自分でも、不便だとおもっていたことが、
そのうちなんでもなくなり、
ほんとになんでも慣れてしまうなー、と感心していた。
感心する、というより、
おおざっぱな自分にあきれる、というかんじだ。
「ひとはなんにでも慣れてしまう」は、
環境にすぐそまってしまい、自分が大切にしてきたことを、
かんたんに手ばなすようではだめだと、
慣れるのをいましめたことばだとおもっていた。
でも、慣れるって、ほんとうにわることだろうか。
いま、台所の蛇口がうまくはたらかなくなっていて、
バーのうごきにあわせて水がでず、
とめるときも やみくもにバーをうごかす。
水のでかたとバーのうごきに法則性はなく、
そのときどきにより、バーをてきとうにうごかして、
水をだしたり とめたりしている。
たぶん、なかのパッキンがいかれているのだろう。
不便だけど、とにかく水がでるのだから、
いろんなむきにバーをうごかして、ごまかしながらつかっている。
だんだんと、不便になれてきたころ、
こんどはエコキュートに警告の表示がつくようになった。
お風呂にお湯はたまるけど、蛇口から、お湯がでない。
冬の炊事にお湯をつかえないと、かなり手がつめたい。
ネチネチと、いじわるをされているような気がしてくる。
お皿のよごれは、ヤカンのお湯をかければなんとかなる。
でも、手のつめたさには、いつまでも慣れない。
25年まえ、結婚し、アパートでくらしはじめたときは
湯わかし器がなかった。電子レンジもなかったし、
テレビはあっても、アンテナにつながないので
番組はみられず、ビデオ専門の映像機だった。
貧乏を自慢しているのではなく、なくても不便だとおもなかった。
そのときも、食器あらいにはヤカンのお湯をつかい、
それがあたりまえだとおもったし、手のつめたさもおぼえていない。
わかかったせいか、便利なくらしでなくても、平気だった。
30代前半だったわたしは、50代後半になった。
なんにでも慣れて、不便を不便とおもわない
タフな人間のつもりだったのに、
すぐ根をあげる、ヘタレな老人になりつつある。
お湯がでず、水のでかたも安定しない蛇口に、
ただそれだけで つかれてきた。
震災にあい、家をうしなったひとや、
難民キャンプで不自由な生活をおくるひとにくらべ、
ゼロみたいに ささやかな不便でしかないのに、
よわくそだってしまった わたしのこころが、
不便にたえられなくなっている。
冒頭にかいたとおり、「なんにでも慣れる」は、
自分が大切にしてきたことをわすれ、
環境にそまってしまうよわさを
いましめたことばと解釈していた。
でも、慣れて、なんともおもわなくなるのは、
おおざっぱな心理ではなく、タフな精神でないとできない。
いまとなっては、湯わかし器がなくても平気だった
わかいころのわたしをほめてやりたい。
慣れるには、タフさがもとめられる。
まさか、お湯がでない程度で根をあげる
よわい人間になるとはおもわなかった。
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