著者の東畑さんと、辺境作家の高野秀行さんが対談している。
https://dokushojin.com/article.html?i=5372
というより、その対談を「読書新聞」で目にしたのがきっかけとなり、
わたしは『居るのはつらいよ』をよんだ。
対談では、「イルツラ(いるのがつらい)」を
どうとらえるかがはなしあわれている。
高野さんは、アフリカからきた友達の感想として、
日本人はつめたい、というはなしをだしてきた。
この前難民で来たイエメン人もソマリ人の彼と同じことを言っていました。イエメンという国は内戦で世界最悪の人道危機と言われていて酷い状態なんです。そこから日本になんとか逃げてきた人が日本のことを何と言ったか、「日本は死後の世界だ」と言ったんです。平和だけれどもうすべて死んでいると。それはちょっと衝撃でした。どうやら人間同士のつながりや温かみがないということらしい。ちょうどそういうことを考えていたので、すべての人が自立していて同じようなサービスを受けられる社会というのが、本当にいい社会なのか。すごく根本的な常識だと思っていたことがこの本でちょっと揺らいでしまったんです。
このはなしをするまえに、高野さんは
ソマリア人の友だちが、日本人はつめたい、
といったはなしを紹介している。
郵便局や銀行に行くとかちょっとした買い物とかそういうものに日本人は全然付き合ってくれないと。
そんなの、あたりまえじゃないか、とわたしはおもった。
でも、なんでもひとりでやることを当然とかんがえ、
自立した個人は、なんでも自分でするものだと きめつけていたのは、
はたして だれにたいしても ただしいのか。
外国のひとは、日本人よりも、もっとひとにたよらないで、
つよい個人をたもっているのだろうとおもっていた。
女の子が、学校でトイレにいくときでさえ、
「ツレション」するというのがまったく理解できなかったし、
未熟な内面をさらけだしているみたいでバカにしていた。
当然とおもっていた自立のただしさが、
高野さんのはなしでくずれてきた。
(日本は)一人で行動することが前提になっているからで、誰かといる時に理由が必要なんです。アフリカでは誰かといることがデフォルトの設定になっているからイルツラ≠ェない。(中略)今でも多くのアジアとかアフリカの人、あと沖縄の人もそうだと思うけれど、一人でいるのが寂しくて耐えられないという人がたくさんいます。その人たちにとってはイルツラ≠ヘない代わりにプライバシーがないことも別に辛くないわけです。そういうことをこの本を読んでいる時にずっと考えていました。(高野)
結局のところ、依存というのはどこにでもあって、完全に自立したら相互にかかわる必要はなくなるわけですが、果たしてそれで人間が幸せに生きていけるのか。(高野)
自立とは、依存とはなんだろうとかんがえさせられる。
いま、日本の障害福祉は、
「自立支援法」のもとにサービスを提供している。
自立をめざし、支援していくのが福祉の目的であり、
事業所は、自立にむけて支援計画をたて、日々の支援をおこなう。
自立をめざすのは、成人した個人において、
あたりまえだとおもっていたのに、
そうではないというかんがえ方があり、
それもまた つよい説得力があるのを みとめないわけにいかない。
日本とアフリカとでは、社会がちがうから、
かんたんに比較はできないにせよ、
障害者にかかわる仕事をしているわたしにとって、
高野さんが紹介したアフリカ人のはなしは、
自立や依存をもういちど といなおすきっかけとなった。
いるのがつらいとすれば、どうすればいいか。
「ただ、いる、だけ」も、またありだと、
みとめていくしかないのでは。
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