2017年11月20日

よくいくスーパーが休業になっただけで、世紀末のおとずれをかんじ、はげしく動揺する

プールからのかえり、いつものスーパーへ。
店内のあかりがくらい。駐車場の車がすくない。
いつもとちがうようすに、お店ぜんたいをよくみると、
ガラスに「休業中」とおおきくかかれた紙がはってある。
清掃業者がはいり、おおがかりなかたづけがはじまっている。

夕方だし、プールでおよいでいたせいもあり、
なんだか目にはいる景色がぼんやりしている。
歳のせいもあって、このごろ夕方がすごくくらいのだ。
かいものができないので、しかたなく車で家にむかうと、
とおりすがりにみえるほかのお店も、
なんだかあかりがくらくしてあるようにみえる。
わたしのしらないうちに、なにか異変がおこり、
お店が次々に閉鎖しているのでは。
こんなふうに、いつもいく店がバタバタと閉店したら、
どんなに不自由だろう。不自由だし、さみしい。
人口がへりつづけたら、いまにわたしがすむ町は、
こんな風景になるのだろうか。

『ザ・ロード』(コーマック=マッカーシー)をおもいだす。
世紀末は、もはや太陽がかがやくことはなく、
つめたい雨がふりつづけ、将来に希望をもてない。
ひとびとは、生存をかけて食糧をうばいあう。
人口がへりつづけると、こんな状況がおとずれるのだろう。
空想ではなく、現実になにか異変がおきたのではないか。
うすぐらく、ぼやっとしたかえり道の風景は、
ただごとでない事態がおとずれている気配をかんじさせる。
もっと灯油や食糧を備蓄しておけばよかったとくやむ。

家にもどって、スーパーのチラシをみると、
改装中でのため休業、とあり、
11月下旬にリニューアル・オープンする予定だという。
ほんとうに、一時的な休業のようだ。
さいわい、世界はなにもかわっていなかった。
よくいくスーパーが休業になっただけで、
こんなに動揺するとはおもわなかった。

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2017年11月18日

津村記久子さんのコラムに松江市の循環バスがでてきた

ブログをかいているとき、
ひとの文章を引用してばかりいるので、
あまりにもオリジナリティがない内容にいじけがちだ。
でも、かんがえてみると、
朝日新聞の第一面にのっている「折々のことば」にしたって、
ぜんぶひとのアイデアを紹介しているだけともいえる。
えらいひとが、堂々と とりあげれば有名なコラムとなり、
これまであまり陽のあたらなかったことばに再評価をあたえる。
わたしの引用も、それはそれで、意味があるかもしれない。
というわけで、引用についてのひらきなおり。

朝日新聞に連載されている
津村記久子さんのコラム「となりの乗客」に、
わたしがすむ町の循環バスがでてきた。
島根の松江市の循環バスからの眺めは、最近よく動画サイトで視聴しているテキサスの市街地の車道からの風景に似ていたりもする。(「となりの乗客」〜世界の中の点〜より)

まさか、ひごろよくのっている循環バスからのながめが、
テキサスと似ているとはおもわなかった。
わたしは、毎週かならずこの循環バスにのっており、
窓からの景色をかなりよくしっているつもりだ。
地元の人間にとって、かわりばえのしないながめでしかない。
謙遜ではなく、ほんとうに、どこの町でもみかけそうな景色だ。
そんな日常風景を、いきなり津村さんに、
テキサスと松江市の車窓が似ているといわれておどろいた。
テキサスというと、サボテンがまばらにはえている砂漠で、
ところどころにおおきな看板がたっている
だだっぴろい空間を想像するけど、
市街地についていえば、松江市とかわらないらしい。

津村さんのコラムは、
遠く離れたある場所とある場所の類似のことを考えていると、どこにいようと人はおなじなのではないかと思えてくる。結局、それぞれが立っている場所が世界の中心なのだ。

とむすばれている。
似ているからつまらない、ではなく、
似ているのがあたりまえであり、
だからこそ いまたっている場所を
世界の中心と とらえられる。

似ているのだから、旅行なんかにでかけなくても、
自分のいる町で満足すればよさそうなものだけど、
それはまた、べつのはなし。
似ていると確信するには、でかけなければわからない。
そして、いまたっている場所が世界の中心に位置づける。
世界の中心は、ニューヨークでも渋谷でもなく、
自分がすむ町であり、テキサスの市街地なのだ。

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2017年11月15日

佐々木正悟さんの「コーヒーを飲みながら仕事しない」におどろく

シゴタノの佐々木正悟さんは、
コーヒーをのむときでさえ、
同時になにかをしないそうだ。
「コーヒーを飲みながら仕事しない」
https://cyblog.jp/29073
なぜなら、マルチタスクをさけたいから。
時間によほど追われていると自分で判断するのでない限り、マルチタスクは極端なまでに避けています。べつにできないわけではありませんが、マルチタスクに よる時間の節約というのは、思うほど効果がなく、しばしば時間がかえってムダになり、しかも経験が薄められてしまうと思うからです。

同時にふたつ以上のタスクをすすめないほうが、
目のまえの仕事に集中できるだろう。
とはいえ、それは原則であって、
いくらシングルタスクがいいといっても、
コーヒーぐらい、仕事をしながらのんでもいいのに、
とあまりの徹底ぶりにわたしはおどろいた。

ここまで徹底してシングルタスクにこだわると、
ひとつのスタイルとしてかっこよくみえる。
わたしはこのごろあるくのがたのしくて、
2時間くらいあるくのに集中していると、
頭もからだもリフレッシュされて気もちがいい。
まさに「あるくためにあるく」のであり、
なにかをめざしてではなく、ただあるくのがたのしくてあるく。
メモとボールペンも もっているけど、
かなりのスピードであるくと、
あんがいものごとはかんがえられない。
アイデアが空からおりてきたりもしない。
ただひたすらあるいており、それだけでたのしい。
これなんかも、シングルタスクとしてのここちよさだ。

カニグズバーグさんの『13歳の沈黙』(岩波書店)をよんでいたら、
いちどにひとつのことしかしない
家政婦のヨランダさんがでてきた。
彼女はいちどにひとつのことしかしない。
しずかに、ていねいに、ひとつずつ仕事をすすめていく。
このおちついた態度こそを、依頼主の女性は必要としていた。
仕事ははやいけどあわただしい、というのではなく
ヨランダさんのしずかな仕事ぶりが
まわりから信頼されのはとてもよくわかる。

この本をよんでから、わたしもまた
できるだけいちどにひとつのことしかしないよう
こころがけるようになった。
たとえば、冷蔵庫にバターをしまおうとたちあがったとき、
テーブルにあったよごれたお皿が目にはいり、
バターといっしょに手にする、
ということがよくあるわけだけど、
そんなときにも、まずバターをしまい、
その動作が完全におわってからお皿をながしにもっていく。
とにかくひとつずつしかしないこと。
簡単なようで、これがなかなかできない。
どうじにふたつ以上の仕事をすすめると、
効率はいいかもしれないけど、
雑な生き方となり、うつくしくない。
「いちどにひとつ」は、生活におちつきをもたらす。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月11日

信号機のない横断歩道で 車はなぜとまらないか

先日の朝日新聞に
「止まらぬ車 戸惑う外国人」
という記事がのった。
投稿したマーク=リバック氏は、
「信号機のない横断歩道は車優先」
という日本の状況におどろいている。

しかし、日本の運転手は、
車優先と はっきり意識しているのではなく、
横断歩道でまっているひとが、自分とは関係ない存在だから
あえてとまろうとしないのではないか。
自分が所属する「世間」でなければ、
運転手にとって かかわりのない「その他大勢」にすぎない。
横断歩道で車がとまらないのは、
そこでまっているのが、自分とは縁のない他人だからだ。

横断歩道で車がとまらないのは、
電車の席を老人にゆずらない問題とよくにている。
日本はサイフをおとしてもかえってくるほど
道徳がゆきとどいた国なのに、
いっぽうでは、老人をたたしたままでも平気な国だ。

鴻上尚史さんが
「日本人には社会がなくて
世間だけで生きている」となにかにかいていた。
自分がぞくするコミュニティでは親切にふるまうのに、
そこから一歩でると、まわりはぜんぶ関係のない他人となる。
世間にたいしてはずかしいかどうかが 判断の基準であり、
ひろく社会的にみたらどうかはかんがえられない。
世間と社会とを、はっきりわけてあつかっている。 

わたしはバスにのっていたとき、
年配の女性が、あとからのってくる友だちのために、
荷物をおいて 席を確保しているのにでくわした。
その女性の論理では、ほかのひとがすわれなくても、
あとからくる自分の友だちがすわれたらいい。
このひとにとって、バスにのっているお客さんは
自分とかかわりのない他人であり、
しらないひとがすわりたい気もちは想像できず、
自分の友だちに楽をしてもらいたいと「親切」にする。

投稿によると、道路交通法38条に
「横断歩道等における歩行者等の優先」
とあるそうだ。
それなのに、人対車の交通事故のうち、
「約30%が横断歩道を横断中に起きている」そうで、
こんな状況がほっておかれているのが
そもそもめちゃくちゃなのだ。
なんで規則違反として とりしまらないのだろう。

信号を無視すると、ルール違反でとがめられる。
日本人は、きまりならば まもろうとするので、
信号のない横断歩道で ひとがまっているときは、
とまらなければ罰金という規則にすればいい。
交通違反にすれば、どの運転手もとまるようになる。
もちろん、老人に席をゆずらないのも犯罪としてあつかう。
なんだか安倍さんがめざす共謀罪法案後の日本を
さきどりしたようなギスギスした社会だ。

posted by カルピス at 09:18 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月09日

貯蔵がなかった時代のシンプルなくらし

トランプ大統領の韓国訪問にあわせ、
3隻の原子力空母が朝鮮半島ちかくに展開したという。
わたしの関心は、これらの空母が、
北朝鮮への圧力となったかどうかではなく、
それぞれの空母にどれくらいの兵士がのり、
彼らが生活するのに必要な資材を
どう調達したらいいのかという、具体的な対応方法にある。
職場の同僚にはなしたら、空母だからヘリコプターや飛行機で、
どーんと補給できるでしょう、といわれた。
たしかに。
でも、膨大な水や燃料はどうするのか。
運行しながら補給できる 給水船やタンカーがあるとはいえ、
しっかりした港が必要な場合もでてくるだろう。
船にのりっぱなしでは精神的にながくつづかないので、
ときには娯楽施設のある港にたちより、うさばらしもしたい。
じっさいの戦闘よりも、そうした補給についてかんがえただけでも、
あまりのややこしさに頭をかかえてしまう。

ちなみに、おなじ原子力空母であるジョージ=ワシントは、
士官・兵員3200名、航空要員2480名と、ウィキペディアにあった。
合計5700名ちかくの人間が、安定した精神状態をたもつためには、
どれくらいの資材が必要なのだろう。
きっと、献立には工夫がこらされており、
栄養にみちて、あきのこない食事が提供されているはずだ。
ジョージ=ワシント号の調理場と貯蔵庫をみてみたい。
なんにんのコックさんがいて、
どれくらいのビール、何キロの牛肉がつみこまれているのか。
必要なニンジンはどこに発注するのだろう。
ものすごくかんがえられたシステムがなければ、軍隊を維持できない。

原子力空母とは、なんの関係もないけど、
何万年ものむかし、人類の祖先が巨大なマンモスをたおしたとき、
大量の肉をどうやって保存したのだろう。
うまく獲物をたおせたとしても、そのあとの解体や保存は
そうとうたいへんだったのでは。

梅棹忠夫さんの『サバンナの記録』(朝日選書)には、
アフリカのサバンナにくらすティンディガのひとたちが、
カバをしとめたときのようすが紹介されている。
5家族が現場に「ひっこし」をしてきて、
たべつくすまで 腰をすえてたべつづけたという。
たべて、ねむり、目がさめるとまたたべて、
3日後にはおおきな骨以外の すべてがなくなったという。
1965年におこなわれた調査のときでさえ、
保存を工夫するより、たべつくす方法が観察されているのだから、
マンモスをしとめたときの古代人も、
きっとおなじように一族があつまってきて、
たべつくしたのではないか。
食糧を手にいれたときのこうした分配方法が、
たすけあい、わけあって生きていく形で定着したのだろう。

いまさら補給や貯蔵が悪の根源だとまではいわないけれど、
貯蔵技術がなかったころのシンプルなくらしなら、
おおきな戦争など できっこなかった。
貯蔵への工夫は、耳をかしてはならない 悪魔のささやきだった。

posted by カルピス at 21:17 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする