(ジョン=ウォーターズ:監督・1972年・アメリカ)
わたしがすきな角田光代さんが、
どこかで「ピンク・フラミンゴ」についてかいていた。
内容はおぼえていない。
角田さんがすすめるぐらいだから、
きっとみどころのある作品なのだろう。
でも、とてもわたしの手におえる作品ではなかった。
じつのところ、おわりまでみられず、
わたしはとちゅうでDVDをとりだしてしまった。
オープニングで、いかれた映画であると、
すこし予告してあったような気がするけど、
たのしそうな音楽だったし、
かわった体型のひとたちがでてくるので、
まあ、人間は、すこしかわってるぐらいがおもしろいと、
わかったようなつもりでぼんやりみていた。
映画にでてくるひとたちが、徹底的な変態だとわかったのは、
みはじめて何分たったころだったろう。
いったいなんなんだ、この映画は、とわたしはおどろき、
ついていけなくなり、1時間ほどでみるのをあきらめた。
徹底的にわたしの理解をこえた映画だ。
100%変態なひとたちが、ほんとうにいて、
そのひとたちどうしが、自分たちこそ世界一下品であると、
おたがいにきそいあっている。
まともな人間であろうなんて、すこしもおもっていない。
むしろ、どれだけ下品でいられるかにほこりをもっている。
こうしたひとたちが、世間には一定数いるのだ。
くるっているとか、危険だとかいってるのではなく、
わたしとまったくことなった価値観が、
あたりまえに通用していることへのおどろき。
「羊たちの沈黙」にでてくるいかれた犯人や、
「パルプ・フィクション」での暴力(とくに地下室での)は、
たしかに反社会的であり、一般市民として
うけいれられるものではないけど、
「ピンク・フラミンゴ」にでてくる変態さんたちは、
もっとぶっとんで異質だ。
下劣であることこそ 自分たちの存在価値であると
ひらきなおっている。
変態について(もしも)しりたかったら、
「ピンク・フラミンゴ」は理解をたすけるだろう。
ふつうの映画だとおもっては、みないほうがいい。
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