2017年09月21日

マッサージをうけるしわわせ

床屋さんや美容院は、たいていのところで
総しあげみたいなかんじのマッサージをしてくれるけど、
もうひとつものたりなさがのこることがおおい。
気もちよくないわけではないけど、いいところで うちきられる。
テクニックとしても、中途半端で いまひとつなかんじ。
理容学校では、マッサージの基本技術をおしえているのだろうか。
マッサージと散髪とは、ほんらい まったく関係ないのに、
タダでやってくれるのだから、ありがたいといえば ありがたい。
ありがたいけど、どうせするなら、もうちょっと、
とかんじるのが床屋さんのマッサージだ。

わたしの職場には、なにかにつけて
運転ちゅうのわたしに マッサージをしてくれる利用者さんがいる。
運転席のうしろから手をのばし、わたしの肩をたたくのは、
かなりやりにくい体勢となるはずなのに、
ひじょうにしばしばたたいたり、もんだりしてくれる。
ありがたいことに、床屋さんでのマッサージよりも、
ずっとていねいで、時間もながい。
職員としては、利用者に肩をもんでもらうなんて、
まわりのひとから、どんなうけとめかたをされるかわからないので、
やめるようにはたらきかけないといけない場面だ。
でもまあ、車のなかなら、すこしぐらはいいいいだろうと、
つい そのままもんでくれるにまかせてしまう。

そのひととしては、サービスとしてのマッサージではなく、
あそんでくれるようにと、わたしにちょっかいをかけているのだ。
でも、そのマッサージが 妙に気もちいい。
あそびとしてわたしの肩をたたいているのだから、
ときどきめちゃくちゃちからをこめてたたくこともある。
それでも、わたしの肩はガチガチにこっているのか、
我慢できないほどのちからではなく、
ほかでは味わえないサービスとして ありがたく頂戴している。

たいていのことがらがそうであるように、
マッサージも、かなりのていどセンスできまる。
へたなひとは、どんなに気もちをこめても
相手が満足するマッサージはできない。
利用者さんは、どうやってこれだけの技術を身につけたのだろう。
とにかくそのひとは、わるくないテクニックをもって
わたしの肩をもむのが なぜかすきなようだ。
たのみもしないのに、肩をもんでくれるなんて、
かんがえてみると ものすごくしあわせな状況だ。
すぐれたセンスと、マッサージずきなわたしとを、
神さまがアレンジしてくれたとしかおもえない。

みかたをかえると、マッサージは
ひとつのスキンシップでもある。
ひとの肩をもんでしたしみをあらわし、
うける側のわたしは 気もちよさを相手につたえる。
からだをさわられると いやがるひともいるけど、
わたしは抵抗がないので、わるい気はぜんぜんしない。
床屋さんのマッサージは、ながい時間 じっとすわってもらい、
おつかれさまでした、という意味がこめられているのだろう。
あるいは、スキンシップ効果をねらって、
リピーターをふやそうとしているのか。
ハグや、ラテン系のひとがよくやる ほほをあててのキスのかわりに、
日本でも、なにか身ぢかなスキンシップがひろまらないだろうか。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

これからどんな老いがまっているのか

ときどきのぞいてみるブログに、
55歳をむかえた感想がかきこんであった。
いちねんまえの誕生日とくらべても、
つかれがとれにくく、無理がきかなくなったという。
なによりも、将来の不安がかかれていた。
計画的な人生設計のもとにくらしてきたわけではないので、
貯金はわずかしかないらしく、
年金がどうなるか、うけとれるまで健康でいられるかなど、
歳がちかいせいか、わたしとおなじような不安をかかえておられる。
ものすごく共感しながら 老いをむかえつつある心境をよんだ。

わたしのこころずもりとしては、
年金をうけとれる65歳まで、なんとか仕事をつづけ、
それからはアルバイト程度の仕事と年金で
ささやかにくらしていけたらありがたい。
ただ、それも「このままいけば」というはなしであり、
健康に問題をかかえたり、家族への介護が必要になった場合、
わたしが絵にかいてるような生活は
たちどころになりたたなくなる。
歳をとればとるほど、リスクはたかまるわけで、
けっきょくは、いつまで生きるつもりなのかが 鍵をにぎっている。
ピンピンコロリをだれもがねがうように、
わたしの予定も 死ぬまでげんきにくらし、
そこからバタバタっとみじかい期間の「さいご」をむかえるという
虫のいいねがいのもとになりたっている。
具体的には、75歳まで生きられたら、それでじゅうぶんだ。
とすれば、あと20年。
予定どおり、75歳の誕生日をむかえたときに、
わたしのからだと精神は、どんな状況をむかえているだろう。

このまえ利用者のおでかけにつきそったとき、
バッティングセンターであそぶ機会があった。
わたしといっしょにいったひとが、コインをいれすぎてしまい、
いつまでも いつまでもボールがとんでくる。
バッティングにあきたそのひとが、わたしにバットをわたしたので、
かつて野球少年だったわたしは、どれどれと打席にたつ。
バッティングマシーンに設定されているスピードは、時速80キロ。
プロ野球でしめされるスピードの半分ていどだ。
プロだったら、超スローボールであるそのスピードでさえ、
わたしはまったくバットにあてられなかった。
ほんとうに、かすりもしない。
なれたら そのうちあたるようになるともおもえない。

いまのわたしは、おそらくキャッチボールもむつかしいのではないか。
ノックをうけても、ボールのスピードに
からだがついていきそうにない。
歳をとるとは、こういうことなのかと しみじみおもいしらされる。
わかいころのイメージがあたまにのこっているのに、
からだはそのとおりにうごいてくれない。
むかしよくあそんだテニスやバドミントンも、
きっとおなじように残念なうごきしかできないだろう。
脳がからだに命令しても、からだがうごかない事実に
自分のことながらとまどってしまう。

75歳まであと20年。
これからどんな現実がわたしをまっているのか。
そうした老いを、どうしたらしずかにうけいれられるのか。
だれもが老いをむかえるのに、
なんでこんなにこころがまえが さだまらないのだろう。
はじめてむかえる老いは、わからないことばかりだ。

posted by カルピス at 22:20 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

にげまくって生きてきた男の末路は?

たかい目標をかかげてトレーニングをかさねたり、
ライバルや自分自身にまけないよう
たいへんな努力をつみかさねたりと、スポーツにかぎらず、
なにかに成功したひとの苦労ばなしが紹介されると、
わたしは、楽をして生きてきたなー、とおもう。
トレーニングがきらいなわけではないけど、
とことん自分をおいこむまで負荷をかけたのは、
大学生のころまでで、あとは自分にここちよいペースにおさえている。

スポーツだけでなく、仕事でも、対人関係でも、
いやなことから背をむけ、それでもたりないときは、
にげまくってきたのがわたしの人生だ。
梅棹忠夫さんの『わたしの人生論』につよい影響をうけ、
わかいころから人生を半分おりたように生きてきた。
ぜんぶおりようとするとたいへんだけど、
半分おりるだけなら あんがいかんたんだ。
〜するべき、とかの正論で自分をしばらない。
勇気も否定して、楽なほうに、プレッシャーのないほうにと、
自分のすすむ道をえらんできた。
向上心もなく、これまでされてきたことを ただくりかえす。

すこしまえの記事で、いまはやりらしい「末路本」をとりあげ、
「わかいころから はっきりとした方針のもとに生きていたひとが、
その後どんな生活をおくっているのかしりたい」
とかいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/452706078.html?1504009220
ある傾向のもとに生きてきたひとの、その後をしることで、
いろんな生き方のモデルとなる。
記事をかいたときは気づかなかったけど、
にげまくって生きてきたわたしの生涯も、
これはこれでひとつのケースとして、
あんがいなにかの参考になるかもしれない。

わたしはいま56歳で、あともうすこし生きるだろうから、
まだ最終的な「末路」が決定したわけではく、
いまのところ、という限定つきでの末路だ。
わたしの感想としては、にげまくって生きても
それなりになんとかなる、というものだ。
はなばなしい活躍をしたひとや、
たかい目標をかかげて努力したひととくらべると、
はるかに質はおちるだろうけど、だからといって後悔はない。
なにかの達成にむけて生きるのは、もちろんひとつの選択だけど、
そうでないからといって、けしてはじることはない。

自分の意志よりも、状況にながされ、
うけみで生きるのもまた、ひとつの選択だ。
自分からうごかなくても、じっとしていたら、
状況がすこしずつかわってゆき、
その結果、自分の仕事や立場もかってにうごいていく。
なんと志のひくいやつだといわれても、
志じたいを否定しているので 反省したりしない。

わたしはこれまで仕事を4回やめてきた。
それでもなんとかたべられているし、
結婚もして子どももひとりできた。
にげまくってきた人生は、いまのところそうわるくない。

posted by カルピス at 21:16 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月27日

スイカにたすけられたことしの夏

ことしの夏は、スイカなしではこせなかっただろう。
ほぼ毎週、半分にきったスイカを業務用のスーパーでかっている。
値段はこまかくうごいた。
780(鳥取産)→880→980→780(青森産)→680(北海道産)

値段の頂点である980円は、何週かつづいた。
ほしいけど、たかい。たかいけど、
まだしばらくは値段がさがらないだろう。
足もとをみられているようでシャクだったけど、
980円でもかうしかなかった。
こまかな値段のあがりさがりは、
当然ながら需要と供給の関係がよくあらわれている。

例年だと、お盆をすぎればスイカの味がおちるし、
からだもスイカをもとめなくなるけど、
ことしは8月下旬になってもそこそこおいしいし、
はしったり、草かりなどで汗をかいたあとは
スイカしか からだがうけつけないようなときがあった。
まだ車にのる用事があるときは、スイカだけがたよりだ。

車にのらなくてもいい日は、
水風呂につかってビール、というのをなんどかやった。
イメージとして水風呂でのビールが大切なのであり、
頭におもいえがくと、ひどいノドのかわきを なんとか我慢できる。
水風呂につかってビールをのんでも、
じっさいはそれほどの快感はないけれど、
そうやってもりあげるのが 夏をたのしむひとつのコツだ。

ねるまえのお酒は、ジン=トニックにとどめをさす。
ボトルもグラスも冷凍庫でひやしておき、
氷はロックアイスでありたい。
これまでレモンをしぼっていたけど、
ライムのほうがジン=トニックにはよくあうのがわかった。
おかわりには、ジンをウォッカにかえる。
ウォッカにもまたライムがピッタリなので、
よくひえた2種類の酒が夏の夜を居心地よくしてくれる。
チェイサーというか、水もいっしょにのむようにしている。
つぎの日にアルコールがあまりのこらなくなった。

なんだかんだで、すこしくらいあつくても
夏は夏でわるくない。
それにしても、スイカにはお世話になった。

posted by カルピス at 18:43 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月25日

シャツをズボンのなかにいれる

シャツをズボンやスカートのなかにいれるのが
このごろ はやっているらしい。
ファッションにうといわたしが気づくほど、
そうした女性がよく目につくようになった。
ダサいといわれたこの着こなしを はやらせたひとはえらい。
まえはダサさの象徴みたいだったのに、
シャツをいれるのがおしゃれと、価値観を180度かえてしまった。

背中から、シャツをちょろっとだす、というのを
すこしまえによくみかけた。
ファッションなんて関心なさそうな女性でも、
ちゃんと背中からシャツをだしているので
流行のちからをおもいしらされたものだ。
女性だけでなく、意識のたかいひとは
男性でもシャツをだしていたのをおぼえている。
「ちょろっと」というのが特徴で、
「ちょろっと」だすためのシャツがよくうれたのではないか。

酒井順子さんの本に、
私たちは「どう見られるか」に命をかけたような高校生活を送っていたわけですが

という記述があった。(『下に見るひと』P70)
おおくの女性は、ファッションの訓練を、
小学生くらいのときからやってるわけで、男とは年季がちがう。
男子生徒にも、なかにはそうした「青春」を
おくっていたひとがいたかもしれないけど、
すくなくとも、わたしのまわりにいた男たちにとって、
ファッションは必然ではなかった。

いまの、シャツをズボンのなかにいれるスタイルは、
これだけは流行ってほしくなかったと、
おもっている女性がおおいのではないか。
強調したくない部分をシャツがかくしてくれていたのに、
それがきんじられてしまった。
ふつうにかんがえると、
シャツをいれられるひとと、
いれられないひとに、はっきりわかれそうだけど、
ファッションへの関心が、不可能を可能にかえていくような気がする。
どうやって 女性たちがシャツをズボンのなかにいれるのか、
勉強させてもらおう。

わたしは、シャツをちょろっとだしもしなかったし、
ことしの夏も、シャツをズボンのなかにいれたりしない。
なにがはやっていようが、まったく関係ない態度だ。
お腹がぽっこりでているわけではないけど、
流行のために服をかうほど勤勉ではない。
おおくの男たちが、わたしとおなじように、
流行と関係なく生きているようにみえる。
ファッションのことをかんがえると、
男にうまれてたすかったとおもう。

posted by カルピス at 21:39 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする