(ポール=オースター・柴田元幸:訳・新潮文庫)
私は静かに死ねる場所を探していた。
本のはじまりは、ものすごくくらい。
生命保険会社ではたらいてきたネイサンは、
60歳をまえにして、肺ガンにかかる。
手術し、放射線治療をうけ、化学療法にくるしみ、
いまは小康状態なものの、生きる気力をうしなっている。
仕事をやめ、妻には離婚をきりだされ、
たしかにこれ以上ないほどトホホな状態で
生まれそだったブルックリンにもどってきた。
冒頭にあげたように、死ぬ場所をさがすために。
町になじむため、またありあまる時間をつぶすために、
ネイサンがあちこちをぶらついていると、
古本屋で甥のトムに偶然であう。
わかいころは才能にあふれ、
これからすばらしい成功をおさめるだろうと、
うたがったことのない好青年だったトムなのに、
大学をとちゅうでやめ、タクシーの運転手をつとめたあとで、
たまたまその古本屋ではたらいていた。
いまは標準体重を20キロうわまわり、女性からも相手にされず、
だれからもすかれていた面影は もはやない。
古本屋の店主であるハリーも、ややこしい過去をもつ人物だった。
トムにかたってきた 華々しい経歴はすべてウソで、
絵画偽造の罪で刑務所にもいれられていた。
金もちの妻から縁をきられ、町をおいだされ、
人生をゼロからたてなおさなければならかった初老の男。
ことほどさように、この本にでてくるすべてのひとが、
それぞれにトホホの境遇をかかえている。
オースターの文章は、皮肉めいた口調ながら
たっぷりのユーモアをわすれない。
訳者の柴田元幸さんは、オースターのもち味が
わたしにもわかるように訳してくれており、
ここちよくものがたりの世界にひたる。
登場人物が複雑にからみあい、どん底のトホホだったひとたちが、
やがてそれぞれ、おちつくところにおさまってゆく。
誠実に生きていれば、さいごのところでなんとかなる、
とおもわせてくれる小説で、わたしのこのみにピッタリあった。
よみおえたあと、しばらくものがたりの余韻にひたる。
人間関係を、たくみにくみあわせながら、
そのひとがなぜそうしなければならなかったかの理由を
オースターはふかくえがいている。
たとえば。
トムの姪である、9歳の女の子ルーシーが、
「あたし、悪い子になる。神さまがお作りになった最高に悪い、最高に意地悪の、最高に口汚い子になる」
といいだし、じっさいに、母親のまえでは わがままな娘になりはてる。
でも、まわりの大人は、ルーシーをこまった子、とはとらえない。
それがルーシーにとって必要不可欠な浄化であることも私にはだんだん見えてきた。これは、ルーシーが自分の人生を求めて必死に闘っている証拠なのだ。
ルーシーは、母親を愛しているけど、
その母親が、彼女をある日バスにのせ、
自分の家からおいだした張本人だ。
幼い子供がこんな不可解な目に遭ったら、どうしたって、自分にも少し責任があるのではと思ってしまうのではないか?悪い子でもなければ、母の愛に値しない子でもなければ、どうして母親が追い出したりするだろう?
で、自分は わるい子でなければ、とルーシーはかんがえた。
ルーシーが大人しくしてくれたら家はもっと落着いた場所になっていただろうが、その悲鳴を内に貯めてしまえば、結局は彼女に途方もない苦しみがもたらされるだろう。ここは外に出すしかなかった。出血を止めるために、ほかにすべはなかった。
ルーシーについて、オースターの理解がいきとどいているように、
ほかの人物にしても、どうしようもないながれに翻弄されながらも、
やがてそれぞれが自分にふさわしい場所を手にいれてゆく。
いろんな問題がかたづき、大団円でおわるかとおもわれたある晩、
ネイサンはきゅうに意識をうしない、救急車で病院へはこばれる。
さいわいネイサンの症状は、食道の炎症にすぎなかった。
死なずにすんだネイサンは、自分がいる病室に
つぎつぎとはこばれてくる緊急患者とはなすうちに、
ひとりひとりの人生におもいをはせる。
このように、無名でわすれられがちな人物について、
本にしあげる会社をつくろうとおもいつく。
つぎの日の朝、退院をゆるされたネイサンは、
あたらしいアイデアをかかえ、
このうえなくしあわせな気分で自分の家にむかう。
同時多発テロが46分後にせまる、9月11日の朝のことだった。
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