2017年06月02日

スポーツをたのしむ権利

きのうの朝日新聞に、
「スポーツ嫌いな子、だめですか」
という記事がのっていた。
スポーツ庁が、運動やスポーツのきらいな中学生について、
半減させる目標をうちだしたことへの反応だ。
(スポーツ庁の調査によると)運動やスポーツが「嫌い」か「やや嫌い」な中学生は16・4%。微増傾向にある。このままでは将来、運動しない大人が増えてしまうと、同庁は3月、5年かけて8%に半減させる目標を「スポーツ基本計画」の中で打ち出した。

「スポーツ嫌いな子、だめですか」には、
きらいなままじゃだめですか、の意味がふくまれている。
計画が報じられると、「強制しないでほしい」「余計嫌いになる」「嫌いで何が悪い」などの意見がネット上で飛び交った。

タイトルも刺激的だけど、
わたしがこの記事に目をとめたのは、
ヒャダインさんの名前をみかけたからだ。
ヒャダインさんは、テレビ番組「久保みねヒャダこじらせナイト」で
体育へのうらみ・つらみをとりあげているらしい。
わたしは、「強制しないでほしい」と反発するよりも、
体育へのうらみ・つらみから、
スポーツをきらいにさせない教育が大切だとおもう。

ヒャダインさんによると、
体育が嫌なのは恥をかかされるから。周りに迷惑をかけている申し訳なさ、馬鹿にされているんだろうなという自虐。ネガティブな感情ばかりが渦巻くんです。

学校での体育は、できる子がたのしいおもいをするいっぽうで、
ヒャダインさんがいうように、できない子、にがてな子は
はずかしかったり、かなしいおもいをする つらい時間だ。
できない子、にがてな子を、
できるようにする過程が体育の授業だとおもうけど、
適切なノウハウをもった先生はかぎられている。

運動がきらいな中学生をへらすというよりも、
運動をきらいにさせないことが大切だ。
体育の授業が、できる子をもてはやす時間ではなく、
できない子をできるようする
本来のすがたをとりもどせば、
子どもたちは運動がきらいにならない。
小学校の低学年では ほとんどの子が体育をすきなのに、
成長するにつれてきらいになるのは、
できない子がつらいおもいをするからだ。
この記事は、いろいろな要素をいっしょくたにして
話題づくりをねらった印象をうける。
「スポーツ嫌いな子」がだめなのではなく、
スポーツをきらいにさせた学校体育に問題がある。

中村敏雄氏の『近代スポーツ批判』には
うまくない人には、そうなってしまった不幸な歴史があったのである。それを笑ったり、けなしたりすることは、人間的な行為とはいえないし、そうしていることが、うまくない人の自由を圧迫していることになる、ということにも思い至るべきであろう。
とかかれている。
この本がだされたのは1977年であり、
それから40年たっても状況はあまりかわっていない。
スポーツが得意なひとは、
ほっておいても自分でかってにからだをうごかす。
大切なのは、スポーツをきらいにさせない教育であり、
学校体育がはたすやくわりはおおきい。
スポーツはできるひとだけのものではなく、
だれにもスポーツをたのしむ権利がある。
スポーツがうまくないひとの
「不幸な歴史」がくりかえされてはならない。

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2017年02月16日

ランナーより はやくはしらないでくれるとうれしい

仕事のあと、宍道湖岸をはしる。
だいぶ日がおちるのがおそくなり、
夕日をながめながらのジョギングとなった。
あともうすこしでおわり、というころ、
「とるぱ」と名づけられた 夕日のスポットにさしかかったら、
写真をとってと、旅行者に声をかけられた。
カップルの韓国人旅行者だ。
夕日が写真の中央にくるようにとって、とたのまれる。
1枚目はうまくいかず、2枚目でOKをもらう。
それにしても、はしっているランナーをとめて 写真をたのむのは、
韓国では常識なのだろうか。
まさかジョギングとおもわなかった、なんてことは ないはずだけど。
それほどわたしがゆっくりとリラックスしてはしっていたのか。

そのすぐあとで、こんどは絶好のシャッターチャンスをのがすまいと、
わたしをおいぬいてはしっていく旅行者が3名いた。
男性がすごいスピードでさきをゆき、
そのあとから女性2人が彼をおいかける。
いくら夕日がすばらしいからといって、
ランナーよりはやくはしらないでほしい。

外をはしっていて、がっくりくるのは、
なにげないはやあしの通行人にぬかれたり、
宅配便のおにいさんのバネをきかせたはしりに
ぜんぜんおいつけないときだ。
たとえスピードがにたようなものであったにせよ、
余裕をもった身のこなしなのか、
わたしみたいに、ギリギリの体力で
なんとか足をうごかしているのかは、
みていてすぐにわかる。
つかれてくるしくなったころに、
ランナーですらないひとにあっさりぬかれるのは、
どれだけこころをきたえても かなりこたえる。

なんだか自分中心に夕日のスポットについてかいたけど、
宍道湖におちる夕日は たしかにうつくしく、
練習ちゅうのランナーをとめたり、
そのランナーをおいぬいてでも、
写真をとりたくなる気もちはわかる。
日韓の友好関係にひとやくかったような気もするし、
夕日のうつくしさと、旅行者の笑顔が、
印象にのこるジョギングとなった。

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2017年02月03日

ゆったりした渡辺一平選手のおよぎに感心する

渡辺一平選手が200m平泳ぎで世界新記録をだした。
わたしはむかし水泳部に所属し、平およぎを専門にしていた。
渡辺選手とタイムはくらぶべくもないが、
200メートルが2分6秒代というのは
新聞にあるとおり まさしく「驚速」だ。
むかしから日本は平およぎを得意種目としていたけど、
わたしが20代のころは ちからでおしとおすスタイルがはやっていた。
100メートルの世界記録として アメリカ人のルンドクイスト選手が
平およぎで1分1秒台をだしたとき、
あまりの筋肉質なからだに、
もう日本人は世界のながれについていけないと
わたしはあっさり白旗をあげた。
体格がちがいすぎ、テクニックでどうにかなる差ではないとおもった。
世界レベルとのそんな差を、すこしずつうめていった日本の水泳界に
はげしく拍手をおくりたい。

世界新記録をつたえる映像をみると、
渡辺選手のおよぎはすごくゆっくりだ。
フォームのはやり すたりがあるとはいえ、
渡辺選手はピッチ数のすくないおよぎ方をえらんだのだ。
ひとかきであんなにすすめるなんて、
水のなかでいったいなにがおこっているのだろうか。
50代となったわたしは、クロールや背およぎでさえ、
いまや回転をあげておよげない。
自分では風車のように すごいスピードで
手足をうごかしているつもりでも、
はたからは、ゆっくりLSDをたのしんでいるとしかみえないだろう。
でも、渡辺選手のおよぎなら、わたしもマネができる。
ひとかきしただけで ぐいぐいすすむのだから、
ほんとうはマネなどとてもできないけれど、
すくなくともピッチ数だけはおなじおよぎができる。

渡辺選手は、193センチの身長をいかしているとはいえ、
おおくの平およぎのレースで、ああしたフォームを目にする。
世界のトップレベルがあんなにゆっくりうごく種目は
ほかの競技をみても例がないのではないか。
ほとんどスポーツが、回転をあげてスピードをたかめようとする。
水泳は重力が関係なく、水の抵抗をどれだけすくなくして、
推進力にむすびつけるかが大切となる。
海をおよぐ魚やクジラのなかまだって、
回転数ではなく、流線型をどうやってたもつかにより
およぐスピードを調節している。
人間のおよぎが海の動物にちかくなるにつれ、
回転にたよらないで、流線型をもとめるフォームになるのは
自然なながれかもしれない。
将来は、クロールやバタフライも、
渡辺選手のような ゆったりしたおよぎが主流になるとおもしろい。

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2017年01月22日

錦織圭選手の準備運動がかっこよかった

20日におこなわれたテニスの全豪オープン3回戦、
錦織圭選手とラッコ選手(スロバキア)の試合をすこしみる。
試合のだいぶまえから放送がはじまり、
錦織圭選手の準備運動からずっとカメラがおっていた。
試合まえに、コートでかるくうちあう場面はよくみるけど、
会場の通路で ひとり準備運動にとりくむ映像はめずらしい。
ひとりでのストレッチのあと、コーチが補助して負荷をつよめる。
準備運動をみてるだけですごくかっこよかった。
もうすぐはじまる試合にむけて、
からだをほぐし 気もちをたかめていく。
緊張ではなく集中をかんじる いい準備運動だ。

テニスは、プレーごとに全力でラケットをふるい、
コートじゅうをかけめぐって あいてのゆさぶりについていく。
パワーとスタミナと、そして集中をきらさない
つよい精神力がないと試合をコントロールできない。
錦織選手は178センチと、そんなにおおきくはないけれど、
まえにくらべると、ずいぶんたくましいからだつきになった。

きょう錦織選手は、フェデラー選手と4回戦であたっている。
1ゲームをとるのもたいへんで、やっとこさキープしたとおもったら、
フェデラー選手のサーブ権では
かんたんにラブゲームでかたづけられてしまう。
そのつぎのゲームでブレイクされたりすると、
気もちがおれてしまいそうだ。
この試合のなかで、ブチきれた錦織選手が
ラケットをなげだす場面があった。
それでも そのあとは冷静さをとりもどし、
けっきょくそのセットをとったからかっこよかった。
あのままガタガタっとくずれないのが
錦織選手のつよさなのだろう。

錦織選手は島根県松江市出身なので、
地元ではずいぶんまえからなにかにつけてとりあげられていた。
そのときは、ローカルな話題だったけど、
いまでは世界ランキング5位となり、名実ともに世界の錦織だ。
松江だけでなく、日本じゅうが
テニスといえば錦織圭だけにそまっている。
テレビ・新聞、それにスポーツ雑誌でも、
錦織圭の名前ばかりめだつ。

フェデラー選手との試合は、5セットまでもつれたものの、
けっきょくは錦織選手はやぶれベスト16どまりとなる。
波にのったときのフェデラー選手は手がつけられない。
ランキング5位の錦織選手なのに、まるで100位以下の格下みたいに
もてあそばれている時間帯もあり、
フェデラー選手の復活を印象づける試合となった。
錦織選手にとっては、あらたな課題を
つきつけられた大会になったのではないか。

それに、たとえグランドスラムで優勝する日がきても、
錦織選手のテニスがそれでおわるわけではない。
ひとつの大会、ひとつの試合ごとに、
充実した時間をすごしてほしいとねがう。
圧倒的なつよさをみせるフェデラー選手に、
もっているちからをだしきって
必死にくいついていくきょうの錦織選手は、
応援したくなる魅力があった。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月08日

あやうい精神状態をまねく「ぜったいにまけられない」試合

今シーズンのJ1リーグは、
名古屋・湘南・福岡の降格がきまった。
最終節である17節がちかづくにつれ、
降格圏にある数チームは、ぜったいにまけられない試合がつづく。
でも、この「ぜったいにまけられない」意識が、
なかなかうまくはたらかない。
ちからがはいりすぎてしまうのか、
やらなければならないプレーができずに、
魔のサイクルにはまったかのように
ずるずると時間だけがすぎて かち点をかせげない。
名古屋など、いったんは降格圏からぬけだせたのに、
そして、さいごの試合にかてばわからなかったのに、
降格がきまっている湘南をあいてにしながら
わざわざ1-3でやぶれ、降格がきまった。
まるでかちたくないかのような試合はこびだ。

「ぜったいにまけられない」意識がからまわりするのは、
これはなにも降格をあらそうチームだけではない。
サッカーにかぎらず おおくのスポーツで
どうしてもまけられない試合、
たとえばかてば優勝とか、
まければ降格とか、
だれかのとむらい試合とか、
だれかの引退試合とかで、
選手が「どうしてもかつ」と
気あいをいれる場面はおおいけど、
気もちだけでかてるほど、スポーツはあまくない。
ましてや誕生日だからゴールをきめたいとか、
チームメイトに子どもがうまれたので
なんとかかたしてやりたい、なんてのは、
ぼんやりとしたねがいにすぎず、
なんのささえにもならない。

サッカーは、気もちのつようほうが
圧倒的に有利だとおもうけど、
ただ「かちたい」では 結果につながりにくい。
というか、そんな気になったときこそがあぶない。
まけるはずのない相手にまけたり、
つまらにミスから失点したり、
気もちがからまわりするだけで、
ぜんぜん相手によせられないとか。

まえによんだはなしで、
歌舞伎かなにかの伝統芸能で、
有名な役者が自分の芸をふりかえったとき、
「きょうはこのあとなにをしてあそぼうかな」
とおもいながらおどった日が、
いちばんいいできだったという。
絶妙にちからがぬけて、
のびやかにえんじられたのだろう。
「ぜったいにまけられない」はだれでもくちにしやすいけど、
「なにをしてあそぼうか」はひとの心理の盲点をついている。
あたまとからだがリラックスしてつながるよう、
スポーツにも とりいれられないだろうか。

posted by カルピス at 20:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする