(マーティン=ブレスト:監督・1992年・アメリカ)
ボストンの名門高校でまなぶチャーリーは、
盲目の退役軍人(中佐)につきそうアルバイトにつく。
中佐(アル=パチーノ)はひどく気むずかしく、
まわりの人間と、なにかにつけトラブルをおこす。
感謝祭の休暇ちゅう、中佐の姪たちは旅行にでる計画で、
中佐はいっしょにでかけるのをことわった。
姪たちの家族がいなくなるあいだ、
ひとりのこされる中佐につきそうのが
チャーリーにもとめられた仕事だ。
(以下、ネタバレあり)
それとはべつに、チャーリーは問題をかかえていた。
クラスメイトによる いたずらの準備をチャーリーが目撃し、
犯人の名前をあかさないと、ハーバードへの推薦をとりけし、
退学にすると校長から圧力をかけられる。
感謝祭があけてから、全校生徒のまえで、
チャーリーを査問委員会にかけるという。
クラスメイトとはいえ、主犯の生徒たちは、
そんなにしたしいあいだがらではない。
彼らのいたずらに、チャーリーがくわわったわけでもない。
自分だけが貧乏くじをひくことになっても、
クラスメイトの名を、あかさずにいられるかどうか。
チャーリーのなやみをしった中佐は、
はっきりしないチャーリーをつきはなすものの、
おりにふれ、しっかりしろとアドバイスをおくる。
姪の一家が旅行にでかけると、
中佐もまたニューヨークへ出発する。
有無をいわせずチャーリーもつれてゆき、
ニューヨークの豪華なホテルにとまり、高級レストランで夕食をとる。
中佐は、ある計画をたてていた。
おもいのこすことがないよう、最高の休暇をすごしたのち、
ホテルのベッドにねそべったまま 銃で頭をうつこと。
この作品にはいくつもの名場面がある。
有名なのが(たぶん)、うつくしい女性と
レストランで中佐がタンゴをおどる場面。
初対面の相手なのに、中佐はじょうずにダンスへとさそい、
女性はとつぜんのさそいにとまどいながらも
中佐のもうしでをうけ、ふたりでフロアーにむかう。
中佐は女性をたくみにリードして(目がみえないのに!)、
女性ははずかしそうにホホをそめながらも
はじめてのタンゴをたのしむ。
男はああやって女性をエスコートできないと、
存在している価値がないような気がしてきた。
フェラーリの試乗車で町をはしる場面もたのしい。
目がみえないのに中佐はハンドルをにぎり、
チャーリーに指示をさせながら、急ハンドルをきり、
スピードをだんだんあげていく。
高級車にキズでもついたらと、みているわたしがヒヤヒヤした。
スピード違反でパトカーにとめられると、
免許証は自動車販売店においてきたといい、
身分証明書を警官にみせるけど、目がみえないとはあかさない。
なんだかんだで、警官をいいくるめ、
けっきょくスピード違反をおおめにみてもらった。
中佐が自殺しようと銃を手にしたとき、
チャーリーが説得する場面もすばらしい。
中佐がどれだけの闇をかかえ、孤独に生きてきたかがあかされ、
それでも高校生のチャーリーは
「へましても つらくても みんな生きてる」
と中佐におもいのたけをうったえる。
あとなにかがほんのすこしどっちかにかたむけば、
中佐はチャーリーをうち、自分も自殺していただろう。
おたがいにいきずまっているがゆえに、
ギリギリのところを ふたりはきりぬけ、
その後の人生をおくる覚悟ができる。
そしてラスト。
諮問委員会で中佐がおこなったスピーチは迫力があった。
中佐は保護者のかわりとしてチャーリーのとなりにすわる。
校長がチャーリーの罪をいいつのると、
中佐は、この諮問委員会がでたらめであり、
仲間をうるよう生徒に圧力をかける校長をこきおろす。
信念をもつこと、信念をつらぬくために、
堂々と自分のかんがえをのべること。
問題の本質はなんで、それをどううけとめ、なにが大切か。
中佐は、これまでの経験から、
自分のことばで正面から校長のおこないを否定し、
チャーリーがどれだけつよいこころでこの問題にむかい、
それがどれだけとおといことかを指摘する。
映画のスタートでは、いやな退役軍人と、
はっきりしないエリート校の生徒だったふたりが、
しだいにあいてをみとめあい、
ラストでは、友情といえる関係をきずいている。
すばらしい作品で、みおえたあと、しばらく余韻にひたった。
それにしても、無実の生徒をおとしめる
いやな先生がエリート校にいて、
親ではない大人が学校にのりだして、
ちからのこもったスピーチをする。
なんだかよくみる構図だ。
先日みた『小説家を見つけたら』もそうだった。
こうした問題が、アメリカのエリート校では
よくありがちなのだろうか。
スポンサードリンク