津村記久子さんが「顔は腸ぐらい他人」をよせていた。
きゅうにお腹がいたくなり、
なんとかトイレにかけこんだ 津村さんの体験がかたられている。
自分のからだといえども、おなかの調子は
自分のおもいどおりにならない。
そして津村さんは、しりあいとはなしているうちに、
自分のからだでさえ、意のままにあやつれないパーツが
大部分なのに気づく。
おなかのことは我ながらよくわからない、という話になった。(中略)「うちのおなかがすみません」という感じだ。なんだかまるで同僚の失敗を詫びているようで他人みたいだ。(中略)自分である、と大手を振って言える体のパーツはどこかと話し合って、結局、手足ぐらいしかない、という情けない結論に辿り着いた。
こうしたはなしは、わかいひとにはピンとこないかもしれない。
わたしは50代にはいったころから、
いかに自分のからだがあてにならないかを
おもいしるようになった。
朝いってきますと家をでて、
夕方ぶじに家にかえってこれるのは、
じつにありがたいことだという謙虚な気もちがないと、
歳をとってからのからだとつきあえない。
とちゅうできゅうにめまいがおきるかもしれないし、
津村さんのようにおなかがキュルキュルいいだすのは
けしてめずらしい状況ではない。
自分の体調に、盤石の信頼をもてたのは、いまやむかしだ。
こうしてみると、「自分」とおもっているわたしのからだは、
はたしてどれだけ自分なのか、たしかにわからなくなってくる。
津村さんは老化のはなしをしたいわけではないだろうけど、
わたしが「顔は腸ぐらい他人」から連想したのは、
老化による脳とパーツとの分離だ。
たとえば、おしっこへいく回数は、
わかいころよりずいぶんふえている。
そのうち尿もりをおそれて尿パッドをあてがったり、
さらにはオシメをはいて
おでかけするように なるのだろうか。
トイレにかけこむぐらい、まだまだ序の口だったりして。
老化がこんなにめんどくさいなんてしらなかった。
情報はいくらでもあったのだろうけど、
自分にとって切実でなければ 目をむけずにすごしてしまう。
ふつうにおでかけするのさえ、まさか心配しながらになるとは。
自分の意のままにはうごいてくれないからだに、
イライラするのではなく、
まるで他人のような自分のパーツを、おもしろがってすごすしかない。
尿パッドにするおしっこは、あんがい快感かも。
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