2020年08月14日

海の底によこたわるクジラをみつけたとき、ホッキョクグマは幸福をかんじたか

業務用スーパーでブリのカマをかった。
家の魚やきグリルに なんとかはいるおおきさ(あつさ)のカマが、
2ついりで税込600円。
みかけはふとい骨だけど、骨のかげというか 内側には、
身がぎっしりつまっていて、肉のたべ放題となる。
もうたべつくした、とおもっていても、まだ身がかくれており、
それをはがしていくと、肉食ならではのだいごみをかんじる。
ブリのカマをほじくりながら、まえにみた番組をおもいだした。

それは北極海の自然を紹介する番組で、
ホッキョクグマの親子をとりあげていた。
お母さんが海底にしずんでいるクジラの死体をみつけ、
もぐってはおおきな肉のかたまりをかじりとって、
氷のうえでまつ子どもたちにあたえていた。
なにしろつめたい北極海だから、
クジラの肉は冷蔵庫にいれてあるようなもので、
とうぶんくさることなく保存される。
ホッキョクグマがいくらたくさんたべるといっても、
あいてはクジラなのだから、宝の山をみつけたようなものだ。
とかいていて、ホッキョクグマに
「宝の山」という概念があるのかどうかにまよった。
海底にしずんでいるクジラをみつけたとき、
お母さんクマはなにをおもっただろう。
人間だったら あまりの幸運におどりだすところだけど、
ホッキョクグマはどういう反応をみせたのか気になるところだ。

梅棹忠夫さんの『サバンナの記録』をよんでいたら、
カバ2頭を手にいれたティンディガのひとたちがでてきた。
 ティンディガたちが、伝えきいてやってきた。カバのころがっているところまで、全家族をひきつれて移住してくるのだ。どうせ、家らしい家もないのである。おんなじことだ。
 かれらは、カバのそばに腰をすえた。それから、食いにかかった。五家族ばかりが、集まってきていた。かれらは、休みなしに食った。それから、眠った。目がさめると、また食った。そして、また眠り、また食った。三日目に、とうとう二頭のカバは、大きな骨だけをのこして、何もなくなってしまった。ティンディガたちは、その骨をわって、中のズイまでたべてしまったのである。

梅棹さんは、「幸福」とはなにかをかんがえる。
フィールドワークの基地に、どっさりもってきた
乾物をつかい、梅棹さんは「水たき」をつくる。
そのときは、ほんとうに「幸福だ」とおもい、
おいしくたべた水たきだけど、
日本にかえり、ほんものの水たきをたべたとき、
あまりのおいしさに、梅棹さんはおどろいている。
アフリカでかんじた感動はいったいなんだったのか。
あれが「幸福」だったのなら、「幸福」とはなんなのか。
ティンディガのひとたちが、腹いっぱいカバをたべたとき、
「幸福だ」とおもっただろう。
梅棹さんがかんじた「幸福」のなかには、
目のまえにある水たきのおいしさだけでなく、
あすも、あさっても、たべものがあるという安心感がふくまれる。
ティンディガのひとたちには、あすの食事は保証されていない。
腹いっぱいたべられるときもあるけど、
何日も獲物が手にはいらず、死んでしまうリスクもある生活だ。

海の底にクジラの死体をみつけたとき、
ホッキョクグマは「幸福」だとおもったのだろうか。
ブリのカマをほじくるわたしはどうだったか。
お腹がみたされることと「幸福」とは、
ふかいつながりがありそうだけど、
ホッキョクグマとひととは、どこまでおなじなのだろう。

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posted by カルピス at 17:46 | Comment(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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