2018年02月14日

エバーノートのinboxがカオスだ

エバーノートの inbox を、1年以上ほったらかしたままだ。
あたらしくノートをつくったときは、
いったん inbox におさめておいて、
定期的にそれらをノートブックにふりわけるのが、
エバーノートのつかい方としてすすめられている。
わたしの場合、ノートをノートブックにうつすと
それで安心してしまい、本格的な活用にまでたどりつけない。
分類するのがエバーノートをつかう目的ではないと、
混沌となった inbox 内のノートを気にしないでいたら、
いまや980のノートがinboxにおさまっている。
全体のほぼ1割だ。
分類が目的ではないとはいえ、
異質なものをくみあわせようにも、
inboxがお蔵のようになっており、
ふるいノートがなかなか陽の目をみない。

もうめんどくさいから、このままいこうとおもう。
そうなると、いったんふるいノートにうもれてしまうと、
記憶をたよりにはひっぱりだせないので、
検索にたよる必要がある。
タグはどうもうまくつかいこなせないのがわかった。

なにかのひょうしに、まえのノートをみなおすと、
すっかり内容をわすれているものもあり、
はじめてよむみたいにたのしめる。
『パルプ・フィクション』とかいたノートには、
有名なセリフがペーストされていた。
俺の家の前に”ニガーの死体預かります”って看板が出てたか?
出てないよな?
何で俺の家の前に”ニガーの死体預かります”って看板が出てなかったと思う?
俺の家じゃ、ニガーの死体は預からねえからだ!!

ノートにとっておこうとおもったぐらいだから、
ノートにとったことはわすれているのに、
いまのわたしがよんでも 新鮮にわらえる。
なんどよんでもおかしい。
ノートの存在をわすれていたので、
「なんどよんでも」はただしくない表現か。
はじめてよむようなものだ。

うえにあげたセリフは、ジミー役のタランティーノ監督が、
ギャングふたりをしかりつけている場面だ。
ジミーはかたぎの一般市民なのに、ふるい友だちとはいえ、
殺人をなんともおもっていないギャングにむかい、
一般常識をふりかざしながら まじめにおこっている。
それもこれも、彼は奥さんの機嫌をそこねたくないからだ。
気がつよいのかよわいのか、わかりにくいところがおかしい。

このノートを、なにかほかのノートと
くみあわせる日がおとずれるだろうか。

posted by カルピス at 21:38 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月12日

『地下室のメロディー』犯罪映画の傑作

『地下室のメロディー』
(アンリ=ヴェルヌイユ:監督・1963年・フランス)

いまさらながらだけど、
はじめて『地下室のメロディー』をみる。
圧倒的におもしろい。
ゴージャスな音楽にのって、
テンポよくストーリーがすすむ。
色気なし。
はでなアクションやカーチェイスもない。
純粋に、ハラハラ・ドキドキだけでひっぱる、
サイコーにいかした作品だ。
以下、ネタバレあり。

5年のつとめをおえ、シャルル(ジャン=ギャバン)は
パリ郊外にある家にもどる。
奥さんは、彼のかえりをまっていて、
これからはホテルの経営でもして、
かたぎにくらしくらそうともちかける。
でも、シャルルはまじめにコツコツ生きようなんて、
すこしもおもってない。
ムショをでたその日から、つぎの仕事をねらっている。

ふつうの映画なら、
ムショからでた銀行やぶりなんかを、
むかしの仲間がもうこれでさいごだからと
いやがってるのにむりやりさそうのが
よくあるパターンだけど、
『地下室のメロディー』はぜんぜんちがう。
ムショからでたその日に、
シャルルはもうつぎの仕事のことをかんがえている。

カンヌのカジノが標的だ。
週末の金庫には、10億フランがねむっている。
でかい仕事なので、仲間が必要になる。
シャルルはムショでしりあった
フランシス(アラン=ドロン)をさそう。
カジノの設計図を手にいれ、
大胆な計画をシャルルはたてていた。

作戦は予定どおりに うまくすすむ。
まんまと金庫にはいりこんだシャルルは、
棚におさまっている札束を、
ひとつのこらずていねいにカバンへおとしていく。
いそいでいるからといって、
ガバーッと雑な仕事をするようでは
りっぱな金庫やぶりにはなれない。
あせらずあわてず、おちつきはらって、
きっちりと札束をカバンにいれる場面にゾクゾクする。
仕事をおえたシャルルとフランシスは、
カバンふたつにおさめた札束を、
いったんべつの場所にかくしておく。

しかし、カジノの経営者に、
ふたつのカバンをしっかりみられていた。
警察はカバンの特徴をききだし、捜査をすすめようとする。
カバンをもちだそうとしていたフランシスは、
この会話をきき、札束のつまったカバンが、
いまや安全でないのをしった。
警察はフランシスのまわりにウジャウジャいて、
いまにもカバンを目にされそうだ。
フランシスは、とりあえず、プールにカバンをしずめて、
さわぎがおさまってから とりにもどろうとする。
あれだけカバンのはなしをされたら
(「カバンをみたらわかりますか?」
 「もちろんです」
 みたいな)
フランシスでなくても どこかへかくしたくなるだろう。
とりあえず、プールにしずめるのは、
いいアイデアだとおもったけど・・・。

ラストのきりあげかたがうまい。
もうすこしでうまくいったのに。
みおわったあと、血がさわいだ。
まだわかいアラン=ドロンがいい味をだしている。
行儀のわるさ、下品さがうまい。
顔だけでなく、スタイルもいい。
いまのハリウッド俳優は、
筋肉をとくいげにみせびらかすけど、
この作品でのアラン=ドロンは、
ほっそりとひきしまったからだがきれいだ。

この作品の教訓はふたつある。
カジノや銀行にしのびこむなら、
めだたないカバンを用意すること。
もうひとつ。
カバンのチャックはしっかりとめたほうがいい。

posted by カルピス at 16:42 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月02日

『31年目の夫婦げんか』にみる ベーコンエッグのつくり方

『31年目の夫婦げんか』をみていたら、
メリル=ストリープがトミー=リー=ジョーンズに
朝ごはんのベーコンエッグをつくっていた。
ベーコンのある場所から、すこしずらしてタマゴをわる。
毎朝そうやって ベーコンエッグをおなじようにつくる。
わたしは、ベーコンのうえにタマゴをおとすので、
だれもがそうやってつくっているのだとおもっていた。
トミー=リー=ジョーンズは、だされたベーコンエッグに、
やたらと塩だかコショーだかをふりかけ、
スプーンですくってたべていた。
新聞をよみながらの食事だったので、
スプーンのほうがあつかいやすいのかもしれない。
ほかのひとが どんな手順でベーコンエッグをつくり、
たべるかをみられ、わたしにとって興味ぶかい場面だった。

ひとのやり方をみるのは いつもたのしい。
『クレイマー、クレイマー』でおもいだされるのは、
親子でつくるフレンチトーストだし、
『ワーキング・ガール』でも、印象にのこるのは、
せまい台所で、ふたりがからだをいれかえながら、
朝ごはんのトーストに おおいそぎでかじりついている場面だ。
わたしがたべものに興味があるからかもしれないけど、
ひとがどんなふうに生活しているかが、
じっさいに目にするとたのしい。
村上春樹さんの小説も、なにをどうやってつくり、
どのようにたべたかが いつもくわしくかかれている。
そうした具体的な場面をよむのがわたしはすきだ。

食事や寝室でのおしゃべりは、
映画がいろいろおしえてくれる。
映画にでてくるのは、
かならずしも高級フランス料理店だけではない。
安食堂では安食堂でのふるまい方がある。
ベッドでのうごきは、個人的ないとなみなので、
なかなかほかのひとのやり方を観察する機会はない。
みたところで、参考にならない気がするけど、
きっとあちこちでしいれた 断片的な情報に影響をうけて、
しらずしらずのうちに パターン化されたひとまねをしているのだろう。

ネットをみると、ベーコンの肉汁でタマゴをやくから、
映画でやっていたようなつくり方になるみたいだ。
日本のスーパーでかう、うすいスライスベーコンだと、
ベーコンとタマゴをはなす意味がわからない。
かたまりのベーコンをつかうからこそ
肉汁がしみでてくるのであり、
肉汁あってのベーコンエッグなのだった。

posted by カルピス at 21:27 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月13日

すぐれた青春映画だった『サタデー・ナイト・フィーバー』

『サタデー・ナイト・フィーバー』
(ジョン=バダム:監督・1977年・アメリカ)

いまさらながら『サタデー・ナイト・フィーバー』。
わたしは、自分がおどれないヒガミから、
この作品をずっと敬遠してきたけれど、よくできた青春映画だ。
チャラい作品だろうときめつけずに、
もっとはやく、高校生のときにみておけばよかった。

トニー(トラボルタ)はペンキ屋につとめる19歳のわかもの。
週末にディスコでおどるのをたのしみに、
両親・祖母と同居している。
家族や職場にすごく反発しているかというと、
そういうわけでもなく、
たくみなダンス以外はごくふつうの青年だ。
仲間とつるんでさわぐにしても、
ほかのメンバーをどちらかといえばいさめる役で、
ふかい教養はないにしても、独自のかんがえをもっている。
わたしがきめつけていたような、頭からっぽのチンピラではなくて、
自分の生きかたをさがしはじめている、
しっかりしたわかものとして好感がもてた。

『サタデー・ナイト・フィーバー』といえば
ディスコでのダンスが有名だけど、
いまみると、そんなにハデなうごきはなく、
行儀のいいフォークダンスみたいだ。
ラストのダンスコンテストでも、
おとなしいふりつけに終始している。
トニーは、あきらかに自分たちのコンビよりも
うまくおどったカップルに賞金をゆずったり、
町をでてひとりぐらしをはじめたいと、
すきな女の子にうちあけたりと、すごくまともなわかものだ。
トニーにおもいをよせる女の子、アネットがかわいい。
トニーがふりむいてくれるよう、背のびしがちな彼女を、
トニーはやんわりと自分の道をすすむようにさとす。

トラボルタというと、どうしても
『パルプ・フィクション』のダンスをおもいだす。
むりやりにステージにひっぱりだされ、
じゃ、ま、ちょっとやってみるかと、
しぶしぶはじめたツイストが余裕たっぷりだった。
おどれない役者が練習をかさねてたどりついたダンスではなく、
1000ぐらいひきだしをもっている名人が、
そのなかのひとつから さりげなくひっぱりだして
かるく披露してみました、というかんじ。
『サタデー・ナイト・フィーバー』とくらべ、
トラボルタにはたっぷり肉がついてしまったけど、
その分、成熟したダンスとなり、
さきをいそぎたがるユマ=サーマンを、余裕でリードしていた。

『サタデー・ナイト・フィーバー』があっての
『パルプ・フィクション』であり、
タランティーノ監督が、
じょうずにトラボルタをいかした作品なのがよくわかった。

posted by カルピス at 21:41 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

いまさらながらの『自転車泥棒』 ハッピーエンドでないのにおどろく

『自転車泥棒』(ヴィットリオ=デ=シーカ:監督・1948年・イタリア)

有名な作品なのに、まだみていなかった。
わたしにはどこか教養主義的なところがあり、
本であれ、映画であれ、できれば一般教養の範囲くらいは
おさえておきたいとねがっている。
ねがってはいるけど、たいして実行されておらず、
このままのペースでは、死ぬまぎわになっても、
半分くらいしか到達できそうにない。

というわけで、いまさらながらの『自転車泥棒』。
(以下、ネタバレあり)
第二次世界大戦がおわった直後のローマが舞台で、
おおくの市民が職をもとめて
さきのみえないその日ぐらしをおくっている。
主人公の男性は、市の職員として、
ようやくポスターはりの仕事をえる。
市内をまわってポスターをはるには、どうしても自転車が必要で、
質屋にいれていた自転車をなんとかとりもどして、
これからの仕事にそなえる。
しかし男は、仕事の初日に自転車をぬすまれてしまった。
ほとんど手がかりがないまま、
むすこといっしょに自転車をさがしまわる。

さがすといっても、はっきりしたあてはなにもない。
みこみがないとしりつつも、どうしても自転車が必要なので、
さがさざるをえない。
自転車をみつけられるのなら、
どんなちいさな手がかりでもすがりたい。
高校生のおこづかいでかえるような
現代のやすい「自転車」とは わけがちがう。
男は、自転車をみつけるのが絶望的としりつつも、
ほかに道がないために、自転車をさがしつづけるほかはない。
「俺にとって、どれほど大切な自転車か」
自転車だけが、あすからのくらしをささえてくれる唯一の希望だ。

これから仕事にむかおうとする朝、
男が お弁当のオムレツいりサンドイッチを胸ポケットにいれ、
むすこにもサンドイッチをわたしたときの ほこらしげな表情。
ちゃんとした職をえて、生活していけるよろこび。
そんなしあわせが、自転車をぬすまれたことで、
いっぺんにくずれおちる。

単純なストーリーなのに、ついひきこまれてしまうのは、
どうしようもないまずしさのなかで、
なんとかくいつないでいこうとする当時の
ローマ市民のくらしが 胸にせまるからだろう。
夫婦の愛や、むすこへの愛がないわけではない。
自分さえ、家族さえよければと、
男のこころがすさんでいるわけでもない。
とにかく、たべていくだけで精一杯だ。
ひとは、気もちに余裕がなくなると、
目のまえにある問題をどうするのかが、最重要課題であり、
この男だけでなく、当時のローマ市民のおおくは、
おなじおもいで生きている。

自転車をぬすんだ(ようにおもえる)男が、
とおりすがりの老人になにかを手わたした。
この、ほんのかすかな手がかりをたよりに、
男はどこまでも老人をおいかける。
教会での集会にもはいりこみ、無礼な態度をとってでも、
わずかな可能性にすがって 老人にしつこくつきまとう。
男には、ほかにのこされた道がない。

さいごには、どうしようもなくなって、
男はひとの自転車をぬすもうとする。
おいかけられ、すぐにつかまって、
おおぜいにつるしあげられる。
自転車をぬすんだ場面をむすこにみられてしまった。
父親としてふかくはじいり、
自分のしたことに呆然となりながら、男はその場をはなれる。
むすこは、そんな父親の手をじっとにぎりしめる。

ハッピーエンドでないのにおどろいた。
男といっしょに呆然となりながら、
これからのくらしをおもう。
男の子が、ポッチャリふとっているのがおもしろい。
ぜんぜんまずしくなさそうなブルーノくん。
それに、当時のローマは、
ポスターをはるだけで 一家4人がたべていけるほど
給料がもらえたのだろうか。
そんなことをするから、イタリアのインフレがすすんだのでは。

posted by カルピス at 22:46 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする