「死生観への郷愁」(佐伯啓思)にひかれた。
今日、死生観などということは誰もいわない。だが、私には、どこか、古人のあの、人間の死という必然への諦念を含んだ「無常観」がなつかしく感じられる。少なくとも、古人は、その前で人間が頭を垂れなければならない、人間を超えた何ものかに対する恐れも畏れももっていた。そこに死生観がでてきたのである。
新型コロナウイルスがはやろうが、ガンにかかろうが、
ひとはいつかかならず死ぬ。
なにかおおきな病気をわずらったとして、
かんたんにあきらめなくてもいいけど、
こころのどこかに、ま、いつかは死ぬんだし、
というあきらめをもっていたほうが
おだやかなこころもちでいられるような気がする。
そして、ジタバタせずに さいごをむかえられるのでは。
『わすれられないおくりもの』(スーザン=バーレイ)
にでてきたアナグマの死をおもいだす。
http://www.suzuya-k.co.jp/okurimono.html
アナグマは、自分の年だと、死ぬのが、そう遠くはないことも、知っていました。
アナグマは、死ぬことを恐れてはいません。死んで体が無くなっても、心は残ることを、知っていたからです。だから前のように、体がいうことをきかなくなっても、くよくよしたりしませんでした。ただ後に残していく友達のことが、余り悲しまないようにと、言っていました。
年をとれば、だんだんからだがうごかなくなる。
そしてある夜、アナグマは、自分がげんきにはしっている夢をみる。
すっかり自由になった気がしているうちに、
やがてトンネルのむこう側へといってしまったアナグマ。
年をとって死をむかえるのではなく、
病気になり、不本意ながら死んでいくのは、
またべつのつらさがあるだろう。
でも、アナグマは、人生のとちゅうでやってきた「死」にたいしても、
きっとこわがらずに病と死をむかえられるのではないか。
まちなかで、ひとごみにもまれているよりも、
自然にちかいところで動物とくらしていたら、
やがてくる死をうけいれやすいのではないか。
自分に死がちかづいたときに、
諦念をもってむかえられたかどうか、ぜひ記事にかきたい。
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