2024年03月24日

『パーフェクト デイズ』

『パーフェクト デイズ』
(ビム=ベンダース:監督・2023年・日本)

毎日おなじ時間におき、歯をみがき、木に水をやる。
アパートの玄関をでると缶コーヒーをかう。
カセットテープをききながら車をスタートさせる。
仕事がおわれば銭湯へいき、湯船にふかくからだをうずめる。

毎日おなじような日のくりかえしにおもえるけど、
でもじっさいは、すこしずつちがう「事件」がおきている。
トイレ掃除にはいってるとき、子どもがとじこもってないていたり、
しらないだれかと 五目ならべみたいに
マルとバツでコミュニケーションをとったり、
同僚がきゅうに仕事をやめ、彼の穴をうめるため
いちにちじゅうはたらいたりでおなじ日はない。
そんな一日いちにちを、彼はたいせつに生きる。
サイテーな気がしていても、いちにちがおわれば
それはそれでその日もパーフェクトデイだ。

気にいった苗をみつけたり、なじみの店でひといきついたり、
うまくいく日ばかりではない。
なじみの店でおかみさんのしらなかった過去にふれ、
気もちがおおきくゆれても、それもまたパーフェクトデイ。
まいにちが、それぞれにパーフェクトデイであり、
そんないちにちいちにちをつみかさねていくしかない。
どれだけ自分でパーフェクトデイを演出するか。

だれともかかわらないで生きているようにおもえても、
じっさいはいろんな人とのコンタクトがある。
毎日のように顔をだす一杯のみやへいくと、
「おつかれさま」と声をかけられる。
古本屋で100円の本をかおうとすると、
その作家について、店主からひとことコメントがある。
写真店にフィルムをもっていくと、
前回の分をやいてまっていてくれるし、
なじみの小料理屋へゆけば、おかみさんや常連客と、
気のおけない時間をすごせる。
ただたんたんと、毎日を生きつづけるうつくしさ。

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2022年07月22日

『PLAN75』老後って、あんなにくらいだけなの?

『PLAN75』(早川千絵:監督・2022年・日本)

75歳以上のひとは、自分で死をえらべる、
というちかい将来の日本が舞台になっている。
歳をとり、くらしがたいへんになった老人のなかには、
一時金の10万円をうけとり、死ぬまえにほんのすこしたのしめたら、
この世とおわかれするのもわるくないか、というひともでてくる。

医療費や介護費のやりくりになやむ行政にとって、
財政的には一理あるかんがえ方なんだろうけど、
倫理的な点からも、問題にみちた制度にみえる。
それにしても、高齢期をむかえるのは、
こんなに悲惨なことなのだろうか。
つらい日々をすごしているひともいるだろうけど、
老後をたのしんでいるひとだってすくなからずいるはずだ。
作品では、おいのみじめな面ばかりがえがかれるので、
みおえたあと、くらい気もちになった。
お金があれば、「PLAN75」なんかに
もうしこまなくてもよさそうだし、
年金がすくなくても、あるだけのお金で
それなりにくらしていけばいいのに、におもう。

主演の倍賞千恵子さんは78歳という設定で(実年齢は81歳)、
寅さんのさくらでしられるあのきれいな倍賞さんが、
歳をとるとあんなにも「老人」になるのか、とショックをうける。
ホテルの清掃スタッフとしてはたらく場面が冒頭にあり、
倍賞さんのあまりにも歳おいた表情が衝撃的だった。

わたしは漠然と75歳くらいまで生きられたらいい、と
おもっているし、ひとにもはなしてきた。
映画をみたあと、いみじくも、
自分が75歳で線をひいていたことをおもいだした。
なんで75かというと、年金をうけとれる 65まではたらいて、
そのあと10年ゆっくり老後をたのしめたら、
そろそろ死んでもくいはないだろう、くらいな計算だ。
75歳という年齢が、映画みたいにくらいだけとはおもいたくない。

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2022年04月26日

『コーダ あいのうた』音がきこえないコンサートにショックをうける

『コーダ あいのうた』
(シアン=ヘダー:監督・2021年・アメリカ・フランス・カナダ合作)

女子高校生のルビーは、両親と兄がろうあ者で、
家族のうち自分だけ耳がきこえる環境でそだった。
父・兄と漁にでかけ、「通訳」として家族をささえている。

高校の授業で、あたらしく合唱をえらんだルビーは、
担当の先生から歌の才能をみとめられ、
コンサートでのデュオにえらばれたほか、
音楽の大学へもすすむように声をかけられる。
もともとうたうのがすきだったルビーではあるものの、
「通訳」として家族とすごさなければならず、
じっくりとうたのトレーニングにとりこむだけの時間がない。

ろうあ者、そしてコーダ(親がろうあ者で、自分は聴覚のある子ども)
としてそだったルビーの気もち。
家族をほこりにおもいながらも、まわりの目を気にするルビー。
家族のなかで、自分だけがのけものな存在ともかんじている。
両親は、高校を卒業後もルビーが町にのこり、
家の仕事(漁)を手つだってくれることをのぞんでいる。
ルビーも、うたへの情熱をむりやりおしころし、
家族のために進学をあきらめようと いったんは決意する。
しかし、学校のコンサートでうたうルビーをみて、
父親は、この子がもっとかがやくためには、
家族の犠牲にしてはいけないとおもうようになる。
「ここ(陸上)でみる星は、海でみる星ほどきれいじゃない」
という、漁師らしい気づきだ。
家族は、大学にすすむためのオーディションにルビーをおくりだした。

学校でひらかれたコンサートをきいているとき、
ルビーの両親は、キョロキョロとまわりのお客さんをのぞきみる。
自分たちのむすめがうたうのを、みんな熱心にきいているようだ。
両親は、ほっとするけれど、自分の耳ではきけないので、
音楽に集中するよりも、行儀のわるいそぶりをやめられない。
しかたのないひとたちだ、とわたしは上から目線でみていたけど、
ルビーがデュオでうたい、これからが曲のクライマックス、
というときに、すべての音がとつぜんきえた。
ふつうの作品なら、ルビーの熱唱に焦点をあてる場面だろう。
ヘダー監督は、音のない世界を観客に体験させる。
音がきこえないとは、こんなにもたよりないものなのか。
わたしは、ろうあのひとたちのもどかしさを、
ほんのすこしながらしることができた。

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2022年04月08日

トランクにいれた死体をどう処理するか

友情についてかかれた河合隼雄さんの本をよんでいたら、
こんな記述が目にとまった。
彼は若いときに自分の祖父に「友情」について尋ねてみたら、祖父は、友人とは「夜中の12時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ」と答えた、というエピソードを披露してくれた。(河合隼雄『大人の友情』)

河合さんが、ユング派の分析家、アドルフ=グッゲンビュール
の講義をきいたときのおもいでだ。
おどろいた。まるで『パルプ・フィクション』ではないか。
2人のギャング(トラボルタとサミュエル=L=ジャクソン)が、
死体の処理にこまり、しりあいのジミー(タランティーノ)に
たすけをもとめる場面がまさしくこれだ。
タランティーノは、どこかでユング派の心理学をまなんだのだろうか。
とはいえ、ジミーは親身になってふたりをたすけたりせず、
なんでこんなのをつれてきた、とひたすら悪態をつく。
小市民がギャングに説教をたれる、
というカジュアルさがなんどみてもおもしろい。
「俺の家の前に”ニガーの死体預かります”って看板が出てたか?出てないよな?何で俺の家の前に”ニガーの死体預かります”って看板が出てなかったと思う?
俺の家じゃ、ニガーの死体は預からねえからだ!!」

あなたがもしトランクにいれた死体にこまっていたら、
河合隼雄さんの本をおもいだし、しりあいにたすけをもとめるよりも、
『パルプ・フィクション』のほうが
リアルな現実だとおもいだしたほうがいいかもしれない。

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2022年01月01日

『フリーダム・ライターズ』すさまじい環境で生きる生徒たちが、自分をとりもどしてゆく変化が圧巻

『フリーダム・ライターズ』
(リチャード=ラグラヴェネーズ:監督・2007年・アメリカ)

すばらしくて、みおわったあと、しばらくうごけない。
主演は『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー=スワンク。
ダメなやつら、ときめつけられたクラスを、
ひとりの熱心な先生が中心となって、
たてなおしていく作品はいくつもあるけど、
『フリーダム・ライターズ』は圧倒的なリアリティーが胸をうつ。

ロサンゼルス郊外にある公立高校で、
新人教師のエレンが203教室をうけもつことになる。
当時のロサンゼルスは、人種差別による暴動が日常的におこり、
人種ごとの対立が高校にまでもちこまれ、クラスはあれはてていた。
生徒たちは、それぞれがすさまじい環境のもとで生きている。
ともだちや家族がころされた体験を、ほとんどの生徒がもっており、
だれも高校での教育なんかに期待してない。
クラスは人種ごとにグループがはっきりわかれ、
おたがいがにくしみあっており、
おだやかに授業ができる状況ではない。
エレンはそんな彼らの体験をしると、
国語の授業だけではどうにもならないとかんがえる。
日記をかくよう提案したり、社会見学にでかけたり、
生徒たちが自分の身のまわりだけでなく、
ひろく社会でおきていることに関心をもつようみちびいてゆく。

はじめ生徒たちは、白人であるエレンへにたいし、
不信感にみちており、なにも期待していない。
エレンの誠実さが、すこしずつ生徒たちのかたいこころをひらき、
やがてクラスを家族とまで生徒たちがいうようになる。
それまで自分を尊重されたことのなかった生徒たちが、
しだいにおたがいをうけいれていく変化が圧巻だ。
自分でかんがえるちからを生徒たちはつちかい、
エレンはすこしずつ彼らから信頼をよせられるようになる。
生徒たちがかいた日記は、まとめられて一冊の本になり、
おおくの203教室をうみだすように、
「フリーダム・ライターズ基金」が設立されたという。

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