いったいなにがおもしろいのか理解できないのだけど、
新聞でなにかの記事をよんだとき、あるひとが、自分なりの方法で、
すごくたのしそうにツイッターとつきあっていた。
べつにだれがよもうとも、自分がいまを生きているあかしとして、
ブツブツつぶやくのもありなのだと気づく。
一方的な発信であってもかまわない。
ツイッターでなくても、ひとによっては
それがフェイスブックかもしれない。
まわりからは、ひとりさみしく くらしているようにみえても、
本人は、ツイッターにかきこむことを、こころのささえとして、
じゅうじつした時間をすごしているかもしれない。
それはそれで、いいんだ、とおもえてきた。
親密なコミュニケーションではないかもしれないけど、
だれかとつながっている実感は、けしてわるいものではない。
これからさき、世界じゅうで問題となっている高齢化において、
ツイッターなどのSNSが、おおくの老人にとって、
大切なこころの支柱となっていくかもしれない。
純粋なログでいいのなら、
わたしもツイッターでつぶやこうかともおもったけど、
入力に手間がかかりすぎて、実用的でない。
わたしにはブログのほうがあっているみたいだ。
わたしは7年まえからブログをかいており、
ほとんど関心をもたれないにもかかわらず、
あきらかにわたしの生活のなかで
ブログはひとつの句読点となっている。
いちにちにいちどの苦行、ではなく、たのしみとして。
「ブログをかいていなかったらとおもうと、すこしこわい」
と、すこしまえの記事にかいていた。
ほおっておいても明日はくるけど、
ほおっておいたらブログの1000回目はこない
とも、何年もまえにかいている。
なかなか含蓄のあることばのような気がしてきた。
糸井重里さんが「ほぼ日」のどこかで、
なんでも10年やすみなくつづければ、
かならずものになる、という
吉本隆明さんのことばを紹介していた。
気のきいたことはかけないとしても、
つづけるだけならわたしにもできるかもしれないと、
そのことばをささえに、10年をめざしてブログをかいている。
10年たったある日、わたしはなにを身につけているだろうか。
あたたかな部屋にストーブがもえていて、
テーブルのうえにはMacBook Airがあり、
ひざのうえにはネコがくつろいでいる。
ねるまえの読書にぴったりのミステリーと、すこしの寝酒。
いちにちに1本の記事をトボトボかきつづけ、
あのおじいさんは、けっこうしあわせにくらしましたとさ、
みたいな老人で、ぜんぜんオッケーだ。
10年のブログで獲得するのは、
あんがいそんな かれた心境だったりして。
なんだか、グルム童話かなにかの、むかしばなしみたいだ。
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