2018年07月15日

ロゼワインのように、いいとこどりの年になればいいけど

梅をつけてから、だいたい1ヶ月たったので、
ザルにあけて日にほす。
いつもは梅雨あけまえに「1ヶ月」がくるので、
3日ほどのてんぴぼしが、なかなかできなかった。
雨やくもりの日に梅をほしても
ぜんぜん「梅ぼし」らしくないので。
ことしは、梅雨あけがはやく、
今週は鉄板のいいお天気がつづいているので、
梅ぼしづくりには最適の年となった。
きょうは最高気温が35℃で、
あしたもおなじような天気が予想されている。
梅ぼしのためには、またとない猛暑の日々だ。
あつければ、あついなりに、わるいことばかりではない。
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先日の朝日新聞に、ロゼワインがとりあげられていた。
白と赤のいいとこどりができるワインとして、
このところロゼの人気がたかまっているのだそうだ。
わたしは、白ワインと赤ワインを
それぞれおいしいとおもってのむけれど、
ロゼについては、とくにこころをうごかされたことがない。
わたしにとってのロゼは、「いいとこどり」よりも、
「どっちつかず」のワインにうつる。
しっかりしたロゼを、のんだことがないからなのだろう。
ただ、どうせロゼだから、と先入観がじゃまをして、
どんなロゼをのんでも、
「どっちつかず」とおもうような気がする。
ロゼワインがどうこうよりも、わたしの気もちの問題だ。

きょうは、わたしの誕生日だ。57歳になった。
いいこともあれば、わるいこともある年ごろとなるのか、
ロゼのように いいとこどりができる一年にできるのか、
せっかくのロゼを、どっちつかずにしてしまうように、
ぼんやりした年にしてしまうのか。
けっきょくは気もちのもちようにおさまりそうだ。
いちばんいいのは、なにもかんがえず、
そのままをうけいれることだろう。
子ネコみたいに。

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2018年07月14日

西日本豪雨から一週間

一週間まえの集中豪雨は、西日本におおきな被害をもたらした。
死者・行方不明者の数が、発表されるごとにふえる。
わたしのすむ島根県は、亡くなった方はいないものの、
床上・床下浸水の被害がでている。
交通では、伯備線の復旧がおくれ、
山陰と山陽をつなぐ特急やくもの運転がとりやめになっている。
物流がとだえ、コンビニでは、
パンやお弁当がはいらなくなり、スカスカな棚がある。

きのうからは、猛暑となり、
被災地での復旧作業がきびしがましている。
水がとまったままの地区もあり、
そんななかでの避難生活とあとかたづけは
どれだけたいへんだろう。

6日と7日の二日間に各地でふった雨量が発表されている。
そのグラフをみると、25ある観測地のなかで、
松江の雨量がいちばんすくない。
松江では、7日(金)によくふったので、
ことしの梅雨はすごいなーとおもっていたのに。
ほかの市や町は、松江の数倍もふっているところばかりだ。
そのすくなかった松江でさえ、はげしい雨がながい時間つづき、
川があふれそうになり、こわいおもいをした。
その数倍もの大雨だった地域は、
いったいどれだけすごい雨だったのだろう。

わたしのむすこは広島市の大学へいっていることから、
なんにんもの方から
「むすこさんのすむところは大丈夫でしたか?」
と気づかってもらった。
さいわい直接の被害にはあわなかったと、
むすこから配偶者に連絡があった。
わたしはというと、むすこが広島にいることをしりながら、
被害にあったかもしれないなんて、すこしもかんがえなかった。
子ばなれができている、というよりも、
まったく意識にないほど無関心なわけで、
自分がひどくゆがんだ人間におもえてきた。
むすこの心配さえしない人間が、
もしもほかの地域や国で災害がおきたとき、
正常に想像力をはたらかせて 気づかえるだろうか。
自分のことばかりかんがえてないで、
自分のまわりでおきていることを
もっと気にかけなければ、と反省する。
のんびりくらしすぎていて、
ひとの世のよろこびやかなしみを
かんじられなくなったらひどい。

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2018年07月02日

夏は水シャワー、そして水風呂にかぎる

けさ「きらクラ!」の再放送をきいていたら、
ふかわりょうさんが、夏ならではの音として、
サイクリングのあとに水シャワーをあびるときの
もんぜつする音を再現していた。
ふかわさんは、朝のサイクリングを日課にしており、
そのあとあびるキンキンにひえた水シャワーが
たまらないのだという。

水道水からでる水は、冷蔵庫とは関係ないのだから、
キンキンにひやされて サービスされるはずがない。
温水ではなく、すこしもあたためてない水をあびると、
たしかにものすごくつめたくかんじるので、
ふかわさんはそれを おもわずおおげさに
「キンキンにひえた」と表現したのだろう。

キンキンかどうかはともかく、
とても気もちよさそうに ふかわさんがはなすので、
わたしもやってみたくなった。
きのう・きょうと、わたしがすむ町も、気温34℃と
梅雨あけまえとしては めちゃくちゃなあつさで、
ゆうがた職場のちかくをジョギングしたときは、
まだ気温が32℃もあった。
からだがあつさになれてないので、
いつもより さらにゆっくりはしる。
そして、クールダウンにヒンズースクワットを300回してから
シャワーをあびた。
はじめは温水で汗をながし、そのあと水にきりかえて
からだの熱をおさえる。
たしかに気もちいいし、そのあとあるいて家にかえっても、
まだからだはすずしさをたもっている。
部屋の温度が32℃もあったのに、
ぜんぜんあつくなく、26℃くらいにかんじられた。
夕ごはんをたべるにつれ、またあつくなってくるわけだけど、
水シャワーをあびたあとのすずしさは、なかなかオツなものだった。
温水だけのシャワーでは、いつまでも汗がひかない。
さいごは水シャワーにきりかえ、しばらくモンゼツするのがコツだ。
夏のあつさをのりきる、ヒントがかくされているのかも。

わたしは わかいころ農業研修で、標高500メートルの村で
一年くらしたことがある。
冬は雪にとざされるかわりに、夏はすごしやすい。
昼間は30℃以上に気温があがるけど、夜になると、
冬のかけふとんが必要なほどすずしい。
その村ですごすとき、夏は昼ごはんをたべるまえに
水風呂につかった。
山の水をホースでひいているので、
おおげさでなく「キンキン」にひえている。
はげしいのら仕事で 熱をもったからだを 水風呂にひたすと
ふかわさんがいうところの、
しばらくはモンゼツの声をあげたくなるほどつめたいけど、
そのうちにからだがなれて 快感にかわる。
そのあとしばらく からだスベスベ状態がつづき、
生まれかわったように 世界を肯定したくなる。

きょうの「きらクラ!」をきき、ひさしぶりに水シャワーをあびたら、
記憶がいっきによみがえり、水風呂のたのしさをおもいだした。
夏のあつさをためくよりも、あつさをごちそうにかえる工夫があれば、
得がたい季節として 夏をもっとまちわびるかもしれない。
はじめから水シャワーでは、汗がながれないので、
しばらく温水をあびたあとのほうが水シャワーは気もちいい。
ただからだの熱をさましただけなのに、
そのあとビールがなくても、しあわせなひとときを味わえる。
適切に水分をおぎない、からだの熱を水シャワーや水風呂でさげれば、
あつさもまた 季節ならではの けっこうなおたのしみとなる。
まず汗をしっかりかききるのが 水シャワーへの第一歩であり、
ねぼけたからだでシャワーにうたれるだけでは、
水シャワーの快感を味わえない。

posted by カルピス at 21:24 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月26日

「なんとかならなくても別に構わない」という諦観にひかれる

倉下忠憲さんのブログに、以下のかんがえ方がかかれている。
「未来に対する気質」について少し考えていたんですが、私はたいてい「なんとかなるなる」と気楽な心持ちでいるのですが、むしろその背景に「なんとかならなくても別に構わない」みたいな、一種の諦観に近いものが潜んでいるのではないか、ということに思い至りました。
https://rashita.net/blog/?p=24901

「なんとかならなくても別に構わない」
がいいかんじだ。

わたしは基本的に、「きっとうまくいく」とかんがえ、
「うまくいかなかったら、そのときにまたかんがえる」派だ。
これは、村上春樹さんの
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で、
「僕」が、ふとった女の子にこうはなしているのをよみ 影響された。
このことばにであってから、
心配してもしょうがないことに 気をとられるのをやめた。
こまったら、そのときにまたかんがえればいいのだ。

倉下さんは、うまくいかなかったとき、
村上さん流の処世術の、さらにそのうえをゆく。
「そのときにかんがえる」のではなく、
「なんとかならなくても別に構わない」は最高の対応方だ。
きっと自分にふりかかってきたよくない状況にたいし、
まあ、こうなってしまったものはしょうがないと、
ジタバタせずにあきらめる 気もちのもち方を
身につけておられるのだろう。

健康診断などで、よくない数値だったり、
へんな影がうつっていたときに 再検査をすすめられ、
その結果をまつときのいやな心境は、
すくなからぬひとが、体験されているのではないか。
たいていは、なんともありませんでした、でおわるけど、
ときには「家族のかたにもきてもらい、いっしょにきいてほしい」
なんて、たのしくないなりゆきになるときもある。
倉下さんは、そんなときにも、
「なんとかならなくても別に構わない」とおもえるのだから、
最強のサトリをひらけたといえる。

科学が発達し、世のなかが便利になっても、
すべての欲求をかなえられるわけではない。
お金をいくらためこんでも、しあわせとはあまり関係ないし、
健康がいちばんといっても、おそかれはやかれ ひとは死んでしまう。
動物は、死をまえにしても、おそれをもたず、淡々と生きつづける。
人間もまた、生物の一員として、
「なんとかならなくても別に構わない」と
ちからをぬいて生きたほうが
いちどきりしかない人生を、自分のものにできるのではないか。

posted by カルピス at 22:11 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月17日

藤井聡太七段に、クリームソーダの のみ方を「指導」しましたという師匠の杉本七段がいいかんじ

朝日新聞に藤井聡太七段のおさなかったころのようすが
連載で紹介されている。
きょうの記事は、藤井七段が、
師匠の杉本七段に弟子いりをもうしこむ場面だ。
藤井さん(当時小学4年生)は、
母親といっしょにコメダ珈琲店のテーブルにすわっている。
クリームソーダを注文した藤井さんは、
うまくのめないで、ソーダ水をテーブルにこぼしてしまった。
藤井にあまり指導した記憶は無いんですが、この時は、「こうやって飲むもんだよ」と先にソーダを飲むことを指導しました。

と杉本さんが当時をふりかえっている。
本職の将棋では、すでにおしえることがなくなっているけど、
ソーダ水の のみ方は「指導」しましたという、
これは杉本七段のジョークだろう。
記事にのっているクリームソーダの写真をみると、
たしかにクリームの部分がすごくおおきくて、
適切な「指導」がなければ、うまくあつかえないかもしれない。
この記事の論旨は、ソーダ水ののみ方ぐらいしか、
藤井七段にはおしえることがなかった点にある。
そして、弟子と師匠との関係であっても、
あまりていねいにおしえすぎないのが、将棋の世界では一般的だ。
おしえるのは、ソーダ水の のみ方ぐらい。
未熟な指導者は、ついあれこれおしえたがるけど、
自分でかんがえるちからをやしなうためには、
あまり「指導」しないほうがいいというのが最近の風潮だ。

すこしまえの新聞記事に、
観客席のないサッカー場をつくろうとしている
埼玉県サッカー協会のとりくみがのっていた。
大事にしなければならない存在だとはわかっているが、口を出しすぎる親が多すぎて、すぐ近くで見ていてくださいとは言えない状況が現実にある。

わたしはまえに、少年野球の練習風景をみて、
子どもたちにむかい罵声をあびせる指導者がいておどろいた。
きびしい指導と、口ぎたなくののしることを、ごちゃまぜにしている。
指導者がそんなふうだと、おしえられる子どもたちが不幸だ。
そして、練習や試合をみまもる親たちもまた、
熱心であればあるほど、やっかいな存在らしい。
みればいろんなことをいいたくなるだろうし、
結果をともなわなければ、指導者を批判する親がでてくるのだろう。
「保護者の観覧はご遠慮ください」といってもきかないのであれば、
観客席をなくすのが いちばんてっとりばやいのだろう。

将棋は、たとえ弟子と師匠の関係でも、対局すれば全力でたたかう。
順位に年齢は関係なくて、いい成績をのこせば上のクラスへあがるし、
まければ下にさがり、年下の棋士と対戦しなければならない。
ただ、師匠は師匠であり、将棋だけでなく
あらゆる面で自分をそだててくれる存在として、
藤井七段と杉本七段の関係はかわらない。
棋力ではすでにさきをいかれたけど、
ソーダ水の のみ方は「指導」しましたと、
やわらかいジョークで藤井七段とのであいをかたれる
杉本七段のふところのおおきさがいいかんじだ。

posted by カルピス at 21:29 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする