家の魚やきグリルに なんとかはいるおおきさ(あつさ)のカマが、
2ついりで税込600円。
みかけはふとい骨だけど、骨のかげというか 内側には、
身がぎっしりつまっていて、肉のたべ放題となる。
もうたべつくした、とおもっていても、まだ身がかくれており、
それをはがしていくと、肉食ならではのだいごみをかんじる。
ブリのカマをほじくりながら、まえにみた番組をおもいだした。
それは北極海の自然を紹介する番組で、
ホッキョクグマの親子をとりあげていた。
お母さんが海底にしずんでいるクジラの死体をみつけ、
もぐってはおおきな肉のかたまりをかじりとって、
氷のうえでまつ子どもたちにあたえていた。
なにしろつめたい北極海だから、
クジラの肉は冷蔵庫にいれてあるようなもので、
とうぶんくさることなく保存される。
ホッキョクグマがいくらたくさんたべるといっても、
あいてはクジラなのだから、宝の山をみつけたようなものだ。
とかいていて、ホッキョクグマに
「宝の山」という概念があるのかどうかにまよった。
海底にしずんでいるクジラをみつけたとき、
お母さんクマはなにをおもっただろう。
人間だったら あまりの幸運におどりだすところだけど、
ホッキョクグマはどういう反応をみせたのか気になるところだ。
梅棹忠夫さんの『サバンナの記録』をよんでいたら、
カバ2頭を手にいれたティンディガのひとたちがでてきた。
ティンディガたちが、伝えきいてやってきた。カバのころがっているところまで、全家族をひきつれて移住してくるのだ。どうせ、家らしい家もないのである。おんなじことだ。
かれらは、カバのそばに腰をすえた。それから、食いにかかった。五家族ばかりが、集まってきていた。かれらは、休みなしに食った。それから、眠った。目がさめると、また食った。そして、また眠り、また食った。三日目に、とうとう二頭のカバは、大きな骨だけをのこして、何もなくなってしまった。ティンディガたちは、その骨をわって、中のズイまでたべてしまったのである。
梅棹さんは、「幸福」とはなにかをかんがえる。
フィールドワークの基地に、どっさりもってきた
乾物をつかい、梅棹さんは「水たき」をつくる。
そのときは、ほんとうに「幸福だ」とおもい、
おいしくたべた水たきだけど、
日本にかえり、ほんものの水たきをたべたとき、
あまりのおいしさに、梅棹さんはおどろいている。
アフリカでかんじた感動はいったいなんだったのか。
あれが「幸福」だったのなら、「幸福」とはなんなのか。
ティンディガのひとたちが、腹いっぱいカバをたべたとき、
「幸福だ」とおもっただろう。
梅棹さんがかんじた「幸福」のなかには、
目のまえにある水たきのおいしさだけでなく、
あすも、あさっても、たべものがあるという安心感がふくまれる。
ティンディガのひとたちには、あすの食事は保証されていない。
腹いっぱいたべられるときもあるけど、
何日も獲物が手にはいらず、死んでしまうリスクもある生活だ。
海の底にクジラの死体をみつけたとき、
ホッキョクグマは「幸福」だとおもったのだろうか。
ブリのカマをほじくるわたしはどうだったか。
お腹がみたされることと「幸福」とは、
ふかいつながりがありそうだけど、
ホッキョクグマとひととは、どこまでおなじなのだろう。
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