2019年12月08日

「行間にはなにもかいてありません」という周防正行さんのはなし

トーキングウィズ松尾堂をきいていたら、
映画監督の周防正行さんがゲストによばれていた。
新作品の『カツベン!』は、無声映画時代に活躍した
活動映画弁士をえがいているという。
番組で紹介されるまで、まったく関心がなかった弁士だけど、
周防さんのはなしをきいているうちに、作品をみたくなった。
上映まえに、関係者がいろんな番組に顔をだし、
作品のおもしろさをあつくかたるのって、すごくだいじだ。
でないと、いくら周防さんの最新作といわれたって、
なかなかみる気にはならない。

周防さんが映画をとるようになったのは、
大学でフランス語の授業をうけたとき、
先生のいわれたひとことがおおきかった、とはなされた。
文学などでは、「行間をよむ」のがだいじ、
とよくいわれるけど(よくいわれる気がする)、
その先生は、
「行間にはなにもかいてありません」
といわれたという。
先生はなにがいいたかったかというと、
「まず、そこになにがかいてあるかをしっかりよみなさい」、
ということ。
映画だったら、
「まず、そこにうつっているものをしっかりみなさい」、
という意味だ。
それまで、映画をみるのはすきでも、
自分がとるなんて、かんがえたこともなかった周防さんは、
そのひとことで、それだったら、
自分なりになにかつくれそうだ、とおもったという。
行間にもっともらしくなにか意味をもたせるのは、
特別なひとにしかできそうにないけど、
うつっているものがすべて、というかんがえ方をすれば、
ひねくりまわして ややこしくする必要はない。

「行間をよむ」のが、芸術鑑賞にかかせない態度だと、
わたしもおもっていた。
「行間をよむ」ちからのないわたしは、
だから純文学はむつかしくてわからないし、
映画でも、芸術作品はたいくつでおわりまでみられない。
それが、行間をよむ必要などない、
そこにかいてあることがすべて、というかんがえ方をすると、
みるものの気もちがすごくらくになる。
わからないのは、ぜんぶあいてのせい、というわけではない。
まず、なにがかいてあるかを、しっかりよむこと。
自分がかく側にたつのなら、行間に意味をこめたりせず、
かいてあることだけで わかってもらえるよう、ととのえること。

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posted by カルピス at 22:04 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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