オリンピックに反対で、サッカーだけをみていたわたしは、
ほかの競技が放映されると、サッカーの放映が
かんたんに変更となり、録画するのに苦労した。
世間のひとにとって、サッカーは ひとつの競技にすぎず、
さほど重要には位置づけされていないようだ。
新聞では、オリンピックの総括みたいな記事がおおい。
新型コロナウイルスの感染がひろまり、とまらなくなっているのに、
五輪と感染拡大は関係ないと菅首相はいう。
客観的事実を自分の主観によってみとめないのだから、
このひとになにをいってもだめなのがよくわかった。
五輪がはじまるまえは、
「国民の命と健康を守っていく。これが開催の前提条件」
といっていたのに、ズルズルと「前提条件」がさがり、
東京の感染者が5000人以上になっても
競技の中止にはならなかったし(あたりまえだ)、
できれば観客をいれて試合しようと さいごまでねらっていた。
いざオリンピックがはじまれば、国民はそっちに夢中になる、と
ひとをばかにしたような発言も 記憶にあたらしい。
選手たちの健闘は、それだけをとればすばらしいけど、
だからといって五輪開催の免罪符となるわけではない。
「それはそれ、これはこれ」の
典型的な例が今回のオリンピックだった。
感染は感染であり、選手の活躍は、またべつのはなしだ。
英エコノミスト誌は
人類がパンデミックを克服した象徴としてではなく、パンデミックのせいでいかに奇妙な暮らしになったかを示す例として記憶されそうだとほうじたという。
やるときまったら、とちゅうでひきかえせない日本。
日本のわるい部分ばかりが目につき、
政府・関係機関への不信感がました五輪開催だった。
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