2017年09月19日

いまさらながら『ニュー・シネマ・パラダイス』

『ニュー・シネマ・パラダイス』
(ジュゼッペ=トルナトーレ:監督・1988年・イタリア)

まえにいちどみたことがあるけど、
このごろたびたびこの作品の名前や音楽が耳にはいるので、
なんとなく気になっていた。
図書館でかりて、もういちどみてみる。
(以下、ネタバレあり)

おもしろいけど、こんな内容だったっけ。
とくに、さいごのほうは、まったく記憶にない。
とおもっていたら、どうもこの作品には、
劇場公開版と、完全オリジナル版があるようで、
まえにわたしがみたのはおそらく劇場公開版だったのだろう。

有名なラストをみても、わたしにはピンとこなかった。
自主規制していたキスシーンをあつめただけじゃないか。
そんな程度にしか行間をよみとれないわたしは、
いかに映画オンチかをおもいしらされる。

そうか。ふたりの愛をじゃましたのは、
アルフレードのしわざだったのか。
いまさらどうしようもないけど、
もしわたしがそんなことをされたら 納得できそうにない。
有名になるより、すきな女性とむすばれたいにきまっている。
劇場公開版と完全オリジナル版とのちがいは、
テーマを映画への愛にするか、
女性への愛にするかのちがいかもしれない。

それにしても、キスシーンがこれだけあつまると
キスというのがじつに自然な行為なのだとわかる。
はずかしがらずに、せいいっぱいキスしておかなくては。

なきながらスクリーンをみて、
おもわずつぎのセリフをくちにする男性。
完全にこころをときはなち、おおわらいしている男性。
映画には、みているひとのこころを浄化するちからがある。
映画はかつて、こんなにもひとびとが必要とし、
くらしのなかにしっかりと根づいていた。
ないたり わらったりの娯楽というよりも、
生きていくうえで、なくてはならない存在だった。

映画そのものをあつかった作品がたくさんあるなかで、
なんだかんだいっても、けっきょくは
『ニュー・シネマ・パラダイス』にとどめをさす。
映画へのおもいに、いまも むかしもない。
作品の理解にちがいがあっても、
映画がすきなひとには、たまらない作品だ。

posted by カルピス at 21:28 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月18日

『イコライザー』必殺仕掛人みたいなデンゼル=ワシントンの格闘術

『イコライザー』(アントワーン=フークア監督・2014年・アメリカ)

ストーリーはいたって簡単だ。
元CIAの諜報部員だったマッコール(デンゼル=ワシントン)は、
いまは平凡な中年男性として、町のホームセンターではたらいている。
いきつけの食堂でしりあった まだおさない娼婦が、
ある日、元じめのマフィアにひどくキズつけられる。
マッコールは、マフィアの事務所をたずね、
少女をひきとる交渉にのぞむが、まったくあいてにされない。
諜報部員だった自分のちからをふうじてきたマッコールだが、
いまや忍耐の限界をこえてしまった。
その場にいたマフィア5人を、一連のはやわざでみなごろしにする。
その間、わずか19秒。

このマフィアは、ロシアのマフィアとつながっていた。
自分をころすまであいてはあきらめないとしったマッコールは、
ロシアンマフィアのトップであるプーシキンをたおすまで
たたかいつづけるときめる。

イマジカBSをつけたら たまたまやっていた作品で、
そのままズルズルとさいごまでみてしまった。
ありがちなストーリーで、ウソみたいにつよい主役の活躍も、
じょうずにつくってあり気にならない。
これだけの圧倒的なヒーローをえんじながら、
いやみをかんじさせないデンゼル=ワシントンはたいしたものだ。

マッコールの格闘術がすごい。
状況を観察したうえで、何秒であいてをたおすかをきめ、
時計のストップウォッチをおしてから 仕事にかかる。
はじめに5人のマフィアとたたかったときは、
16秒を予測し、実際は19秒だったので、
自分の仕事に満足していない。
『ザ・ウォーカー』みたいだなー、とおもっていたら、
あの作品も、デンゼル=ワシントンだった。

復讐の鬼とかしたマッコールは、
職場であるホームセンターにきたチンピラも
もはやゆるしておけない。
レジのお金と、レジ係の指輪をうばい、車でたちさるチンピラ。
マッコールは、じっと車の特徴をおぼえ、
やおら店にひきかえすと、うり場にあったハンマーを手にとって、
なにかを決意したようにみえる。
つぎのシーンで、血まみれになったハンマーを、
マッコールがタオルでぬぐっている。
いちどきれてしまうと、ロシアンマフィアだろうが、
町のチンピラだろうが、マッコールは容赦しないのだ。
この作品ちゅう、いちばんのみどころといっていいだろう。

posted by カルピス at 13:17 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月17日

『私はダニエル・ブレイク』ひとりの市民としての尊厳を

『私はダニエル・ブレイク』(ケン=ローチ監督・2016年・イギリス)

すごい映画をみてしまった。
ダニエルのまっすぐな生き方に、最後まで圧倒される。
(以下、ネタバレあり)

59歳のダニエルは、心臓の病気をかかえ、
医者からはたらくことをとめられている。
これまで国からの手当をうけてくらしてきたが、
支援手当の継続検査では、はたらけるので 手当は中止、
という結果がつたえられた。
不服審査にうったえようとしても、手つづきがあまりにも複雑だし、
制度そのものが、こまっているひとをたすけるようにできていない。
求職者手当を申請するために職安へいっても、
手つづきはネットによってのみうけつけられ、
パソコンにうといダニエルは、
申請書をダウンロードするのさえむつかしい。

ダニエルは腹をたてながらも、
あきらめずに手つづきをすすめようとする。
はたらけないのに、行政からは求職活動の実績をもとめられ、
履歴書をもって仕事をさがすけど、
申請のきまりとして、求職活動を証明するものがないと、
うけつけてもらえない。
こまっているものをたすけるのが行政の役割なのに、
どの窓口へいっても彼らの仕事は
よわいものたちをはじきだす方向でしか機能していない。

行政からは、はたらけるのに なまけているとほのめかされ、
ダニエルがどの窓口をたずねても、
とうてい納得できない理屈でおしきろうとされる。
行政のいうとおりに申請をだそうとしても、
オンラインサービスはわかりにくいし、
電話では、担当者になかなかつながらない。
行政の窓口をおとずれるたびに、
みじめな気もちにさせられるばかりだ。
無能で問題のある人間として、さげすまされたあつかいをうける。
良心的な職員がいても、制度じたいに問題があるため、
こまっているはどんどんきりすてられてしまう。

病気でたおれたりして、いったん歯車がくるうと、
ずるずるとセーフティーネットからこぼれてしまう硬直した社会制度。
歳をとり、病気やアクシデントでからだの自由がきかなくなったとき、
まずしいものは、どうやってくらしていけばいいのか。
ダニエルの設定年齢は59歳なので、わたしとあまりかわらない。
わたしだってからだをこわせば、すぐに生活がなりたたなくなる。
なんとか仕事についているけど、ほんのちょっとしたできごとで、
どちらにころぶかわからない 不安定なところにたっている。
だれだってそうしたリスクをかかえながらくらしており、
だからこそ正直に生きるものが、
つらいおもいをするような社会であってはならない。
ダニエルのかなしみとやるせなさが、
自分のことののように身につまされる。

それでもくじけずに、毅然として生きるダニエルは、
胸をはり、はやあしで堂々とあるく。
いいことはいい、ダメなものはだめ。
人間としての尊厳を、いつも大切に生きてきた。
ながいものにまかれず、できるだけただしくあろうとするし、
自分の生活だっておさきまっくらなのに、
こまっているひとをほっておけない。
行政にたいして正当ないかりをつたえ、
たすけが必要なひとには手をさしだす。
それらをあたりまえなこととして、行動にうつせるがダニエルだ。

映画のおわりのほうで、
ダニエルが、手当の審査に不服をもうしたてるとき、
行政にうったえようと、自分のかんがえを紙にまとめていた。
ひとりの市民として、まじめにはたらき、税金をおさめ、
それをほこりにおもって生きてきたのに、
自分のような人間をずっとないがしろにしてきた行政へのいかり。
ほどこしをうけようとはおもわない。
自分は番号ではなく、ひとりの人間であり、
市民として尊厳をもってせっしてほしい。
しかし このうったえが、
ダニエルの口から直接つたえられることはなく、
映画はかなしみのラストをむかえる。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月31日

意外とむずかしいラズベリー賞

ラジオをきいていたら、ラズベリー賞が話題になった。
家にもどってからウィキペディアをみると、
へたな演技やサイテーな作品におくられる賞らしい。
毎年といってもおおげさでないくらいに、
シルベスター=スタローンとマドンナが名をつらねている。
『ワーキング・ガール』のメラニー・グリフィスも常連さんだ。
ほかにも、なんども名前があがっている役者さんがいる。
ヘタといわれてもめげずにつづけたから
スターになったのかもしれない。
それとも、ヘタなひとは、ずっと安定してヘタなのだろうか。
ラズベリー賞をうけたひとのなかには、
アカデミー賞の受賞者もいるので、
そのヘタをかわれて監督にえらばれ、
ヘタをいかすよう上手に演出したら
おもってたよりもうまくいったのかもしれない。
うまいといわれているひとがラズベリー賞をもらった場合は、
そのまま監督の演出がひどかったのだろう。

なんねんかまえのお正月にみた『ロッキー3』は、
すさまじくひどかった。
いくらお正月の深夜番組といっても、
ここまで退屈だとすくいようがない。
でも、ほかの局だって、三流映画ではないにしても、
にたりよったりのうすっぺらな番組だったので、
がまんくらべのように しばらく『ロッキー3』につきあった。
深夜にすごしたトホホな時間として、いまでも記憶にのこるお正月だ。
サイテーな作品にも すこしはすくわれる面がある。
それこそラズベリー賞の趣旨ではないだろうか。
『ロッキー3』は、つくられた年のラズベリー賞をのがしているので、
ほかにも もっとうわてがいたことになる。
映画の世界はさすがに奥がふかい。

名誉挽回賞なんて部門がつくられる年もあり、
スタローンは2015年に『クリード チャンプを継ぐ男』で
この賞を受賞している。
常連さんが、名誉挽回賞を受賞してうれしいかどうかは、
本人にきいてみないとわからない。
あそびなんだから、あんまりリアルにやらないほうが、ともおもうし、
そうやって適切な評価をかかさない目くばりも大切におもえる。

posted by カルピス at 21:36 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

『PK』(ラージクマール=ヒラーニ:監督・アーミル=カーン:主演)

『PK』(ラージクマール=ヒラーニ:監督・2014年・インド)

『きっと、うまくいく』のアーミル=カーンが主役をえんじる。
評判がいいし、アーミル=カーンなので、
おもしろくないわけがないと期待してかりた。
153分とながい作品で、なかなかはなしがうごきださない。
前半は、ものがたりの伏線をかためる作業がしつこいほどつづき、
それぞれの配置がきまった まんなかへんから
いっきょにものがたりがすすんでいく。
この作品をえがくには、153分が必要だったと
全部みおわったときに納得できる。
『カラマーゾフの兄弟』をえがくには、
あのとほうもないながさが必要なのとおなじだ(ほんとか!)

以下ネタバレあり。
地球を調査するためにやってきた宇宙船から、
宇宙人がひとりインドの砂漠におりたつ。
宇宙船と交信するリモコンを、冒頭でいきなりうばわれてしまい、
彼(PK)は、ことばも風習もわからないインドに、
なすすべもないままほうりだされる。
神さまならたすけてくれるというので、
いろんな神さまにすがり、リモコンがもどるようにおねがいする。
しかし、どの神さまも、PKのねがいをきいてくれない。
なぜ神さまがたすけてくれないのか、
PKはいろいろかんがえるうちに、宗教の本質にせまっていく。

宗教批判にうけとれる場面があり、
よくこの作品がインドでつくられたものだと感心する。
いくつもの宗教が混在し、現実の問題として
きびしい対立関係にあるインドだからこそ、
うけいれられたのかもしれない。
インドで宗教をあつかうというと、
いろいろタブーがおおそうだけど、
宗教が身ぢかな存在なだけ、
あるていどは自由に発言できるのだろうか。
なぜ神にすがってもききいれてもらえないのかは、
おおくのひとたちがもつ共通の疑問だ。

シリアスな問題を、わらいにつつんで
映画にとりいれるのに成功している。
まさか、オープニングに登場した男性が、
ラストの鍵をにぎるとは、まったく予想していなかった。
PKをえんじるアーミル=カーンの、
存在そのものがみごとに宇宙人っぽい。
耳がでかくて、目をかっとひらき、
カトちゃんダンスみたいなはしりかたをする。
宇宙人がいるとしたら、PKみたいな外見ではないだろうか。
みおわったときのさわやかさがすばらしい。
PKもまた、『アホは神の望み』でいう
「神はバカ正直なひとにほほ笑む」典型的なアホっぽいひとだ。
でも、神はPKがバカ正直だからほほえんだのではない。
地球より はるかにひろい宇宙をしっているPKは、
地球人のいう神よりも、本質的な「神」を理解している。

posted by カルピス at 22:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする