よくありがちなタイトルをみて、
かるめのエッセイかとおもっていたら
ぜんぜんちがった。
臨床心理学の博士号をとった著者の東畑さんは、
はじめての仕事として就職先をさがす。
条件は、カウンセリングがおもな仕事で、
家族をやしなえる給与がもらえること。
東畑さんは、専門性をいかし、
ケアではなくセラピーがしたかった。
ようやくみつけた職場が 本書の舞台となる沖縄のデイケアだ。
初日にいわれたのは
「とりあえず、あんたはそのへんに座っといてくれ」。
デイケアとは、精神障害のひとがいちにちをすごす場所で、
日中の活動としてラジオ体操や調理など
いくつかのプログラムがあるものの、
おおくの時間はなにもせず、ただ「いる」だけが仕事となる。
専門性をいかしたい東畑さんにとって、
ただ「いる」は とてもたいへんなことだった。
「居るのはつらいよ」って、そういうことね、
とわかったような気になっていたら、
もっといろんな意味がタイトルにはこめられていた。
社会とかかわることがにがてで、
居場所のないメンバーたちにとって、
ただ「いる」ことがどれだけ大切か。
あつまってくるメンバーたちにたいし、
スタッフがお世話をするのが仕事だと、
一般的にはおもわれがちだ。
しかし、スタッフは、ケアをするだけでなく、
ケアをされるのも大切な役割となっている。
そう、教祖様とか、ホストクラブとか、アイドルとか、デイケアスタッフとか、これらはすべてケアされることで心をケアする仕事なのだ。心を使って、心に触れて、心に良きものをもたらす仕事は、ケアしてもらうことでケアをしているというふしぎなことが起きる。
このまえみた『パッチアダムス』でもおなじようなことをいっていた。
医者と患者に上下関係はなく、おたがいにいやしあっていると。
ただ「いる」ことが保証されるデイケアって、すばらしい。
「いる」ことのふかい意味に感心してよみすすめていると、
さいごに大どんでんがえしがまっている。
「いる」ことで、いいおもいをしているのはだれか?
この問題は、医療報酬とかかわってくる。
ただ「いる」だけで、おおくのお金が
デイケアの運営母体である 精神病院にはいってくる。
ブラックデイケアは、メンバーをかこいこみ、
デイケアにかよわなければ生活できないしくみをつくりあげる。
東畑さんがつとめるデイケアは、そこまで悪質ではなかったけれど、
ただ「いる」だけのデイケアは、
このままでほんとうにいいのかと 東畑さんはなやむ。
「いる」の本質的な価値が見失われているのに、ただ「お金になるから」という倒錯した理由で「いる」が求められる。そのとき、「いる」は金銭を得るための手段へと変わる。
「ただ、いる、だけ」に毎日一人当たり一万円近い社会保障財源が投入されており、それを支えることで自分に給料が支払われているという事実に向き合ったときに、僕らは居心地が悪くなる。(中略)
僕らの国にはいっぱい借金があるし、これから子どもは減り、高齢者が増えていく。税収は減り、社会保障財源はうなぎのぼりだ。そういう限りある予算のなかで、「ただ、いる、だけ」にお金がつぎ込まれる。それでいのか?もっと効率的にならないか?
そこで、ケアよりもセラピーに価値がおかれ、
ケアにも効率的な運用がもとめられるようになる。
しかし、そもそも社会となじみにくいメンバーたちに
「ただ、いる、だけ」を肯定することで
居場所を保証するのがデイケアではないのか。
ケアという親密な「依存」を原理としている営みは、「自立」した個人の集合体である「市場」の外側にあるはずだからだ。
おかしいのだ。サッカー場の外の公園で一日絵を描いていた人が、「お前、今日、一点もゴール決めてないよな」と言われるようなものだ。サッカーをしていない絵描きが、サッカーの論理で評価されている。
もともとケアではなくセラピーがやりたかった東畑さんは、
ケアがになっているさまざまな役割を職場のデイケアでしる。
デイケアにつとめはじめたころ、
ただ「いる」だけでも 東畑さんにはたいへんだった。
でも、そのうち「いる」の意味ぶかさをしり、
ケアとセラピーは、どちらもたいせつだとわかってくる。
しかし何年かはたらくことで「いる」の構造的な問題がみえてくる。
「このままで、いいのか」と東畑さんはといつづける。
よみおえたあと、プロローグをよみかえしていたら、
そう、この本は「居る」を脅かす声と、「居る」を守ろうとする声をめぐる物語だ。
と、はじめにちゃんとかいてあった。
おわりまでよみとおしたあと、ようやくその意味がわかる。
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