こんかいは、父親へのにくしみを、母親にうえつけられた、
という20代の女性が、名ざしで上野千鶴子さんに回答をもとめている。
今の私は、母に同調して父を憎むという、自分に関係のない憎しみを抱いている状態だと思います。
その憎しみを手放したちと思いつつも、父親に歩み寄る気持ちも持てません。私はどのように気持ちの整理をつけたらいいのでしょうか。
上野さんは、
夫と父を分離し、母とあなたを分離しましょう。あなたに同調を強いる母の支配から、そろそろ自立してもよい年齢です。
という方向でアドバイスをすすめている。
気になったのは、むすびのことばだ。
世の父親諸君、このお悩み相談から教訓を汲み取ってくださいね。いずれ自分が弱者になったとき・・・因果は廻ります。子どもたちに見捨てられないようにしたければ、まず子どもたちをせいいっぱい愛することですね。
そうはいっても、「せいいっぱい愛」せないひとは
どう子どもとせっしたらいいのか。
自分の子どもを愛せない親はたくさんいる。
どうしても子どもを愛せない、とさっした父親は、
愛するふりをして、子どもにかかわるほうがいいのだろうか。
子どもを愛せないような人間が、父親なんかになるな、
というのは正論かもしれないけど、
なってしまったものはしょうがないだろう。
いまさらそのひとのそだちをかえられるわけではない。
愛するのは、愛そうとおもってできることではない。
自分の意思ではどうしようもない感情が愛であり、
「見捨てられないように」するため、
「せいいっぱい愛する」なんてできっこない。
彼女は父親に かわいがられた記憶がある。
父親は、彼女のほしいものをかってくれたり、
写真をとってくれたりした。
そうしたことが良い思い出として残っているせいで、父親を憎むことに罪悪感を覚えてしまいます。
妻にたいしてはひどい夫だったようだけど、
むすめにたいしてはそれなりにかわいがっていたようだ。
相談者の父親は、彼女を愛していただろうか。
「子どもたちに見捨てられないように」するために、
「まず子どもたちをせいいっぱい愛すること」
がわたしにはすんなりつながらない。
このふたつをいっしょにするとき、それは愛といえるのだろうか。
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