2019年04月21日

携帯電話は映画になじまないのでは

せんじつみた『グリーンブック』がなぜわたしに
すごくしっくりきたのか、
べつの映画をみていておもいついた。
携帯電話が画面にでてこなかったから、ではないか。
携帯が標準にある世界は、映画にむかないのでは、
というのがわたしの仮説だ。
『グリーンブック』は1962年が舞台となっているので、
いわゆる固定電話はふつうにでまわっていても、
テレビはブラウン管で、携帯はもちろんまだ姿をみせていない。
いつでもどこでも連絡がとれる携帯があると、
なんでもできてしまい 作品がばたばたしてしまう。
パソコンなどのIT機器についてまで、
はなしをひろげないでおこう。
だれもがあたりまえのように
個人の電話をもつようになったのが、
映画のおちつきをなくしたとだけ指摘しておく。

きわめて個人的な感想だけど、映画の舞台は
1980年代までにとどめたほうが
おちついて作品の世界にひたれる気がする。
ただわたしが比較的ふるい映画をこのむだけで、
ただのいいがかりかもしれないけど、
現代は、映画としてあつかいにくい時代なのではないか。
ふるいからよくおもえるのではなく、
携帯電話がないからうまくいっている、とおもえば
すべてがすっきり説明できる。
携帯やスマホを、あたりまえの環境として
頭と肌になじませた作品が、これまでにあっただろうか。

例外は『パルプ・フィクション』で、
1994年につくられたこの作品には、
かなりおおきいけど、れっきとした携帯電話がでてくる。
ボスの女(ユマ=サーマン)が大量のコカインをすって
ショック状態になったとき、
トラボルタがおおあわてで あちこちに携帯をかけまくっていた。
一生懸命になにかをすると、
たとえ悪人でも浄化されると宮崎駿氏がかたっているように、
必死に全力をつくす姿は、たとえ携帯電話をつかっても
クールな印象はなく、ただせっぱつまったかんじしかしない。
携帯の弊害をけすためには、がんばってしまうしかない。
現代は、正面きってがんばれない時代なのかも。

わたしがすきな『スタンド・バイ・ミー』・
『ブルース・ブラザース』・『カサブランカ』
『グッバイ・ガール』・『耳をすませば』。
ぜんぶ携帯電話のない世界だ。
ひどい いいがかりなのを承知したうえで、
わたしはひらきなおってといたい。これは偶然だろうか。

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posted by カルピス at 21:28 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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