年にいちど、はびこっている草を草刈機でかる。
ことしで3回目となり、恒例行事になったといってもいいだろう。
以前は義理の父が家まわりの管理をしていたけど、
いまはグループホームにはいり、
草かりは配偶者がときどき実家にもどってやっている。
なにも手だすけしないのは、もうしわけないので、
なんとなく お盆まえにとりくむ わたしの仕事となってきた。
午前に1時間、午後にまた1時間ほど草刈機をうごかす。
昼ごはん、そしてそのあとのひるねをはさんでも、
2時間の草かりはあんがいつかれる。
義理の父がわかくないように、わたしだってもう年なのだ。
いつまでこうやって草かりができるだろか。
配偶者は島根の田舎である掛合にうまれそだち
(鷹の爪団の吉田くんのふるさとのすぐちかくだ)、
ちいさいころから農作業の手つだいをやらされ、
近所に不幸があれば、なにがなんでも
おなじ「組」の家は、ひとりずつ手つだいをだす、
などのしきたりを たたきこまれてきた。
こうした「田舎」のしがらみを、
配偶者はとてもおもたくかんじているようなのに、
だれも手をいれなくなった実家にときどきもどり、
草をかったり(配偶者は電動式の草刈機をつかう)
お墓のまわりをきれいにしたり、
お盆やお彼岸には当然のようにお墓まいりにをかかさない。
家へのこうしたおもいいれというか、義務感は、
どのように配偶者に形づくられていったのだろう。
わたしは、親の葬式もできればはぶきたいとおもう、
だらしのない「あとつぎ」であり、
親戚づきあいも最小限におさえている。
おなじ島根そだちでも、わたしと配偶者では、
こころがまえにおおきなちがいがある。
配偶者は、家をまもらなければならないというあれこれを、
両親から具体的なことばで釘をさされたわけではないのに、
なぜこんなに自分の役割を粛々とこなせるのだろう。
田舎の家でそだつうちに、まわりの空気を自然とよみとり、
自分にもとめられる役割を、当然の任務としてうけいれるようになる。
同調圧力というとおもくるしいけど、
自分にかせられたあたりまえの役割と
あっさりうけとめられるのがすごい。
新型コロナウイルスの感染が島根でもひろがり、
わたしがつとめる事業所も影響をうけた。
わたしにもまた、いくらかは感染の可能性があると
冷徹な配偶者はみなしており、
それ以来、食卓にならぶおかずのすべてに、
きっちり「とりばし」がつけられるようになった。
わずかでも可能性があるときには、あっさりと合理的に対処する。
こうした冷静な対応と、田舎のしきたりを
きわめてすんなりうけいれる態度とが、
彼女のなかで矛盾していないのがおもしろい。
矛盾というよりも、おなじ価値観がはたらいているのだろう。
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