いい大人、というか、客観的には
もうすぐ前期高齢者のわたしなのに、
自分の部屋のちらかし方がコンプレックスだった。
頭のわるい中学生の部屋のように、
よみかけの本や、かったままの本たち(つんどく)。
ぬいだ服がいすの背にかけられていて、
レコードはターンテーブルののったままだ。
アイドルのポスターまではないものの、
いつまでも大人になれなかった部屋が
わたしの精神的なおさなさ、未熟さをあらわしているような。
たとえば、村上春樹の小説にでてくる「僕」たちは、
ぜったいにこんな部屋をつくらないだろう。
この年になってこんな部屋なのだから、
このさきも、おおきくはかわらないにきまっている。
ところが、このまえ映画『ファーストキス』をみていたら、
でてきた部屋が、あんがいわたしの部屋に似ているようにおもった。
松たか子がひとりでくらすマンションは、
あちこちにものがおかれ、机のうえだってごちゃごちゃだ。
そのゴチャゴチャさがなんともいえずリアルだった。
とてもよくできた作品で、おもしろかったうえに、
部屋のちらかり方に共感できたことが印象にのこっている。
これはこれでありかも、とおもわせるちらかり方だ。
そうか、おれの部屋は、これでいいんだ、と安心する。
2025年05月25日
2024年05月06日
『オッペンハイマー』
『オッペンハイマー』
(クリストファー=ノーラン:監督・2023年・アメリカ)
3時間ちかくのながい作品にもかかわらず、
とちゅうだれることなく、ずっと集中してたのしめた。
原爆が完成し、実験が成功してめでたしめでたし、
かとおもっていたけど、そこからさきもみごたえがある。
マンハッタン計画は、オッペンハイマーと
アインシュタインとの会話からはじまっていた、という伏線が、
映画のおわりでみごとに回収される。
第二次世界大戦ちゅうという当時は、
ドイツ・アメリカ、そしてソ連がからむややこしい状況にあり、
原爆というモンスターを異例のスピードで生みだした。
それにしても、最終的におこなわれた
原爆の爆破実験のようすはすさまじかった。
加速度的にふくらんでいく巨大な炎と、
コントロールのきかなない圧倒的なエネルギー。
あの炎のしたに、広島、そして長崎のひとびとがいたのだ。
手にしてはならないちからを、人類はつくりあげてしまった。
(クリストファー=ノーラン:監督・2023年・アメリカ)
3時間ちかくのながい作品にもかかわらず、
とちゅうだれることなく、ずっと集中してたのしめた。
原爆が完成し、実験が成功してめでたしめでたし、
かとおもっていたけど、そこからさきもみごたえがある。
マンハッタン計画は、オッペンハイマーと
アインシュタインとの会話からはじまっていた、という伏線が、
映画のおわりでみごとに回収される。
第二次世界大戦ちゅうという当時は、
ドイツ・アメリカ、そしてソ連がからむややこしい状況にあり、
原爆というモンスターを異例のスピードで生みだした。
それにしても、最終的におこなわれた
原爆の爆破実験のようすはすさまじかった。
加速度的にふくらんでいく巨大な炎と、
コントロールのきかなない圧倒的なエネルギー。
あの炎のしたに、広島、そして長崎のひとびとがいたのだ。
手にしてはならないちからを、人類はつくりあげてしまった。
2024年03月24日
『パーフェクト デイズ』
『パーフェクト デイズ』
(ビム=ベンダース:監督・2023年・日本)
毎日おなじ時間におき、歯をみがき、木に水をやる。
アパートの玄関をでると缶コーヒーをかう。
カセットテープをききながら車をスタートさせる。
仕事がおわれば銭湯へいき、湯船にふかくからだをうずめる。
毎日おなじような日のくりかえしにおもえるけど、
でもじっさいは、すこしずつちがう「事件」がおきている。
トイレ掃除にはいってるとき、子どもがとじこもってないていたり、
しらないだれかと 五目ならべみたいに
マルとバツでコミュニケーションをとったり、
同僚がきゅうに仕事をやめ、彼の穴をうめるため
いちにちじゅうはたらいたりでおなじ日はない。
そんな一日いちにちを、彼はたいせつに生きる。
サイテーな気がしていても、いちにちがおわれば
それはそれでその日もパーフェクトデイだ。
気にいった苗をみつけたり、なじみの店でひといきついたり、
うまくいく日ばかりではない。
なじみの店でおかみさんのしらなかった過去にふれ、
気もちがおおきくゆれても、それもまたパーフェクトデイ。
まいにちが、それぞれにパーフェクトデイであり、
そんないちにちいちにちをつみかさねていくしかない。
どれだけ自分でパーフェクトデイを演出するか。
だれともかかわらないで生きているようにおもえても、
じっさいはいろんな人とのコンタクトがある。
毎日のように顔をだす一杯のみやへいくと、
「おつかれさま」と声をかけられる。
古本屋で100円の本をかおうとすると、
その作家について、店主からひとことコメントがある。
写真店にフィルムをもっていくと、
前回の分をやいてまっていてくれるし、
なじみの小料理屋へゆけば、おかみさんや常連客と、
気のおけない時間をすごせる。
ただたんたんと、毎日を生きつづけるうつくしさ。
(ビム=ベンダース:監督・2023年・日本)
毎日おなじ時間におき、歯をみがき、木に水をやる。
アパートの玄関をでると缶コーヒーをかう。
カセットテープをききながら車をスタートさせる。
仕事がおわれば銭湯へいき、湯船にふかくからだをうずめる。
毎日おなじような日のくりかえしにおもえるけど、
でもじっさいは、すこしずつちがう「事件」がおきている。
トイレ掃除にはいってるとき、子どもがとじこもってないていたり、
しらないだれかと 五目ならべみたいに
マルとバツでコミュニケーションをとったり、
同僚がきゅうに仕事をやめ、彼の穴をうめるため
いちにちじゅうはたらいたりでおなじ日はない。
そんな一日いちにちを、彼はたいせつに生きる。
サイテーな気がしていても、いちにちがおわれば
それはそれでその日もパーフェクトデイだ。
気にいった苗をみつけたり、なじみの店でひといきついたり、
うまくいく日ばかりではない。
なじみの店でおかみさんのしらなかった過去にふれ、
気もちがおおきくゆれても、それもまたパーフェクトデイ。
まいにちが、それぞれにパーフェクトデイであり、
そんないちにちいちにちをつみかさねていくしかない。
どれだけ自分でパーフェクトデイを演出するか。
だれともかかわらないで生きているようにおもえても、
じっさいはいろんな人とのコンタクトがある。
毎日のように顔をだす一杯のみやへいくと、
「おつかれさま」と声をかけられる。
古本屋で100円の本をかおうとすると、
その作家について、店主からひとことコメントがある。
写真店にフィルムをもっていくと、
前回の分をやいてまっていてくれるし、
なじみの小料理屋へゆけば、おかみさんや常連客と、
気のおけない時間をすごせる。
ただたんたんと、毎日を生きつづけるうつくしさ。
2022年07月22日
『PLAN75』老後って、あんなにくらいだけなの?
『PLAN75』(早川千絵:監督・2022年・日本)
75歳以上のひとは、自分で死をえらべる、
というちかい将来の日本が舞台になっている。
歳をとり、くらしがたいへんになった老人のなかには、
一時金の10万円をうけとり、死ぬまえにほんのすこしたのしめたら、
この世とおわかれするのもわるくないか、というひともでてくる。
医療費や介護費のやりくりになやむ行政にとって、
財政的には一理あるかんがえ方なんだろうけど、
倫理的な点からも、問題にみちた制度にみえる。
それにしても、高齢期をむかえるのは、
こんなに悲惨なことなのだろうか。
つらい日々をすごしているひともいるだろうけど、
老後をたのしんでいるひとだってすくなからずいるはずだ。
作品では、おいのみじめな面ばかりがえがかれるので、
みおえたあと、くらい気もちになった。
お金があれば、「PLAN75」なんかに
もうしこまなくてもよさそうだし、
年金がすくなくても、あるだけのお金で
それなりにくらしていけばいいのに、におもう。
主演の倍賞千恵子さんは78歳という設定で(実年齢は81歳)、
寅さんのさくらでしられるあのきれいな倍賞さんが、
歳をとるとあんなにも「老人」になるのか、とショックをうける。
ホテルの清掃スタッフとしてはたらく場面が冒頭にあり、
倍賞さんのあまりにも歳おいた表情が衝撃的だった。
わたしは漠然と75歳くらいまで生きられたらいい、と
おもっているし、ひとにもはなしてきた。
映画をみたあと、いみじくも、
自分が75歳で線をひいていたことをおもいだした。
なんで75かというと、年金をうけとれる 65まではたらいて、
そのあと10年ゆっくり老後をたのしめたら、
そろそろ死んでもくいはないだろう、くらいな計算だ。
75歳という年齢が、映画みたいにくらいだけとはおもいたくない。
75歳以上のひとは、自分で死をえらべる、
というちかい将来の日本が舞台になっている。
歳をとり、くらしがたいへんになった老人のなかには、
一時金の10万円をうけとり、死ぬまえにほんのすこしたのしめたら、
この世とおわかれするのもわるくないか、というひともでてくる。
医療費や介護費のやりくりになやむ行政にとって、
財政的には一理あるかんがえ方なんだろうけど、
倫理的な点からも、問題にみちた制度にみえる。
それにしても、高齢期をむかえるのは、
こんなに悲惨なことなのだろうか。
つらい日々をすごしているひともいるだろうけど、
老後をたのしんでいるひとだってすくなからずいるはずだ。
作品では、おいのみじめな面ばかりがえがかれるので、
みおえたあと、くらい気もちになった。
お金があれば、「PLAN75」なんかに
もうしこまなくてもよさそうだし、
年金がすくなくても、あるだけのお金で
それなりにくらしていけばいいのに、におもう。
主演の倍賞千恵子さんは78歳という設定で(実年齢は81歳)、
寅さんのさくらでしられるあのきれいな倍賞さんが、
歳をとるとあんなにも「老人」になるのか、とショックをうける。
ホテルの清掃スタッフとしてはたらく場面が冒頭にあり、
倍賞さんのあまりにも歳おいた表情が衝撃的だった。
わたしは漠然と75歳くらいまで生きられたらいい、と
おもっているし、ひとにもはなしてきた。
映画をみたあと、いみじくも、
自分が75歳で線をひいていたことをおもいだした。
なんで75かというと、年金をうけとれる 65まではたらいて、
そのあと10年ゆっくり老後をたのしめたら、
そろそろ死んでもくいはないだろう、くらいな計算だ。
75歳という年齢が、映画みたいにくらいだけとはおもいたくない。
2022年04月26日
『コーダ あいのうた』音がきこえないコンサートにショックをうける
『コーダ あいのうた』
(シアン=ヘダー:監督・2021年・アメリカ・フランス・カナダ合作)
女子高校生のルビーは、両親と兄がろうあ者で、
家族のうち自分だけ耳がきこえる環境でそだった。
父・兄と漁にでかけ、「通訳」として家族をささえている。
高校の授業で、あたらしく合唱をえらんだルビーは、
担当の先生から歌の才能をみとめられ、
コンサートでのデュオにえらばれたほか、
音楽の大学へもすすむように声をかけられる。
もともとうたうのがすきだったルビーではあるものの、
「通訳」として家族とすごさなければならず、
じっくりとうたのトレーニングにとりこむだけの時間がない。
ろうあ者、そしてコーダ(親がろうあ者で、自分は聴覚のある子ども)
としてそだったルビーの気もち。
家族をほこりにおもいながらも、まわりの目を気にするルビー。
家族のなかで、自分だけがのけものな存在ともかんじている。
両親は、高校を卒業後もルビーが町にのこり、
家の仕事(漁)を手つだってくれることをのぞんでいる。
ルビーも、うたへの情熱をむりやりおしころし、
家族のために進学をあきらめようと いったんは決意する。
しかし、学校のコンサートでうたうルビーをみて、
父親は、この子がもっとかがやくためには、
家族の犠牲にしてはいけないとおもうようになる。
「ここ(陸上)でみる星は、海でみる星ほどきれいじゃない」
という、漁師らしい気づきだ。
家族は、大学にすすむためのオーディションにルビーをおくりだした。
学校でひらかれたコンサートをきいているとき、
ルビーの両親は、キョロキョロとまわりのお客さんをのぞきみる。
自分たちのむすめがうたうのを、みんな熱心にきいているようだ。
両親は、ほっとするけれど、自分の耳ではきけないので、
音楽に集中するよりも、行儀のわるいそぶりをやめられない。
しかたのないひとたちだ、とわたしは上から目線でみていたけど、
ルビーがデュオでうたい、これからが曲のクライマックス、
というときに、すべての音がとつぜんきえた。
ふつうの作品なら、ルビーの熱唱に焦点をあてる場面だろう。
ヘダー監督は、音のない世界を観客に体験させる。
音がきこえないとは、こんなにもたよりないものなのか。
わたしは、ろうあのひとたちのもどかしさを、
ほんのすこしながらしることができた。
(シアン=ヘダー:監督・2021年・アメリカ・フランス・カナダ合作)
女子高校生のルビーは、両親と兄がろうあ者で、
家族のうち自分だけ耳がきこえる環境でそだった。
父・兄と漁にでかけ、「通訳」として家族をささえている。
高校の授業で、あたらしく合唱をえらんだルビーは、
担当の先生から歌の才能をみとめられ、
コンサートでのデュオにえらばれたほか、
音楽の大学へもすすむように声をかけられる。
もともとうたうのがすきだったルビーではあるものの、
「通訳」として家族とすごさなければならず、
じっくりとうたのトレーニングにとりこむだけの時間がない。
ろうあ者、そしてコーダ(親がろうあ者で、自分は聴覚のある子ども)
としてそだったルビーの気もち。
家族をほこりにおもいながらも、まわりの目を気にするルビー。
家族のなかで、自分だけがのけものな存在ともかんじている。
両親は、高校を卒業後もルビーが町にのこり、
家の仕事(漁)を手つだってくれることをのぞんでいる。
ルビーも、うたへの情熱をむりやりおしころし、
家族のために進学をあきらめようと いったんは決意する。
しかし、学校のコンサートでうたうルビーをみて、
父親は、この子がもっとかがやくためには、
家族の犠牲にしてはいけないとおもうようになる。
「ここ(陸上)でみる星は、海でみる星ほどきれいじゃない」
という、漁師らしい気づきだ。
家族は、大学にすすむためのオーディションにルビーをおくりだした。
学校でひらかれたコンサートをきいているとき、
ルビーの両親は、キョロキョロとまわりのお客さんをのぞきみる。
自分たちのむすめがうたうのを、みんな熱心にきいているようだ。
両親は、ほっとするけれど、自分の耳ではきけないので、
音楽に集中するよりも、行儀のわるいそぶりをやめられない。
しかたのないひとたちだ、とわたしは上から目線でみていたけど、
ルビーがデュオでうたい、これからが曲のクライマックス、
というときに、すべての音がとつぜんきえた。
ふつうの作品なら、ルビーの熱唱に焦点をあてる場面だろう。
ヘダー監督は、音のない世界を観客に体験させる。
音がきこえないとは、こんなにもたよりないものなのか。
わたしは、ろうあのひとたちのもどかしさを、
ほんのすこしながらしることができた。

