35年ぶりにみる『恋におちて』。
おとなになった(はずの)わたしには、
この作品がどううつるだろう。
以下、ネタバレあり。
本屋さんでぐうぜんであったふたり
(ロバート=デ=ニーロとメリル=ストリープ)が、
その3ヶ月後に、ふたたびであう。
この、3ヶ月後、というのがミソで、
であってすぐにふたたびあうのと、
3ヶ月あいだをおくのとでは、
2ど目のであいのもつ意味が まるでちがってくる。
3ヶ月は、こころのかたすみで、無意識のうちに
相手へのおもいがゆっくりそだつ、適切な時間だ。
メリル=ストリープの演技がとてもうまい。
セリフがなくても気もちのうごきを
ほんのすこしのしぐさと表情の変化であらわせる。
そして、デニーロへのおもいから、
どんどんきれいになってゆく。
ふたりがはじめて自分の気もちに気づいたのは、
まちあわせの時間にフランク(デ=ニーロ)がまにあわず、
うごきはじめた列車を無念そうにみおくった場面。
あー、いってしまった、と、
がっくりきているフランクに、
うしろからモリー(ストリープ)がよびかける。
彼女は、フランクがやってくるとしんじ、
列車にのらないでまっていた。
ふたりは、おたがいにあいてのもとへとはしりより、
おもわずつよくだきしめあう。
あいてへのつよいおもいがこみあげてきて、ことばにならない。
ふたりには、まわりのひとごみは、もはや目にはいらない。
おたがいの存在だけがすべてになっていた。
モリーの夫に、おちどはない。
妻がかってに不倫したわけで、
夫である彼は、どうしようもなかった。
ただ、みるからに退屈そうな男性で、
あんなのといっしょにいたら、
モリーでなくてもほかの男性と恋におちるのでは。
いっぽう、フランクの妻は、いい奥さんであり、
母親としても魅力的な女性だ。
常識的な夫婦関係、親子関係をもとめ、
そこからはずれてしまった夫とは、
たとえほかの面では どんなに過不足のない人間であっても、
もはやいっしょにくらせない。
けっきょく、フランクとモリーは、
不倫によってふたりとも家庭をうしなってしまう。
この作品の教訓は、
本屋さんに足しげくかよう習慣があると、
すてきなであいがまっているかも、となる。
不倫して、いっときは生活がめちゃくちゃになっても
さいごにはうまくおちつくので、
本屋さんへいくのさえわすれなければ大丈夫だ。
ハッピーエンドをむかえる「恋におちて」は
めでたし めでたしの ものがたりだけど、
じっさいには、こうしたケースはまれだろう。
おたがいにあいてをうしない、家庭もこわれ、
ブツブツいいながらのこりの人生とおりあいをつけるしかない。
「マディソン郡の橋」では、ふたりの男女が、
おたがいに つよくひかれながらも、さいごにはわかれている。
こちらのほうが、人生のマニュアルとしては適切かもしれない。
デ=ニーロの友人として、ハーヴェイ=カイテルがでていた。
女ずきだけど、ひとのよさそうなおじさん役だ。
いかにもわるいおとこ友だちという雰囲気をだしている。
カイテルがすきなわたしとしては、
もうすこし活躍してほしかったけど、
あれ以上、カイテルに存在感をあたえると、
またべつの映画になってしまう可能性がつよい。
「恋におちて」をきっちりまとめるためには、
ちょうどいい時間ものがたりにかかわったといえる。
おしゃれで、めでたし めでたしで、
35年ぶりにみても、こころがキュッとなる作品だった。
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