2017年09月15日

職場の事業所がひらいた実践報告会

わたしの職場である介護事業所が、
関係者をまねいて実践報告会をひらいた。
5人の職員が、それぞれ自分のとりくみを発表している。
保護者や養護学校の先生、また、ほかの事業所からなど、
60名の方が参加される。

外部のひとたちにきいてもらう報告会は、
これがはじめての機会だ。
開所してから15年になるので、
これまでひらかなかったのが不思議といえるだろう。
発表になれないせいか、ひとり20分の発表がながくかんじられたけど、
職員たちの熱意がつたわってきて、好感をもつ。
介護職員のなれのはてとなったわたしは、
その仕事愛に感心するしかない。

「医療的ケアの必要な利用者をむかえての実践」の発表では、
気管切開や胃ろうをしている方のうけいれが報告されている。
重度障害の方が、ブルーベリーがりや海水浴、
それに、ゆかたをきて花火大会におでかけされているようすが
じっさいに写真で紹介されると、説得力がある。
医療的ケアが必要な方は、
養護学校を卒業すると、いく場がなくなって、
ずっと家ですごさなければならないケースがおおい。
そんな方たちにとって、今夜のような報告は、
つよい関心をあつめるにちがいない。
医療設備のととのった、おおきな施設でないと
利用できないとおもっていたのが、
身ぢかにあるちいさな事業所が実践しているのだから、
もっとこうしたとりくみがひろがってほしい。

今夜くばられた資料に、事業をはじめてからのうつりかわりが
表にまとめられていた。
2003年の4月、6名の正職員と4人のパート職員ではじまったのが、
15年後の2017年には、正職員24人・パート職員16人にもふえている。
わたしは、事業所のたちあげにかかわり、8年間つとめたものの、
もういいや、という気になって、いちど事業所をはなれている。
5年後に、頭をかきながら、またもどってきたわけで、
いまは、職場にわるい影響をあたえないよう 気をつけながら、
わかい職員たちにすべてをまかせ、
いわれるがまま、しゅくしゅくとはたらくだけの存在だ。
今夜の報告会にも、完全にお客さんとして顔をだした。
いまさらわたしがいえた義理ではないけど、
いい職員集団がそだちつつあり、こころづよくおもった。

posted by カルピス at 23:13 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月12日

180度 発想をかえてみる

ピピがまた 枕のうえでおしっこをした。
これで4どめとなる。
さいわい、枕をトイレシートでくるんでから
枕カバーをかけておいたので、
枕につめてあるビーズまで おしっこはとどかなかった。
4回もつづくと、これはもう あきらかに
ピピは枕のうえでおしっこをするのがすきなのだ。

こうなったら、枕をまもるというこれまでの対応から、
180度 発想をかえ、おしっこは 枕の上でするものと、
あたらしいとりきめをピピにしめしたらどうだろうか。
どこでおしっこをするかわからないと、
いたるところにトイレシートをしかなくてはならない。
トイレとしての枕でおしっこをしてくれたら、
全体としては、おしっこ被害がなくなる。
厳重にトイレシートでくるめば、
枕のなかまでよごれたりしない。
ピピには気もちよく枕の上でおしっこをしてもらおう。
われながら神対応におもえ、自分で感心してしまった。

きょうのできごとで、もうひとつさえていたのは、
仕事が一段落したときのプチ終礼をやめたこと。
わたしがはたらいている事業所には、
刺激にとても敏感なひとがいて、
めずらしい自動車がとおったり、
いつもはいないひとがきゅうにたずねてくると、
その刺激にすぐさま反応し、ワーッとおおさわぎになってしまう。
しずかに、とかイスにすわりましょう、なんていってもだめだ。
刺激に反応する障害特性なのだから、
刺激をできるだけ とりのぞくしかない。
しかし、当然ながら 日常生活には
刺激となる不意なできごとにみちているわけで、
気もちの波をなくすのは そうかんたんではない。

クッキーづくりが一段落し、
これから配達やらかいものにでかけるというまえに、
ささやかな終礼をして、その日の活動をふりかえるのが、
クッキー班のおやくそくになっている。
どうも、そうやって終礼をすることじたいが、
おおさわぎにつながっているのに気づいた。
仕事が一段落したときなので、あそびたい気もちもあるのだろう。
そんなときに わざわざ終礼なんかをはじめると、
その会がひきがねになって さわぎたい気もちに火をつけてしまう。
終礼でのわるふざけをくりかえしてきた習慣から、
終礼が、おふざけの合図になってしまった。
それなら、終礼じたいをやめてしまったほうが、
感情の波をおおきくしないですごせる。

いろいろ工夫して、なにかのシステムをあらたにつくるのではなく、
すべてやめてしまうという ひき算の発想が気にいっている。
あれこれつけくわえるよりも、
あんがいこの対応はあたっているのではないか。
ピピのトイレとして枕を位置づけること。
終礼をとりやめて刺激をすくなくすること。
われながら、さえてるいちにちだった。

posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月09日

自由につかえるお金でなにをするか

朝のおむかえにでかけるまえ 事務所によると、
理事長から相談をもちかけられた。
みこんでいたよりも おおくのうりあげがあり、
このままいくと、年度末にお金がのこりそうだという。
赤字よりもちろんいいわけだけど、
あんまりたくさんのこると、税金をおさめなければならない。
健全な事業所として、税金をおさめるのは当然の義務ながら、
国がこれだけいいかげんなのをしると、
できるだけ税金をはらわずにすませたくなる。
これまで お金に余裕があった年は、ボーナスをふやしたり、
年度末手あてとして職員に還元され、
おもいがけない臨時収入として よろこんだものだ。
理事長からの相談は、お金をあまりのこさないよう、
なにかいいつかい道はないだろうか、というもので、
職員への手あてや旅行などを候補にあげられた。
わたしのふところにはいるわけではないけど、
すきにつかっていいといわれると、
具体的な企画をとっさにおもいつかない。

わたしにこんな相談がもちかけられたのは、
いまの事業所をはじめたときに、
4人が10万円ずつだしあってたちあげた、という経緯があるからだ。
そんな事業所が、パートをふくめると
いまでは30人がはたらくほどに発展し、
適切なサービスを提供するげんきな事業所として
まわりからもみとめられている。
その後わたしは無責任になげだしてしまったけど、
理事長はずっと代表として、
利用者と職員のことをかんがえつづけてきた。

おむかえの運転ちゅうに、ずっとお金のつかい道をかんがえる。
東日本大震災の被災地をたずねるとか、
おもいきって外国旅行にでかけるとか、
事業所の本をつくるなど、
いくつかのアイデアがうかんできた。
でも、だんだん頭のなかでかたまってきたのは、
理事長がおもしろいとおもったことに つかってほしい、というものだ。

つかい道のきまってないお金が、おもいがけずのこりそうなのは、
15年間、ずっと自分や家族を二の次にして、
事業所のことをかんがえてきた理事長に、
神さまがごほうびをくれようとしているにちがいない。
これまでおおきな問題もなく事業が展開してきたけど、
これからはいろんなうごきがありそうだし、
理事長だってこのさき歳をとれば、
いつまでもわかいころとおなじようには からだがうごかない。
これからの15年は、これまでの15年と、
まったくちがう姿をえがくにちがいない。
ひとくぎりついたいまだから、
自由になるお金を、理事長がやりたかったことにつかってほしい。
理事長がいいとおもうのなら、
やる気のある団体に寄付をしてもいいし、
職員の旅行につかってもいい。
15年間がんばってよかったとおもえる
たのしいつかい道をえらんでほしい。

わたしのかんがえを理事長につたえる。
どんな方向性でのぞむかは、理事長が判断をくだすだろう。
わたしとしては、自由につかえるお金を
突然プレゼントされた気になり、それだけで興奮してしまった。
自由にお金をつかってもいい、といわれると、
あんがいなにもできないものだ。
ずっと節約と貧乏のはざまで生きてきたわたしが、
ひとときでも大金もちになり、
おもってもみなかったいい夢をみさせてもらった。
理事長は、このさき どんなお金のつかい道をえらぶだろう。

posted by カルピス at 21:39 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月30日

認知症のかたのちからを うまくひきだしている ハーブショップのこころみ

しりあいのハーブショップで雑談していたら、
さいきん認知症の方に ビニールハウスの手つだいをしてもらっている、
といわれた。
おじさんにあたる方だそうで、
苗がたくさんはいっている箱をちがう場所へうつしたり、
ハウスまわりやポットの草とりをおねがいしているという。
草とりでは、ポットにはえた草を
ただぬいてください、とおねがいすると、
どのポットが草ぬきをおえたものかわからなくなり、
なかなか仕事がすすまなかったそうだ。
そんなとき、おわったら、ちがう場所へポットをうつす、
というルールをきめると、いっぺんでまちがいがなくなっている。
また、箱をうごかす仕事のむときは、
ハウスのむこう側にロープをはって、
このロープよりむこうへはこんでくださいと、
視覚的にわかりやすくすれば、
どこまではこべがいいのかを、
わすれずにとりくめるようになったという。

その認知症の方は、家にいるとふさぎこみがちだったけど、
ハウスではひとの役にたてるし、お金ももらえるので、
よろこんで仕事にこられるようになっている。
けしてむりにハウスですごしてもらっているのではなく、
店長さんにすれば、自分がやる仕事を
その方がやってくれるので、すごくたすかっているそうだ。

仕事のおわりをはっきりさせたり、
どこまで箱をもっていけばいいのかを、
みてわかるようにする工夫は、
ふだんわたしがしている障害者支援にも共通する。
はなしをきいていると、店長さんは
わたしよりもずっとじょうずに
認知症のかたのちからをひきだしている。
まったくの民間事業所であるハーブショップが
介護とか支援とかを意識しないで、
いかにも自然なかたちをとりながら、
認知症のかたの居場所となっている。
町づくりのすばらしい実践が、
おもいがけなく 身ぢかな場所でおこなわれていた。

認知症の方とすごすとき、
どうしてもできなくなったことに目がいきやすいけど、
店長さんのように、できることをみつけていけば
能力をいかせる仕事はきっとたくさんあるし、
そこではたらいてもらえば、おたがいがたすかる。
認知症の当事者や家族の方、
中途障害で 仕事をつづけられなくなった方など、
こうした関係を、おおくのひとがもとめているのではないか。
介護として、なにかをやってあげることばかりを意識するのではなく、
そのひとが得意な活動をみつけ、
どうしたら自分だけでとりくめるかを工夫すれば、
老人や障害をもったひとでも、もっと自然なかたちではたらける。
年をとれば、障害をもてば、
自動的に介護施設へまわされるのではなく、
できるだけそれまで自分がおくってきた生活をつづけながら、
はたらいて、まだひとの役にたてるのだという実感は、
施設にいるよりも ずっとまえむきな気もちをうみだすだろう。

ハーブショップの店長さんは、
社会のために役だとうとか、ボランティアになれば、なんて
まったくおもっていない。
ハウスでの仕事を手つだってもらうと、
ほんとうにたすかるから きてもらっている。
無理のない自然なかかわり方で、おたがいがいい気分ですごせる。
すばらしいとりくみに、すっかり感心した。

posted by カルピス at 21:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月26日

『自閉症の僕が跳びはねる理由』(東田直樹)

『自閉症の僕が跳びはねる理由』
(東田直樹・角川文庫)

すこしまえにNHK特集「自閉症の君が教えてくれたこと」をみた。
会話ができない東田さんなのに、
しっかりした文章をパソコンにうちこむようすにおどろいた。
重度の自閉症であり、おちつかないと
あたりをピョンピョンとびまわる東田さんが、
パソコンにむかうと 高度に知的な論理をくみたてていく。

この本は、
「いつも同じことを尋ねるのはなぜですか?」
「自閉症の人はどうして耳をふさぐのですか?」
といった、
「なぜ◯◯なのですか?」という質問にこたえるかたちで
自閉症のひとが どうかんがえ
なににこまっているのかがまとめられている。
わたしは仕事として日常的に
自閉症の方とせっしているけれど、
なぜ◯◯なのか、わからないことばかりだ。
ほんとうに、なぜおなじことをなんどもたずねるのだろう。

ここにあげられた回答は、
東田が自分についてかたったもので、
ほかの自閉症のひとにはあてはまらないかもしれない。
それでも、自閉症の方が この本のように
自分のかんがえをかたってくれたのは、とても参考になる。
どうか、僕たちが努力するのを最後まで手伝って下さい。

僕たちの勉強を手伝ってくれる人は、僕たち以上に忍耐力がいります。その上、どう見ても勉強好きには見えない僕たちの、本当の気持ちを理解できないといけません。
 僕たちだって成長したいのです。

など、そばにいてほしい、よりそってほしい、
そっとみまもってほしい、というねがいが
なんどもくりかえしかかれている。
自閉症だから特別な対応が必要なのだけど、
本人によりそい みまもるのは、
どんなひととのかかわりでもかかせない。
おなじことをくりかえしたり、
ピョンピョンとびはねたりする自閉症の方が、
もっと成長したいというねがいをもっているのを、
わたしはまったく想像できずにいた。

東田さんは、質問にこたえながら、
「僕たち」と、自閉症者の代表としておおくをかたっている。
東田さん個人のかんがえなのに、あえて「僕たち」として、
自分では声をあげられない仲間たちのおもいを
代弁しているのではないか。
東田さんがこの本をかいたのは13歳のときで、
13歳の東田さんでなければかけなかった気もちが
素直に表現されているからこそ、貴重な意見だ。

自閉症のかたには、視覚的につたわりやすいよう、
よくカードをつかってスケジュールをしめしたりする。
東田さんは、そうされるのがすきではないという。
なぜかというと、やる内容と時間が記憶に強く残りすぎて、今やっていることが、スケジュールの時間通りに行われているのかどうかが、ずっと気になるからです。

わたしの職場にも、カードをしめすと
その刺激につよくひっぱられてしまい、
うごきにくくなるひとがいる。
また、わかりやすく予定をしらせるのが、
支援者として当然の役わりだとおもい、
たとえば、まえの日に予定をつたえたりすると、
その記憶がつよくのこりすぎて、
ほかの活動に気がまわらないくなるひとがいる。
東田さんがこの本にはっきりかいてくれたから、
自閉症のなかには視覚的な情報に
むかないひとがいるのをしった。
ただ、東田さんが、視覚的な支援を否定されているからといって、
すべての自閉症のかたもおなじとは、かんがえないほうがいい。
ひとによって支援の方法に ちがいがあるだけのはなしだ。

この本のおわりに短編小説「側にいるから」がおさめられている。
東田さんでなければかけない不思議なはなしであり、
13歳がかいたとはおもえないほど ととのった文章だ。
会話ができず、文字をうつのにも
ひとことひとことしぼりだすように
キーボードをたたく東田さんが、
こんな「ふつう」な小説をかけるとは。
いや、13歳の少年なのだから、ほかの子どもたちのなかにも
このようにたくみな小説をかく子がいるだろう。
東田さんは 自閉症ではあるけれど、
内面にはおおくのおもいをかかえている「ふつう」の13歳だ。

posted by カルピス at 19:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする