隔週の金曜日、朝日新聞に連載されている
「オトナになった女子たちへ」のことだ。
今回は「雨戸道」について。
伊藤さんは、雨戸をあけるのも「道」があるという。
茶道や花道でいう、あの「道」のことで、
戦車道があるぐらいだから、雨戸道があっても不思議ではない、
と かんたんにはいいきれない。
戦車道はむりやりだけど、雨戸道はたしかにむかしからあった。
雨戸には、戦車道よりも、
よほどお作法っぽい要素があると、伊藤さんは気づいた。
伊藤さんがかんじている「道」っぽいところは、
電動で、ない。ガラガラっと、戸袋から一枚ずつ、夕方に出して、朝は入れる。なんとなく、日が沈んでから&昇ってから、としている。季節に合わす。素早くやる。でも、少し勢いをつけないと一発で決まらないので、ちょっと音を立てる。雨戸で自分を隠しながら、目線を外にまっすぐ向けない。道を歩いている人、向かいの家の人、と目があわないようにする。なんかこう、お作法っぽい。
雨戸をあけるのに作法があるように、
雨戸をあけているひとから目をそらすのも
まわりのひとがつくりあげた作法だ。
なぜなら「朝だから見られたくない格好」だから。
家の前のゴミ出しがギリギリ許される、の格好だった。角のコンビニには行っちゃダメレベルの。だから雨戸で隠すのだ。そうか。それはこちらへの気づかいだった。気をつかっているつもりが、つかわれていた。外にも「雨戸道」があった。
わたしがすむ地方には、雨戸がない。
わたしの家だけでなく、雨戸文化のない地方のようだ。
東京で、親戚の家にとまったとき、はじめて雨戸を体験した。
雨戸をぜんぶしめると、部屋はまっくらになり、
朝になり雨戸をひらくと、ものすごくつよい光がはいってくる。
雨戸の威力と存在感は圧倒的だった。
雨戸はこれだけのちからをひめているのだから、
たしかに それなりの作法が必要にちがいない。
コラムのしめくくりが、またうまい。
どーでもいい気がする。いや、どーどもよくない。そんなこといったら「お茶」だってどーでもいいのだ。
すべてに「道」がつうじていると 伊藤さんは発見した。
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