きょねん 加藤一二三さんをゲストにむかえた回が、
すこし手をくわえて、もういちどながされていた。
おなじはなしをきいているはずなのに、
おもわずメモをとるおもしろさだ。
スランプで何ヶ月もかてない日がつづいていたとき、
モーツァルトのバイオリン協奏曲第3番をきいたら、
あすの将棋をかてる気がしてきたという。
その予感のとおり、その勝利をきっかけに、
ひふみんの連勝がはじまる。
加藤さんがかんじるには、バッハをきいていると、
さあなにかやりなさい、はやくしなさいと、
せきたてられる気がするのに、
モーツァルトだと、いいですよ、
いまやらなくても大丈夫ですよ、と
いわれている気がするという。
ふかわりょうさんは、
「バッハは背中をおす音楽。
モーツァルトはとなりによりそう音楽。」
とうまくまとめていた。
あいてとたたかう意欲がなければ、将棋はさせない。
でも、むきだしの闘争心だけでは、これもまたうまくいかない。
その微妙なバランス感覚を、
モーツァルトをきくことで、とりもどせようだ。
サッカーライターの西部謙司さんが、
ここへ出せば決定的なチャンスを作れる、そういうときでも、ちらりと別の方向を見る。集中しすぎるとそこしか見られなくなりますけど、ちらりと別のものを見ることで『世界』は変わりますよ
という、中村憲剛(川崎フロンターレ)のことばを紹介している。
https://www.footballchannel.jp/2019/02/22/post310518/
サッカーにおいて、集中をかくプレーなど、問題外だ。
でも、集中しすぎてもまた
まずしいプレーになるというかんがえ方がおもしろい。
なぜこのタイミングで、ありえない方向へのパスがだせるのか、
憲剛のプレーをみていると、いつも不思議になってくるけど、
「ちらりと別のものを見」ているからこそ、
ちがう世界をえがけるのだろう。
加藤一二三さんぐらいの天才になると、
なにをいってもきく側が納得してしまう。
ご自分のことを、天才といわれても、
ひふみんだといやみがない。そのとおりだから。
これまでおおくのゲストをむかえている「きらクラ!」なのに、
そのなかから、あえて加藤一二三さんの回を
もういちどながしたのは、それだけ反響がおおきかったのだろうか。
わたしとひふみんがにているのは、ネコずきなことぐらいだ。
バイオリン協奏曲第3番をきいても、
わたしの頭には、なにもうかばなかった。
これでは連勝のきっかけにならない。
スポンサードリンク