2017年05月25日

現金おことわりの社会へ

きのうの朝日新聞に、「キャッシュレス」という記事がのった。
たとえばスウェーデンでは、
「現金おことわり」のお店がすくなくないという。
おみやげなどの一部の店にかぎったはなしではなく、
パン屋さんなどの小売店でさえカードばらいなのだそうだ。
日本はまだなにか かうときに、
現金をだしても ことわられたりしないけど、
スーパーでカードをだすひとは すでにあたりまえの存在だ。
現金をもちあるかなければ、
おとしたり、とられたりして なくすことがないし、
うけとる側も、おつりを用意しなくてもすむ。
現金でないほうが、ずっとスムーズに商売できるのだそうだ。

すこしまえのブログに、お金が いかに便利かをかいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/436579164.html?1495714947
お金があれば、なんとでも交換してくれるのは、
かんがえてみると ものすごくありがたい。
10キロのお米を手にいれるのに、3000円ほどしはらえば
なんとかかいものができる。
お金がなかったら、お米10キロ分の労働をしたり、
それにかわるものをさしださなければならない。
1万円は、だれにとっても1万円で、日本だけでなく、
外国へもっていっても その価値は一定だ。

お金とともに、サイフの便利さにも そのときに気づいた。
ズボンのポケットに、現金をむきだしでいれると おさまりがわるい。
お札をクリップでとめて上着の内ポケットにいれるのも、
かっこいいけど、小銭のあつかいにこまる。
サイフはお金のいれ場所として特化したものなので、
つかってみるとわかるけど、ものすごく便利だ。
サイフのつかいがってのよさに おどろいていたけれど、
現金をもちはこばなくていいのなら、
そもそもサイフはいらない。

お金の便利さを、いまさらながらかんじていたので、
きのうの記事にはおどろいた。
もうしばらくすると、お金はすべて概念としてのみ存在し、
だれもみたことがない社会になるのかもしれない。
すくなくとも、だんだんと なくなる方向にうごきそうだ。

旅行するとき、むかしは飛行機のチケットをなくさないように
気をくばったものだけど、
eチケットになってから、パスポートさえもっていたら
チェックインできるようになり、
チケットの心配をしなくてもいいぶん すごく気がらくになった。
このごろは、電車にのるときスイカだかイコカだかのカードや、
携帯で改札をとおれるそうで、
わざわざカードをかうなんてめんどくさいと
ふるいタイプの人間であるわたしは おもっていた。
でも、いちいち切符売場にならばなくてもすむので
なれたらきっと便利なのだろう。
コンビニでかいものをするとき「カードは?」と
かならずたずねられるのを、わずらわしくおもっていたけど、
これにしても カードやスマホでかえたほうが 便利にきまっている。

お金がなくなると、数字をあつかうのは あたまのなかだけになる。
数字をどうやって子どもたちにおしえるのだろう。
算数の宿題で、くだものをかう問題をつくるときは、
なかなかリアルなはなしにもっていけないのではないか。
わたしはビットコインのことが、ぜんぜん理解できないけれど、
しくみがわからなくても、つかえればいいわけで、
現金がなくなっても あんがいこまらないような気がしてきた。
よろこぶのは「おれおれサギ」のひとたちで、
わたしなんかは、あっという間に被害にあって、
スッカラカンになるのでは。
とおもったら、ATMもなくなるそうだから、
サギたちは、あたらしいやり方を研究ちゅうだろう。
お金は概念としてだけの存在となる。
だれもお金をみたことのない社会。
わたしの想像力ではついていけない。

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2017年05月24日

「おしっこでぬれた新聞はよめない」さいきんメモした3つの発見

完璧な夜のはずだった。
いつもよりはやめにすべての雑用がかたづく。
寝酒といっしょにたのしめるよう、
新聞の連載小説『ディス・イズ・ザ・デイ』
(津村記久子)がのったページをマクラもとにおいてから、
台所で しっかりひやしたウォッカのソーダわりをつくる。
ベッドへもどるわずかないあだいに、
ピピが、新聞のきりぬきのうえで おしっこをしていた。
おしっこがベッドにしみこまないよう、手ばやく新聞紙をかたづける。
さいわい、ふとんに被害はない。
それだけ新聞紙がたくさんのおしっこをすっていた。
きょうの新発見は、
「おしっこで新聞がぬれると、まったく文字がよめなくなる」。
目のまえまで しあわせをたぐりよせていたのに、
ピピのおしっこは、おもいもよらない方向からの
どうしようもない妨害だった。
ピピをおこるわけにいかないし、かたづけるあいだに酒はぬるくなる。
わたしの完璧だったはずの夜は、あっという間にとおざかっていった。

ラジオ番組「クラシックカフェ」で
ベートーベンの交響曲7番を紹介していた。
ナポレオンひきいるフランス軍がウィーンにせめてきたため、
ベートーベンを支援していた貴族たちは国外へにげだした。
財政基盤をうしなったベートーベンは、
余裕がなくなり、作曲にうちこめない時期をすごす。
戦争がおわり、ふたたび年金をうけられるようになると、
ベートーベンは気もちをとりなおし、
3年がかりで交響曲7番をつくりあげたのだという。
ベートーベンほどのひとでも、
お金の心配をしながらでは、作曲にうちこめなかったというのが、
なんだかチープさがただよってきて 自分の仲間のようにおもえてくる。
お金やナポレオンなんかに左右されず、
ただわが道をつきすすんで作曲にうちこむひとよりも、
お金の心配や戦争の不安に
くよくよするベートーベンのほうがすきだ。
ケチくさいかんがえが頭にうかんだとき、
みえをはったりせず、すなおにベートーベンをみならって、
等身大な判断に身をまかせよう。
あんがい気のちいさなベートーベンによって
交響曲7番が無事に完成し、壮大なメロディーは
世界じゅうのひとからたかく評価された。
めでたしめでたし。

映画『マイガール』をみていたら、
したしくなりはじめた男女のカップルが、
うちあげられた花火を いっしょにながめていた。
そのときの会話で、
「庭でみてもいい?」
「もちろん!」

がいいかんじだ。
こたえが「イエス」にきまっていることを
あえてたずねるのは、恋愛関係において
重要なテクニックではないか。
はたからみれば「勝手にやってろ!」みたいな
ふやけたやりとりかもしれないけど、
当事者のふたりにとっては、相手にあまえ、
そのあまえをうけいれと、
あたりまえの提案をめぐっていいことずくめだ。
機会をとらえて わたしもためしてみたい。

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2017年05月21日

30分以内の昼寝は ほんとうに効果的か

昼寝の効果がよくかたられるけど、
たいていの場合、30分以内できりあげるよう、条件がつく。
それよりながくねると、
午後の仕事や夜の睡眠にわるい影響をあたえるそうだ。
そんなことしったことかと、
わたしはやすみの日にいつもたっぷりと昼寝をしている。
1時間から1時間半くらい。
せっかくのひるねを30分できりあげるなんて
いかにも効率のために生きてるみたいでかなしい。
やすみの日ぐらい、目ざまし時計の音はききたくないし。

1時間半ねると、目がさめたときは
ボーっとして、なにがなんやらわからない。
しばらくベッドに横になったまま、
よみかけの本を手にとってながめる。
この時間がまたわたしはすきで、
本をめくっているうちに だんだんと意識がもどり、
そろそろおきるか、という気になる。

午後は、一杯の紅茶からはじめることがおおい。
そんなことをしていると、午後はすぐに夕方となり、
いちにちがあっという間におわってしまう。
なにしろ、半日しかうごいていないのだから あたりまえだ。
でも、昼寝とはそういうものだとおもっていた。
スペインのシエスタだって、たった30分ではないはずだ。
まえにスペインを旅行したとき、おおくのお店が
夕方まで営業をやすむので、かなり不便だった。
旅行者としてはありがたくない習慣だけど、
自分が昼寝する側となれば、はなしはべつだ。

なんとなく、たまにはちがう昼寝をしてみようと、
きのうは30分のアラームをセットした。
ひかえめな音なので、目ざまし時計のベルほどいやらしくない。
すぐねむれるのはいつものことだけど、目ざめがちがった。
アラームの音で目がさめると、すぐにベッドからおりる。
ながくねたときのような、べつの世界からもどったかんじはない。
シエスタというよりも、うたた寝なのだろう。

その日の午後は、やっておきたい用事がいくつもあった。
いつものみじかい午後では、とても無理だったのに、
昼寝に30分しか かかっていないぶん、時間に余裕がある。
ころもがえやら田んぼの水管理、それに大豆の種まきなど、
リストにあげていた用事をぜんぶかたづける。
すべてがスムーズにすすんだせいか、夜もゆったりとすごせ、
ついお酒をのみすぎたけど、昼寝のせいにはできないだろう。
とはいえ、きゅうに30分の昼寝をみとめるのは残念なので、
ながい目でみた場合、あんがい効果はトントンかもしれないと、
元シエスタ推進派としてかいておく。
からだによすぎて、トータルでは負担になる、という意味だ。
まけおしみだけど。

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2017年05月11日

老いの実感

朝日新聞の連載で、
北方謙三氏が これまでにかいてきた本と、
作家としておくってきた人生をかたっている。
この日のサブタイトルは、
「『70歳』響きほど老い感じない」だ。
小説を書いていて、70歳ということばの響きほど老いた感じはしてません。身体能力は落ちてますよ。たとえば・・・(と、潜水の例をあげる)

身体能力がおちているのはみとめながらも、
老いたかんじがしないとは、わたしの実感とずいぶんちがう。
わたしは55歳となるこれまで
それなりにわかさをたもってきたつもりだけど、
このところ皮膚のはりや表情などに
年を自覚させられる瞬間がふえてきた。
まわりから あからさまに老いを指摘されてはいないものの、
自分が自分のからだを どうとらえているかといえば、
北方氏とは反対に、もうじゅうぶん老いをかんじている。
気分は70歳の老人で、こんなにヘロヘロなのに
まだ55歳なのが不思議におもえる。

そして、身体能力はというと、
こちらは実感というよりも客観的なタイムとして
あきらかにおちている。
以前は30分そこそこでおよいでいた水泳の1500メートルが、
このごろはよくて34分、ひどいときは37分なんてのもあった。
50メートルの練習でも、以前より数秒おそい。
数秒なんて気にしなくてもいいだろう、というのは、
スポーツをしたことのないひとの発想であり、
経験者としては 以前のタイムとどうしてもくらべてしまう。

北方氏の記事は、映画『ストレイト・ストーリー』
(デビッド=リンチ監督)からの引用につづいている。
「年をとっていいことはあるかい」
「細かいことを気にしなくなる」
「じゃあ最悪なのことは?」
「若い頃のことを覚えていることだ」

まさにわたしだ。
55歳でがっかりするにじゅうぶんな身体能力のおちかたなのだから、
70歳になったときのガタつきが 心配になってくる。

ところで、わたしは連休ちゅうに2本のDVDをかりてみた。
『コールド・マウンテン』と『ゴーストバスターズ』(2016年版)で、
どちらも「みた」としかいえない、気のない鑑賞だった。
「みた」という事実をつくるために、
とにかくさいごまでつきあっただけだ。
そんな作品でも、みたからには、それなりの教訓をえて、
北方氏みたいに引用したい。
でも、おもいだそうとしても『コールド・マウンテン』は
ずっとくらいはなしがつづいたし、
『ゴーストバスターズ』はからっぽで、しかもわらえなかった。
アメリカの歴史ものと、1作目のヒットにすがるシリーズものには
ちかづかないほうがいい、という教訓を なんとかひねりだす。
そういいながら、わたしは2作目にかなりひっかかっている。
もうすこし年をとれば、こまかいことを気にしなくなり、
とぼしい魅力でも、わらってうけいれられるだろうか。

posted by カルピス at 22:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月10日

「ドラマ」も「メッセージ」もいらない

テレビをみていたら、
なにかあたらしい発見をした研究グループの紹介で、
「どんなドラマがあったのでしょうか」と
声をはずませたナレーションがはいった。
ドラマなんて、なくてもいいのに。
なにかを開発したり、おいしい野菜をつくった農家のひとに、
「どんなご苦労がありましたか?」とききたがる。

たとえばいまのサンフレッチェ広島のように、
どうやってもうまくいかないチームについて、
「なぜなのか?」をかんがえるのはたいせつだけど、
成功の背景に、もっともらしいストーリーをほしがるのはなぜだ。
道徳的なにおいのする鍛錬や愛をわざわざしりたくない。
わたしにだれかが「ドラマ」をたずねてくれたら、
「いや〜、なんとなくうまくいきました」
と正直にはなすけどな。

ラジオをきいていてよくあるのが、
インタビューなどのさいごで、
「それではさいごにリスナーのみなさまにメッセージを」だ。
さいごにあらためてメッセージをもとめなくても、
インタビューでききだしたことがすべてでいいのに。
「メッセージを」とたずねておけば
そつなくこなしたような「おりこうさん」っぽいところがいやだ。
新人アナウンサーならまだしも、
もうながらくラジオにでているアナウンサーが
これをやるのはなさけない。
型をくずそうと工夫し、あたらしいスタイルに挑戦してほしい。

「◯◯が、なかなかよい」とブログの題にかいてあった。
「なかなかよい」はわたしにとってビミョーなことばで、
なんだかいさぎよくないような気がする。
ぜったいダメ、というほどではないけど、
タイトルにもってこられるのは抵抗がある。
「なかなかよい」とかかれた文章は、
わたしにとって「あまりよくな」さそうなので、
よまなくてもいいと判断しがちだ。

これらのささいな表現に いちいちひっかかるわたしは、
ずいぶんめんどくさい人間だ。
いずれもこのみの問題にすぎないので、
あまりひとには はなさないほうがいいだろうと、
こんなところにこっそりかいた。

posted by カルピス at 06:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする