(ふるいほうのモデル)が、
じわじわといい相棒になってきた。
これまで、MacBook Airの11インチはもっていたけど、
画面がせますぎて、快適にはつかえなかった。
ほんの2インチの差とはいえ、
13インチというひろさは、とてもよくできていて、
ネットの記事をみたり、ブログをかいたりするには
このサイズでじゅうぶん用がたりる。
どこででもひらけるパソコンって、こんなに便利なのかと
いまさらながらおどろいている。
ノートパソコンなのであたりまえなのだけど、
そのあたりまえさを、ひさしぶりに実感するようになった。
『異邦人』のなかで、ムルソーが
寝室だけでくらしている、とのべる場面がある。
母親がいたときは、ほかの部屋もつかっていたけど、
ひとりぐらしになると、アパートがひろすぎるようになり、
寝室にすべての家具をもってきて、
そこだけの空間でくらすようになった。
ムルソーのひととなりがあらわれていて、
ついまねをしたくなってくる。
昼食のあと、すこしたいくつして、アパルトマンのなかをぶらぶらした。ママンがここにいたときは便利だった。今では私にはひろ過ぎるので、食堂の机を私の部屋へ運びこまなければならなかった。私はもうこの部屋でしか生活しない。すこしくぼんだ藁椅子と、鏡の黄色になった衣装箪笥と、化粧机と、真鍮のベッドとの間に。そのほかはどうでもよかった。
わたしの場合は、台所ですごす時間がながくなった。
さむさのせいもある。
食事の用意をして、家族でたべ、あとかたつけをするあいだ、
台所には、ずっとストーブがついている。
あたたまった台所から、さむい自分の部屋にもどり
あらためてエアコンをつけるよりも、
台所でそのままパソコンをひらいたほうがらくだ。
自分の部屋には、ベッドとパソコン
(22インチのモニターにつないだMacBook Pro)があるけれど、
そのパソコンでなくても、
MacBook Air13インチでじゅうぶん用がたりる。
あたたかい台所でブログをかき、
そのあとズルズルとテレビで録画をみたり。
なくてはならないパソコンになってきたので、
調子がわるくなったときのために、
タイムマシンさきとして、500ギガのハードディスクをかった。
快適な環境となればなるほど、うしなったとき不自由する。
そうやって心配するのも、物質にとらわれすぎて、
自由さをうしなっているあらわれかもしれない。
よくいわれるように、自由なのは、不自由なことだ。
ムルソーなら、きっと あるものだけでなんとかすませてしまう。
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