すごくしっくりきたのか、
べつの映画をみていておもいついた。
携帯電話が画面にでてこなかったから、ではないか。
携帯が標準にある世界は、映画にむかないのでは、
というのがわたしの仮説だ。
『グリーンブック』は1962年が舞台となっているので、
いわゆる固定電話はふつうにでまわっていても、
テレビはブラウン管で、携帯はもちろんまだ姿をみせていない。
いつでもどこでも連絡がとれる携帯があると、
なんでもできてしまい 作品がばたばたしてしまう。
パソコンなどのIT機器についてまで、
はなしをひろげないでおこう。
だれもがあたりまえのように
個人の電話をもつようになったのが、
映画のおちつきをなくしたとだけ指摘しておく。
きわめて個人的な感想だけど、映画の舞台は
1980年代までにとどめたほうが
おちついて作品の世界にひたれる気がする。
ただわたしが比較的ふるい映画をこのむだけで、
ただのいいがかりかもしれないけど、
現代は、映画としてあつかいにくい時代なのではないか。
ふるいからよくおもえるのではなく、
携帯電話がないからうまくいっている、とおもえば
すべてがすっきり説明できる。
携帯やスマホを、あたりまえの環境として
頭と肌になじませた作品が、これまでにあっただろうか。
例外は『パルプ・フィクション』で、
1994年につくられたこの作品には、
かなりおおきいけど、れっきとした携帯電話がでてくる。
ボスの女(ユマ=サーマン)が大量のコカインをすって
ショック状態になったとき、
トラボルタがおおあわてで あちこちに携帯をかけまくっていた。
一生懸命になにかをすると、
たとえ悪人でも浄化されると宮崎駿氏がかたっているように、
必死に全力をつくす姿は、たとえ携帯電話をつかっても
クールな印象はなく、ただせっぱつまったかんじしかしない。
携帯の弊害をけすためには、がんばってしまうしかない。
現代は、正面きってがんばれない時代なのかも。
わたしがすきな『スタンド・バイ・ミー』・
『ブルース・ブラザース』・『カサブランカ』
『グッバイ・ガール』・『耳をすませば』。
ぜんぶ携帯電話のない世界だ。
ひどい いいがかりなのを承知したうえで、
わたしはひらきなおってといたい。これは偶然だろうか。
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