石毛直道さんが「梅棹さんの酒」としてかいていた
(『考える人』No37)。
毎週金曜日にひらかれる「梅棹サロン」には、
登山や探検、人類学をこころざすわかものがあつまり、
かっぱつな議論をたたかわせていたという。
梅棹邸に出入りするようになった初期に聞いたことばで忘れられないのは、「若者はキバをむきだせ」ということであった。平和で安定した現代の社会生活では、イノシシがキバをむきだして猪突猛進するような行動は必要なく、キバをふりまわされたら迷惑でもある。しかし、キバを失ったイノシシはブタになる。おまえたちはブタになるなと、学生たちに扇動したのである。
このはなしは、梅棹さんの著書『わたしの生きがい論』にも
「キバと幸福」として登場する。
ただし、こちらでかたられているのは、
いまの時代、ブタでいいではないか、というかんがえ方だ。
これまでの時代は、地位や名誉を手にいれようと、
キバをむきだしてがんばってきた。
そして、ゆたかな生活をおくれるようになったいま、
もうキバは必要ない。
せまい社会でキバをふりまわされると、まわりが迷惑する。
キバをすてたイノシシは、ブタになってしまうけど、
設備のととのった豚小屋で、じゅうぶんなたべものをえながら、
ぬくぬくとくらすのも、わるくない人生ではないか。
「梅棹サロン」にやってくるわかものたちには、
「キバをむきだせ」といいながら、
本のなかでは、キバをすてブタになればいい、とかく。
梅棹さんはごく自然にこのふたつをつかいわけていたのだろう。
ブタでいい、といわれると、
なんだかばかにされたような気になるかもしれないけど、
わかいころに『わたしの生きがい論』をよんだわたしは、
すんなりこのかんがえをうけいれた。
「キバと幸福」につづく章では、
がんばれば 問題が解決されるとおもうのはあまい、
というはなしもでてきて、生きがいとはなにかを
よくある生きがい論とは、まったくちがう方向からろんじている。
ブタになったわかものたちは、
もしかしたら、もういちどキバをつけ
再武装してたちあがるかもしれないと、
「キバと幸福」にはかかれている。
このときにはえてくるキバは、
攻撃の武器としてのキバではなく、精神のキバだ。
世俗的な要求をみたすためではなく、
なんだかよくわからないけど、
無償の奉仕みたいな献身的な行為に、
猪突猛進するひとがでてくるのでは、と
梅棹さんは期待している。
石毛さんのエッセイは、タイトルどおり、
梅棹さんと酒のかかわりについて ふれたものだ。
お酒のすきな梅棹さんなのに、
そのスタートは意外とおそく、40代だという。
はじめはビールと日本酒からはいり、
アフリカでの調査でウイスキーの味をおぼえ、
ヨーロッパ「探検」でワインにめざめている。
よく、休肝日をもうけましょう、なんていうけど、
内臓ははたらくようにつくられているので、
休肝日は必要ない、というはなしをどこからかきいて
梅棹さんは 酒をきらしたりはしなかった。
神さまみたいな存在である梅棹さんをみならい、
わたしもまた、安心してまいにち酒をのんでいる。
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