今月の10日に広島をはなれ、東京へむかっている。
家にはよらず、広島からちょくせつ東京へいったので、
新型コロナウイルスの影響もあり、もう1年以上むすこにあってない。
東京駅についたところで配偶者に連絡があった。
その日はホテルにとまり、つぎの日にアパートへうつるという。
そのアパートも、むすこがひとりでさがしており、
あたりまえながら、親はなにもしていない。
手のかからない人間にそだってくれたものだ。
配偶者とのやりとりのあと、わたしもすこしはなした。
ひさしぶりにきくむすこの声はげんきそうだ。
いまわたしが口をはさむことはなにもないので、
からだに気をつけて、とだけつたえ、
ひさしぶりの「会話」をおえる。
むすこは大学のとちゅうでいちねん休学し、
フィリピンで3ヶ月ほど英語の勉強をしている。
新型コロナウイルスのことをおもうと、
いいときに いい体験ができてよかった。
休学により、予定より1年しおくり期間がのびたけど、
それも今月でようやくすべておわる。
わたしの子そだてにかんする責任はこれでおわり、
あとは自分の老後のことだけをかんがえればいい。
いますぐ仕事をやめてもいいわけで、
そうおもうとすごく気がらくになる。
すこしまえにみた映画で、花婿の父親がむすこを自慢していた。
自分はとるにたらない人間だけど、
むすこがやさしい人間にそだったことだけがほこりだ、と
披露宴のスピーチで、むすこをストレートにほめている。
日本人にはなかなかできないけど、
わたしもまた、もし結婚式がひらかれ、はなす機会があるのなら、
むすこを手ばなしでほめたいとおもう。
はなす内容は、映画とおなじだ。
わたしがこんなにとるにたらない人間なのに、
むすこはとてもいいやつにそだってくれた。
我が家は、絵にかいたような平凡な一家だ。
両親ともふつうのサラリーマンで、
金もちではないけど、それほど貧乏でもなく、
あかるくたのしい一家団欒には ほどとおかったけど、
すこしぐらいのギクシャクは、家族なんだから あたりまえだろう。
わたしはあまい父親で、むすこをやたらとほめてかわいがった。
配偶者も余計なことはいわず、でも愛情だけはたっぷりそそぎ、
祖父も祖母も、孫であるむすこをいつも気にかけてくれ、
ネコたちもまじえ、一家がフツーの中流家庭をかたちづくっていた。
いまの時代、「フツー」であることがどれだけ貴重かは、
だれもがよく理解していることだろう。
そんな家庭環境が、きっとむすこを
「あたりまえ」にそだててくれたのだろう。
むすこのおかげで、自分の子とキャッチボールをするという、
父親ならではの夢がかなえられたし、
わたしが手わたす本、たとえば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を
すすめられるままに よんでくれたりもした。
むすこが無事に巣だっていったことをよろこびたい。
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