(シアン=ヘダー:監督・2021年・アメリカ・フランス・カナダ合作)
女子高校生のルビーは、両親と兄がろうあ者で、
家族のうち自分だけ耳がきこえる環境でそだった。
父・兄と漁にでかけ、「通訳」として家族をささえている。
高校の授業で、あたらしく合唱をえらんだルビーは、
担当の先生から歌の才能をみとめられ、
コンサートでのデュオにえらばれたほか、
音楽の大学へもすすむように声をかけられる。
もともとうたうのがすきだったルビーではあるものの、
「通訳」として家族とすごさなければならず、
じっくりとうたのトレーニングにとりこむだけの時間がない。
ろうあ者、そしてコーダ(親がろうあ者で、自分は聴覚のある子ども)
としてそだったルビーの気もち。
家族をほこりにおもいながらも、まわりの目を気にするルビー。
家族のなかで、自分だけがのけものな存在ともかんじている。
両親は、高校を卒業後もルビーが町にのこり、
家の仕事(漁)を手つだってくれることをのぞんでいる。
ルビーも、うたへの情熱をむりやりおしころし、
家族のために進学をあきらめようと いったんは決意する。
しかし、学校のコンサートでうたうルビーをみて、
父親は、この子がもっとかがやくためには、
家族の犠牲にしてはいけないとおもうようになる。
「ここ(陸上)でみる星は、海でみる星ほどきれいじゃない」
という、漁師らしい気づきだ。
家族は、大学にすすむためのオーディションにルビーをおくりだした。
学校でひらかれたコンサートをきいているとき、
ルビーの両親は、キョロキョロとまわりのお客さんをのぞきみる。
自分たちのむすめがうたうのを、みんな熱心にきいているようだ。
両親は、ほっとするけれど、自分の耳ではきけないので、
音楽に集中するよりも、行儀のわるいそぶりをやめられない。
しかたのないひとたちだ、とわたしは上から目線でみていたけど、
ルビーがデュオでうたい、これからが曲のクライマックス、
というときに、すべての音がとつぜんきえた。
ふつうの作品なら、ルビーの熱唱に焦点をあてる場面だろう。
ヘダー監督は、音のない世界を観客に体験させる。
音がきこえないとは、こんなにもたよりないものなのか。
わたしは、ろうあのひとたちのもどかしさを、
ほんのすこしながらしることができた。
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