先日の「きょうのダーリン」で、誕生日がわかっている子は、
あるていどしあわせが保証されている、
みたいなことを糸井さんがかいていた。
のぞまれて生まれた、ということのほかに、
生まれたことを記憶されているのは、
まわりのひとに大切にされていたから、
という意味だったとおもう。
誕生日がわからないということは、
生まれたときにみんなの意識がむかってなかったからだ。
絶対にしあわせになる、ではなく、
ある程度しあわせが保証されている、というのがうまい。
人間の子どもは、ほとんどの場合、誕生日がわかっている。
イヌやネコは、誕生日を意識されているだけでも、
めぐまれたスタートといえるだろう。
わたしの家にいる2匹のネコは、
もちろんどちらも誕生日がわかっている。
わたしの家で生まれたわけではないけど、
うちにきたときのからだつきから推定し、
ココは4月8日、プリンは6月10日ということにした。
誕生日がわかっているからこそ、
いま何歳かをわたしはしっているし、
ココとプリンのお誕生日をおいわいできる。
ブイヨンとおなじ日に誕生日をむかえたわたしは、
とうとう60歳になった。還暦というやつだ。
まえは、誕生日をなんともおもってなかったけど、
40歳で胃ガンの手術をしてからは、
生きてるだけでまるもうけと、ほんとにおもう。
誕生日をむかえたら、ただただありがたいし、
4月に桜をみられたら、なんとかまた1年生きられたとおもう。
花火だって、ぶじにみられるのは、生きていたからだ。
60歳の誕生日も、めでたいというより、
ホッとした、という気もちがつよい。
わたしの誕生日をしるなんにんかが
おめでとうをいってくれ、プレゼントもくれた。
「ある程度」以上のしあわせをかんじている。
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