(小川さやか・光文社新書)
日本では、きょうとおなじような日があすもやってくるし、
半年さき、1年後だって、そうかわらない日常をすごしているだろう。
そうした前提のもとにおおくのひとがくらしており、
計画にのっとった人生をおくるようもとめられる。
もちろん社会の変動はあるし、自分や家族の身に
なにがふりかかってくるかは予想できない。
とはいえ、日本社会は、ほんのわずかなあいだに、
まったくかわってしまうとはかんがえにくい安定のもとにある。
そうでない国、たとえば著者が調査したタンザニアでは、
公務員や大企業につとめるひとはほんのわずかな割合で、
大部分は、零細で小規模な会社ではたらいている。
そういう国では、ひとつの仕事に収入源をたよるのはリスキーなため、
おおくのひとは複数の収入源をもとうとする。
日本からみると、不安定なくらしも、
タンザニアでは理にかなったスタイルといえる。
そうして、いつか自分にむいた状況になったとき、
それまでに身につけた経験や人脈をいかして、
あたらしい仕事をはじめてみる。
うまくいかなかったらすぐやめて、つぎの機会がくるのをまつ。
わたしは、おなじリズムでくらすのになれ、
予定がきゅうにかわるとうごきづらくかんじる。
曜日ごとに おおまかなながれができあがっており、
そのながれに ただ身をまかせるほう がここちよくくらせる。
しかし、こうした融通のきかなさは、
どこか病的なよわさをかんじさせる。
不安定で不確実な生活は、人びとに筋道だった未来を企図することを難しくさせるが、代わりに好機を捉え、その時々に可能な行為には何でも挑戦する大胆さも生み出す。不確実性が不安でしかなく、チャンスとは捉えようがない社会は病的であるかもしれない。
究極のLiving for Today であるピダハンにも、タンザニアの人びとと同じく自信と余裕があった。生きているということだけを根拠としているような余裕と自信が。
生きてさえいればいい、というと、
なげやりで向上心のない生き方におもえるけど、
でも、それのどこがわるいのか。
サミュエル・ジョンソンは人間を「怠惰な動物」と規定し、怠けることは罪ではなく、自己修養や利益追求に邁進する人間こそ常軌を逸していると説いた。
かの有名なカール・マルクスの娘婿ポール・ラファルグは、『怠ける権利』を上梓し、「個人や社会のあらゆる悲惨さは、労働への情熱から生まれる」と結論づけた。
「その日暮らし」は、それはそれで、
ひとつの生き方だと、本書をよむとわかる。
むしろ、日本のほうが余裕と自信のない社会なのだ。
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