坂をはしるのがテーマだったので、
元山の神としてまねかれたのだろう。
坂ばかりのコースでしられる
福島県のハーフマラソンに出場するりさっちは、
あすのレースが不安なので、なにかアドバイスを、と
柏原さんにたずねる。
柏原さんは、「あきらめる」という。
いきなりつきはなしてしまうとは、
すごいアドバイスだなーとおもっていたら、 ちがっていた。
「あきらめて」、やるしかないと腹をくくるのだという。
いくらいやなことがあっても、あしたになれば
けっきょくはやらなければならないのだから、
あきらめてまえむきにとりくむこと、
という意味での「あきらめる」だった。
順位とタイムにいどみつづけてきた
柏原さんならではのアドバイスだ。
マイナスな気もちでレースにのぞんでも、
からだにいい影響をあたえないのだから、
つねに肯定的な発想でのぞむのは 理にかなっている。
しかし、本来の意味をそのままいただいて、
タイムをあきらめて気らくにはしるのも、
ひとつの手だとわたしはおもう。
あるいは、挑戦しない意味での「あきらめる」ではなく、
これまでやってきた練習をしんじ、いまさらジタバタせずに、
リラックスしてレースにのぞむのも「あきらめる」の範疇だろう。
わたしがタイムをめざすのをやめたのは、
くるしい練習からにげているのだけど、
60歳をまえにした わたしの年齢からいっても、
堂々と「あきらめ」てもいいのではないか。
挑戦しつづけることがただしいとする価値観は、
あくまでもこのみの問題でしかない。
「あきらめる」というと、ネガティブにみられがちだけど、
大切な撤退ともとらえられる。
せんじつの記事で紹介した糸井重里さんの
「夢をあきらめて、ほんとに助かったよ」は、
http://parupisupipi.seesaa.net/article/468735839.html?1567166755
あきらめることを、全面的に肯定している。
「あきらめる」は、けして非難される生きかたではない。
記録にこだわるのをやめた、あるいはあきらめたわたしは、
ゆっくりしたスピードばかりではしったり、およいだり。
きょうは外にある50メートルプールで1500メートルおよぐ。
水温と体調が、ピッタリの日だったようで、
およぐうちにすごく気もちよくなってきた。
テンポよくうでがまわり、からだ全体がピッタリ水をとらえる
(本人のイメージです)。
なんでもうまくいくような気がしてきた。万能感がすごい。
あきらめても、まだまだ水泳のたのしさを味わえる。
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