついたのか、
いつ芽がでて、いつ花をさかせるのか、
どんな養分を必要として、どんな気候をこのむのか、
しっておいたらいい情報はいくらでもある。
では、それらのすべてをしってないと、
なにもいえないかというと、そうでもない。
その花についてたしかに「しっている」といえるのは、
ほんのわずかな専門家だけだけど、なにかをはなすのは、
よくその花をしらない愛好家でも なにも問題はない。

わたしは村上春樹の小説がすきだけど、
何十回もよみかえしているひとにくらべ、
きわめてあさいよみ方しかしていない。
だからといって、卑屈にならなくてもいい。
中途半端な知識であることをみとめたうえで、
ひとがはなす村上春樹について、
謙虚な気もちできき、自分からもはなせばいい。

専門家だけが発言する権利をもっているわけではなく、
愛好会にすぎないレベルでも、
ほんのすこし関心があるだけだとしても、
おもったことを口にしてもいい。
もし、素人の発言をかるくあつかうような専門家がいるとしたら、
きっとたいした実力がなくて、
自分のなわばりにはいってほしくないのだろう。
アマチュアや、ただの愛好家でも、
なんでもおもったことをはなす権利がある。

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posted by カルピス at 22:38 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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