(カズオ=イシグロ・小野寺健:訳・ハヤカワ epi 文庫)
いまではイギリスでくらす悦子が、
ふと長崎にいたころをおもいだしている。
現在のイギリスと、敗戦後しばらくたった長崎の、
ふたつのはなしが平行してすすんでいく。
この、長崎の部分が、妙にかったるくて、はじめはとまどった。
会話がつうじているようで、なにか かみあっていない。
よんでいるうちに、小津安二郎の映画みたいだと気づいた。
「あなたが(アメリカへ)生きたいんなら、ほんとによかったと思うわ。でも、まずお嬢さんを探すことじゃない?」
「悦子さん、わたし、ほんとうに何もはずかしいとは思っていないのよ。何も隠し立てしたいとはおもわないの。恥ずかしいとはおもってないんだから」
「まずお嬢さんをさがしてからと思ったのよ。話はそのあとでいいじゃない」
「いいわ」佐知子は笑った。「先に万里子をさがしましょう」
「訳者あとがき」によると、
カズオ・イシグロは5歳のときにイギリスへわたったそうで、
それくらいの年齢なら、断片的な記憶か、
全体をとりまくぼんやりしたイメージで、
かすかに長崎をおぼえている程度だろう。
それなのに、なぜカズオ・イシグロが、はじめての作品として、
うろおぼえの日本を舞台に、なにがおきるわけでもない
この地味な小説をかかなければならなかったのか。
長崎時代のおもいでとして登場する佐知子は、
自分をアメリカへつれていくという、
ほとんどあてにならないアメリカ人男性をまちつづけている。
これまでになんどか約束をやぶられながらも、
その男性とアメリカへいくことが、むすめの将来にもふさわしいと、
自分にいいきかすよう、くりかえし悦子にはなす。
じっさいに外国へでかけたのは悦子のほうで、
佐知子がどうなったかはあかされていない。
イギリスで、長崎時代をふりかえっている悦子は、
当時はサラリーマンの妻として、ごく平凡にくらしていた。
のちの自分がイギリスへわたるとは、
とてもおもってないような女性としてえがかれている。
長崎時代は、ようやく敗戦のいたでがうすれたころで、
ちからづよく社会が復興し、くらしはおちつきをとりもどしている。
でてくるひとたちは、みんな小津映画の登場人物のようで、
なかなかさきへすすまない会話をよんでいると、
いかにも日本的で、当時の日本人の風俗がよくあらわれている。
日本での記憶はほとんどないはずのカズオ・イシグロが、
日本人のくらしぶりを これだけよくリアルにかけたものだ。
たとえば、選挙で夫とはちがう政党に妻が票をいれたと、
ふんがえす人物(悦子の義父)がでてきて、
そのかんがえ方をまわりのひとも肯定している。
戦争でまけたからと、いまの日本人は なにもかも
アメリカのまねをすると、なんどもなげいている。
日本社会がおおきくかわろうとして、
それにのみこまれ、混乱している日本人もおおかった。
カズオ・イシグロは、ふたりの女性、佐知子と悦子、
そしてそのむすめたちを登場させ、
母とむすめというふたつのペアを、
まるで鏡のような存在としてえがいている。
たんたんと、しずかにかたられながら、
小津作品のような、不思議な余韻をのこす小説だ。
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