小柴昌俊さんへの追悼文(のようなもの)をのせている。
郡司さんの母校には、
「やれば、できるよ。」とかかれた
小柴さん直筆の色紙があるそうだ。
やれば、できる。素晴らしい名言というよりは、日常の中で幾度となく耳にするようなありきたりな言葉である。けれど、旧制中学時代に小児まひを患い、音楽家か軍人になる夢を諦め、孤独で苦しいリハビリを乗り越え、学問の道に進まれた小柴先生の口から発せられたその言葉には、思わず背筋が伸びるような迫力と重みがあったのを、今でもよく覚えている。
「やればできる」は、学校の先生がよくいうセリフではないか。
梅棹エリオさんの『熱気球イカロス5号』にも、
「きみはやればできる」といわれたはなしがでている。
ぼくは、先生によくこんなことをいわれた「きみはやればできるんだ」あたりまえだ。ぼくはやればできるにきまっている。そんなことを先生から聞かされなくても、ぼくは知っている。ぼくのやれることをやらさないのが学校なのに、先生にはそれがぜんぜんわかっていないのだ。
これをよんでから、わたしは学校の先生や親がよく口にする
「やればできる」を警戒するようになった。
梅棹さんがいうとおりだ。やればできるにきまっている。
やってみても、すぐにはできないかもしれないけど、
できるまでつづけたらいい。
「やればできる」は、とてもあたりまえのことだ。
でも、そのあたりまえが、なぜかんたんにはできないのだろう。
「やればできる」といわれて、すなおにやりだせるひとはいいとして、
「やればできる」といわれるまでもなく、
自分から行動をおこせないひとはどうすればいいか。
「やればできる」は事実だけど、
かんたんにはやりはじめられないという点において、
ほんとうではない。
「やればできる」は、あたりまえで
それ自体は意味のないことばだ。
郡司さんがいうように、おおくのハンディをかかえながら
努力をかさねつづけた小柴さんだからこそ
「やれば、できる。」はおもみをもつ。
そうでなければ、「やればできる」なんて
かんたんにいわないほうがいい。
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