このひとは、清志郎の命日、つまり5月2日に、
毎年わたしに連絡をくれる。
そして、近況をたずねあったり、
清志郎のおもいでをはなしたりするのがお約束だ。
今年は5月5日に、そういえば、
清志郎の命日をわすれていたことに気づく。
そのしりあいもまた、わすれていたのだそうだ。
だから、2日ではなく、7日に電話がかかってきた。
清志郎がなくなって11年がたち、油断していたこともあるけど、
コロナさわぎでふたりとも余裕をなくしていたのだろう。
世間はコロナでばたばたしているけど、
わたしはいつもとかわらず 淡々と生きているつもりだったのに。
いま吉本ばななさんの『アムリタ』をよんでおり、
この小説にでてくるひとたちの
浮世ばなれしていることといったらすごい。
いろんな本や映画が、「こんなときだからこそ」と
とりあげられているけど、
わたしがおすすめする「こんなときだからこそ」小説は
『アムリタ』できまりだ。
この時期にこの本とであえたのは、
からだと頭が「つかみどころのなさ」を
もとめたからにちがいない。
というのはウソで、
「Web本の雑誌」に連載されているの「作家の読者道」で
青山七恵さんが『アムリタ』の魅力をはなしていた。
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi216_aoyama/20200328_3.html
『アムリタ』では、誰も魔法を使わないし、木も虫も喋らないし、アルファベット順に人が死んだりもしません。そのかわりに、主人公の女性が頭を打って記憶をなくしたり、弟が急に超能力に目覚めたり、死んだ妹の恋人と仲良くなったりする。実際にはいろんなことは起こってはいるんですが、それまで読んでいたものと比べると、この本では何も起こっていないように見えて、愕然としちゃったんです。でも、直感的に、これはこれまで好きで読んでいた別世界の話じゃない、これは自分にも何か関係のある話だ、というふうに思いました。そして読み進めていくうち、こういうものこそが「小説」と呼ばれるものなんじゃないかと感じ始めて、なんだか、「あれれっ」と思っちゃったんですよね。
ストーリーはあってないようなもので、
はなしがあっちこっちにとんでいくし、
ひとりひとりはふつうそうなひとなのに、
自分のことをはなしはじめると、
なげやりなのか真剣なのかわからない。
それは、『アムリタ』にかぎったことではなく、
ばななさんの小説はどれも不思議な世界観をもっていて、
自分が生きている世界とは、ちがうところへつれていってくれる。
この小説にかかれていることにくらべたら、
自分のなやみ・心配なんてぜんぜん平気、という気になれる本だ。
ばななさんというカードを1枚しこんでいるのといないのとでは、
生きやすさがだいぶちがってくる。
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