2020年09月28日

お墓も仏壇もいらない。葬式もしない。

いつ死んでもいい、といいながら、
あるいは、だからこそなのか、
88歳になる母親が、自分がはいる墓を心配している。
20年ほどまえに両親は離婚しており、父親はすでに亡くなった。
わたしの家には、だからお墓も仏壇もなく、
おかげで ものすごくらくにすごせている。
お盆にもお彼岸にも、墓そうじもおまいりもしなくていい。
いちどこの気らくさを味わうと、もうもとにはもどれない。
わたしはもう墓なんてもちたくなくなった。
墓だけでなく、葬式も、する気がない。
この10年ほどで、仏教にたいしての不信感がまし、
葬式だけのために お坊さんを家にいれたいとはおもわない。

母親が、しりあいにすすめられたといって、
共同墓地みたいなものの契約をむすんできた。
はじめはわたしにはなしをきいてほしがっていたけど、
かってにしたら、とつれない返事をしたら、
ほんとうに、自分だけではなしをまとめてきた。
10万円はらえば、骨をずっとあずかってくれるしくみだという。
そのまえには、樹木葬がいい、といっていたし、
そのまえは、墓をたてる土地を自分でかっている。
よほど自分の骨がどこにおかれるのか、安心できないようだ。

散骨がらくそうだけど、骨をまく場所があんがいむつかしい。
鳥葬というわけにもいかないし。
斎藤美奈子さんの『冠婚葬祭のひみつ』(岩波新書)には、
究極の選択として「収骨をやめる」があげられている。
骨なんかを 手もとにのこすから、やっかいになるのであり、
火葬場に全部の骨をおいてくれば、
それっきり遺骨のあつかいに なやまされずにすむ。
仏教や僧侶がきらいだからと、葬式さえあげないのは、
死んだものにたいして礼儀しらずかもしれないけど、
でも、死んでいるのだから、もういいではないか。
だいじなのは のこされたものの感情だ。
成仏してほしいとねがえば お坊さんにおがんでもらえばいいけど、
わたしは仏教をしんじてないので、そんなことをしても
なんの意味もないとおもっている。
母親が死ねば、医師の診断書をもらい、火葬場へ連絡する。
それだけ。お線香ぐらいはあげるから、心配しないで。
うるさいのは母親の姉妹である2つの親戚だけど、
もう両方ともいい歳なので、苦情はうけつけないことにする。
生前葬がたのしそう、とおもったこともあったけど、
コロナの時代にひとをあつめるのは やめたほうがいいだろう。
共同墓地にはいる気になり、やっと安心したとよろこんでいる母親に、
葬式はしない、というのはいじわるだから、いまはそっとしておこう。
ひどいむすこなのかもしれないけど、お墓とはかかわりたくない。
時代によって、葬式やお墓がもつ意味はかわってきた。
これからは、ますますお墓がやっかいな荷物になるだろう。

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posted by カルピス at 21:16 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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