2017年11月16日

『ライオン〜25年目のただいま〜』

『ライオン〜25年目のただいま〜』
(ガース=デイヴィス:監督・2016年・オーストラリア他)

インドのいなか町でくらす5歳のサルー。
スラムよりもちょっとまし程度のまずしい集落だけど、
兄と母親からたっぷりの愛情をそそがれ、しあわせにくらしている。
といっても、母親は石はこびのきびしい仕事につき、
兄とサルーにしても、はしっている汽車にとびのって
石炭をちょろまかして小銭をかせがなければ、
くらせないような最低限のくらしだ。
(以下、ネタバレあり)

兄が仕事にでかけるというので、サルーもついていきたくなった。
自分は子どもではなく、ちゃんと仕事ができるとダダをこねるので、
兄のグドゥはしかたなくつれていく。
ねむくなったサルーは、駅のホームのベンチでよこになり、
グドゥひとりが仕事をさがしにいく。
目をさましたサルーは、
だれもいないホームにひとりだけになっていた。
さみしさと混乱から、兄をさがしまわるうちに、
のっていた列車がうごきだしてしまう。
まっくらな駅のぶきみさとこころぼそさ。
あとにしてきた町でさえ、さきのみえない最低なくらしにみえるのに、
兄とわかれたサルーは 完全なひとりぼっちとなる。
回送列車だったので、駅でののりおりがないまま2.3日はしりつづけ、
サルーがすんでいた町から
1600キロもはなれた カルカッタについた。

大都会、カルカッタのものすごいひとごみと、よるべのない絶望感。
駅でくらす孤児たちのちかくですごしていると、
ひとさらいが子どもたちをつかまえにくる。
ホームレスとして町をさまよい、数ヶ月をすごすうちに、
孤児院へとながれついた。
ここまでが前半部分。

そこからの第2部は、場面をオーストラリアにうつす。
孤児たちにそだての親を斡旋する慈善事業で、
サルーはオーストリアにわたり、
養子としてそだてられることになる。
サルーのあたらしい人生が、インドからはるかとおく、
オーストラリアのタスマニアではじまる。

時計の針は一気に20年すすみ、サルーは大学生となった。
オーストラリア人の両親としあわせにくらしながらも、
おさないころをすごしたインドをわすれられない。
兄や母親との生活が、しきりにサルーの脳裏をかすめる。
仲間とはなしているときに、グーグルアースをつかえば、
かすかな記憶から、自分がすんでいた町を
かなりのていど推測できるのでは、とおもいつく。
兄と母に、愛情ぶかくそだてられた記憶から、
自分が家族のことを気にとめるとおなじように、
ふたりもまた 自分のことを心配しているとサルーは確信している。
パソコンにむかううちに、インドにのこしてきた家族を
自分がどれだけふかくもとめているかに気づく。
仕事をやめ、部屋にこもり、ルーツさがしにのめりこんでいく。

生みの親と、そだての親。
パソコンでの検索は、そだての母親であるスーを、
うらぎりっているようにおもえ、サルーはなやむ。
あるときスーがサルーに、
「子どもはもてた」とうちあける。
子どもはもてた。でも、いまの時代に
自分の子どもをうむことに、なにか意味があるだろうか。
それよりも、そだてる親をうしなった子どもたちに
あたらしい愛をあたえるほうが、
自分には意味があるとスーはかんがえた。
スーのふかい愛をしったサルーは、
感謝しつつも、インドへの旅だちをきめる。
いまをしあわせにくらしていても、
自分がどこからきたのか はっきりしらないことが、
こんなにもひとを不安定な気もちにさせるものなのか。

サルーのねがいどおり、
母親はいまもおなじ町にすみ、
サルーを気にとめながら生きていた。
25年目の、奇跡的な再会だ。
タイトルのライオンがなにを意味するかは、
じっさいに映画をみていただきたい。

インドのスラムで、5歳の子が みよりをうしなったときの絶望感。
自分の子をもてたのに、養母となる道をえらんだスー。
このふたつがあまりにも圧倒的で、強烈な印象をのこす。
「ライオン」をみたあとでは、謙虚な気もちになる。
夕ごはんのしたくをしながら、
ここにはすべてがある、天国みたいだと、ふとおもった。
きっと、これもライオン効果だ。

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2017年11月05日

『アイ・アム・ニューマン 新しい人生の見つけ方』

『アイ・アム・ニューマン 新しい人生の見つけ方』
(ダンテ=アリオラ監督・2012年・アメリカ)

「新しい人生」や「もうひとつの人生」って、
おおくのひとがいちどくらい夢みるのではないか。
やたらとおなじようなタイトルを目にする。
「見つけ方」と「はじめかた」も よくにていてまぎらわしい。
どっちにしても いまさら新鮮味がないので、
ほかの作品とまちがわないために、
「アイ・アム・ニューマン」をあたまにつけたのかも。

主人公の男性は、それまでの生活をチャラにして
再スタートをこころみる。
べつの人間としてうまれかわるために、
偽造した身分証明を用意した。
自分は海辺で行方不明になったようにみせかける。

この作品は、とりわけ男の夢かもしれない。
ベンツのオープンカーでの旅だち。
となりには偶然しりあったきれいな女の子。
トランクには札束のつまったカバンがおさまっている。
再スタートする町をめざしてのロードムービーだ。
内容は、たいしたできだとおもわないけど、
これだけの小道具を配置して、
過去と現在をそこそこからめていけば、
おもしろい作品にならないわけがない。

チャラといえば、きょうの「ラジオマンジャック」
(NHK-FM)は、リセットがテーマだった。
チャラもリセットもおなじようなものだ。
赤坂さんが、スマホを水につけてしまい、
あたらしいスマホにかいかえなければならなかったという。
バックアップがどれだけ大切かを強調されていた。
人生に、バックアップって、あるだろうか。
IT時代においても、人間はデジタルにかわれない。
うわがき保存がきかないからこそ、人生はスリリングだ。

映画にはなしをもどすと、
そうかんたんに人生はリセットできないようで、
けっきょく ふたりとも それまでの生活をすてきれない。
自分がもとめていたものは、以前のくらしのなかにあった、
という よくありがちなはなしにとどまっている。
すっかりリセットするまでもなく、
仕事をやめたりひっこしすれば、
かなりのていど あたらしい生活となる。
離婚だって、そうとうリセット感がたかいだろう。
そこそこ・ちょぼちょぼなリセットだからといって、
それがかんたんとはかぎらない。
「新しい人生」や「もうひとつの人生」は、
あんがい手にしにくい永遠のテーマなのかも。

posted by カルピス at 21:27 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月02日

『インドへの道』気らくにたのしめる超大作

『インドへの道』
(デヴィッド=リーン:監督・1984年・アメリカ)

超大作らしいので、なんとなく敬遠してたけど、
夕ごはんのときにみる、適当な録画がなかった、という
かなり消極的な理由でえらんだ。
これくらい最低な態度でも、
いい作品は それなりにひきこむちからをもっている。
大作らしいいやらしさをちらつかせるのではなく、
みかたによってはB級作品におもえるぐらい、
ベタな作品となっている。
ありがちな展開のせいか、かえって気らくにたのしめた。
(以下、ネタバレあり)

映画の舞台は第一次世界大戦後のインド。
イギリスから上流階級の女性2人が
豪華客船にのってインドをおとずれる。
わかい女性のアデラは、
治安判事をしている婚約者(ロニー)をたずねるためで、
ムーア婦人はロニーの母親だ。
ふたりは、植民地でのはなやかなくらしをたのしむのではなく、
ほんとうのインドをしりたいとおもっている。

帝国主義的な世界観をもつおおくのヨーロッパ人とちがい、
ふたりはインド人にたいして偏見がない。
インドのひとから、インドについておそわろうとする
柔軟な精神をもっている。
しかし、インド社会全体としては、
イギリス人を頂点とする階級社会ができあがっており、
それをゆるがすようなうごきはみとめられない。
アデラは、インド人の医師アジズと洞窟をめぐるうちに、
不安定な精神状態におちいり、パニックをおこす。
あろうことか、アデラは混乱から、
アジズ医師におそわれたとうったえる。

まさか法廷ものになるとはおもわなかった。
アジズ医師が無実の罪をかぶったままでは
気のどくすぎる。
さいわいアデラは、事件当時の記憶がはっきりしないとみとめ、
告訴をとりさげたため、アジズ医師は解放される。

アジズは裁判のあと、ひとがかわってしまった。
自分に有利な証言をしたアデラにたいし、わだかまりがきえない。
不自然におもえたけど、無実な自分に罪をかぶせそうになり、
理不尽なおもいをさせたわかいむすめにたいし、
にくしみをおぼえるのは当然なのだろう。
イギリス人と、イギリスにたいする感情も、
かつてのあこがれではなく、ほかのインド人とおなじように、
批判的なみかたへとかわっていく。

植民地でのくらしぶりをみていると、
『愛と哀しみの果て』をおもいだす。
提督を頂点に、絶対的な階級制が支配する社会で、
現地のひとびとは、決定的にひくくみられる存在でしかない。
ムーア婦人が、「ほんとうのインドをしりたい」というのは、
非情にめずらしい例だろうし、ほかのイギリス人には
当然ながら まったくうけいれられない。
『愛と哀しみの果て』と『インドへの道』は、
おなじような時代を舞台としながらも、
映画のおわりかたにおいて、
ずいぶんちがうところへおとしこんでいる。

posted by カルピス at 23:06 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

いまさらながら『ニュー・シネマ・パラダイス』

『ニュー・シネマ・パラダイス』
(ジュゼッペ=トルナトーレ:監督・1988年・イタリア)

まえにいちどみたことがあるけど、
このごろたびたびこの作品の名前や音楽が耳にはいるので、
なんとなく気になっていた。
図書館でかりて、もういちどみてみる。
(以下、ネタバレあり)

おもしろいけど、こんな内容だったっけ。
とくに、さいごのほうは、まったく記憶にない。
とおもっていたら、どうもこの作品には、
劇場公開版と、完全オリジナル版があるようで、
まえにわたしがみたのはおそらく劇場公開版だったのだろう。

有名なラストをみても、わたしにはピンとこなかった。
自主規制していたキスシーンをあつめただけじゃないか。
そんな程度にしか行間をよみとれないわたしは、
いかに映画オンチかをおもいしらされる。

そうか。ふたりの愛をじゃましたのは、
アルフレードのしわざだったのか。
いまさらどうしようもないけど、
もしわたしがそんなことをされたら 納得できそうにない。
有名になるより、すきな女性とむすばれたいにきまっている。
劇場公開版と完全オリジナル版とのちがいは、
テーマを映画への愛にするか、
女性への愛にするかのちがいかもしれない。

それにしても、キスシーンがこれだけあつまると
キスというのがじつに自然な行為なのだとわかる。
はずかしがらずに、せいいっぱいキスしておかなくては。

なきながらスクリーンをみて、
おもわずつぎのセリフをくちにする男性。
完全にこころをときはなち、おおわらいしている男性。
映画には、みているひとのこころを浄化するちからがある。
映画はかつて、こんなにもひとびとが必要とし、
くらしのなかにしっかりと根づいていた。
ないたり わらったりの娯楽というよりも、
生きていくうえで、なくてはならない存在だった。

映画そのものをあつかった作品がたくさんあるなかで、
なんだかんだいっても、けっきょくは
『ニュー・シネマ・パラダイス』にとどめをさす。
映画へのおもいに、いまも むかしもない。
作品の理解にちがいがあっても、
映画がすきなひとには、たまらない作品だ。

posted by カルピス at 21:28 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月18日

『イコライザー』必殺仕掛人みたいなデンゼル=ワシントンの格闘術

『イコライザー』(アントワーン=フークア監督・2014年・アメリカ)

ストーリーはいたって簡単だ。
元CIAの諜報部員だったマッコール(デンゼル=ワシントン)は、
いまは平凡な中年男性として、町のホームセンターではたらいている。
いきつけの食堂でしりあった まだおさない娼婦が、
ある日、元じめのマフィアにひどくキズつけられる。
マッコールは、マフィアの事務所をたずね、
少女をひきとる交渉にのぞむが、まったくあいてにされない。
諜報部員だった自分のちからをふうじてきたマッコールだが、
いまや忍耐の限界をこえてしまった。
その場にいたマフィア5人を、一連のはやわざでみなごろしにする。
その間、わずか19秒。

このマフィアは、ロシアのマフィアとつながっていた。
自分をころすまであいてはあきらめないとしったマッコールは、
ロシアンマフィアのトップであるプーシキンをたおすまで
たたかいつづけるときめる。

イマジカBSをつけたら たまたまやっていた作品で、
そのままズルズルとさいごまでみてしまった。
ありがちなストーリーで、ウソみたいにつよい主役の活躍も、
じょうずにつくってあり気にならない。
これだけの圧倒的なヒーローをえんじながら、
いやみをかんじさせないデンゼル=ワシントンはたいしたものだ。

マッコールの格闘術がすごい。
状況を観察したうえで、何秒であいてをたおすかをきめ、
時計のストップウォッチをおしてから 仕事にかかる。
はじめに5人のマフィアとたたかったときは、
16秒を予測し、実際は19秒だったので、
自分の仕事に満足していない。
『ザ・ウォーカー』みたいだなー、とおもっていたら、
あの作品も、デンゼル=ワシントンだった。

復讐の鬼とかしたマッコールは、
職場であるホームセンターにきたチンピラも
もはやゆるしておけない。
レジのお金と、レジ係の指輪をうばい、車でたちさるチンピラ。
マッコールは、じっと車の特徴をおぼえ、
やおら店にひきかえすと、うり場にあったハンマーを手にとって、
なにかを決意したようにみえる。
つぎのシーンで、血まみれになったハンマーを、
マッコールがタオルでぬぐっている。
いちどきれてしまうと、ロシアンマフィアだろうが、
町のチンピラだろうが、マッコールは容赦しないのだ。
この作品ちゅう、いちばんのみどころといっていいだろう。

posted by カルピス at 13:17 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする