障害者介護には、移動支援というサービスがあり、
やすみの日のおでかけなどに、ヘルパーがつきそい、
1対1の対応で支援をうけられる。
このサービスは、市町村によって給付単価がことなるため、
それぞれの事業所が、自分たちで請求用のファイルを工夫している。
わたしがつとめる事業所は、わたしのパソコン師匠に注文をだし、
つかいやすい請求ソフトをつくってもらった。
きょうになって請求事務の担当者から、
パソコンが2月29日を認識しない、と連絡がはいった。
うるう日を、パソコンがうまくあつかえなかったようだ。
ほかの日にはいったサービスは、ふつうに計算するのに、
2月29日のサービスだけは、うけつけてくれない。
まえに請求事務を担当していたこともあり、
なんとかならないかと、わたしにも声がかかった。
この請求ソフトはファイルメーカープロという
データーベースソフトでつくってあり、
2月29日を有効にするには、なにかややこしい関数を
どこかにくわえる必要がありそうだ。
そんなこと、わたしにわかるわけないので、
どうしたものかと、パソコンのまえでかたまってしまった。
パソコン師匠に連絡をとると、すぐにはうごけないという。
前回のうるう日は、おそらく平日だったため、
おでかけの支援が必要ではなく、
うるう日問題をスルーできたのだろう。
今回のうるう日は土曜日だった。何十年にいちどのレアケースだ。
こうやって対応したものか。
正解は、2月29日を、ほかの日におきかえる、だった。
移動支援の請求においては(国保連むけの請求ではないので)、
サービスをおこなった日にちがとくに重要なわけではない。
2月におこなったサービス分を、請求できたらそれでいいわけで、
だったら便宜的に29日を28日にかきかえたらいい。
これに気づいたのは理事長だった。
理事長といっても、机にすわって新聞をよむような
おかざり的な存在ではなく、というよりも、
だれよりも現場の最前線にながくいたがる宮崎駿さんタイプだ。
宮崎駿さんがいうには、司令官として指揮をとる人間は、
塹壕にはいって弾のうちかたをおしえたりしたらダメなのに、
自分はついそれをやってしまうという。
わたしたちの理事長も、そういうところがある。
そんな理事長だからこそ、目さきの問題を
とりあえずさきおくりする、応急処置をほどこせた。
わたしは、29日がうるう日なのにとらわれて、
29日を2月にどうくみいれたらいいか、そればかりをかんがえていた。
だいじなのは、それが2月におこなったサービスかどうかであり、
29日を28日にかえても 2月であることにかわりはない。
じっさい、請求ソフトは、それでなにも問題なく計算してくれた。
うるう日を、どうしたら2月にくみこめるか、
真正面にとらえて頭をかかえるのは、この場合、むだな努力だ。
ただ日にちをずらせばいいのでは、と理事長が
柔軟なかんがえ方をさっとだしてきたのに感心した。
わたしにかけているやわらかなとらえ方で、
うまくいかないときの対応として絶妙だった。
2020年03月09日
2020年02月15日
『草むらにハイヒール』(小倉千加子)ー「依存」というのは人を混乱させる概念であるー
小倉千加子さんの『草むらにハイヒール』に
「依存」についてのエッセイがのっている
(「恋人を殺さなかったDV殺人犯の思い」)。
障害者福祉に関する法律は、
それまで「障害者自立支援法」だったのが、
2013年から「障害者総合福祉法」へとかわった。
「自立支援法」では
「総合福祉法」の基本理念は、
自立というと、どうしても就労とむすびつけてかんがえられがち、
という説明をテキストでよんだことがある。
依存とおなじように、自立もまた
「人を混乱させる概念」である。
東畑開人さんの『居るのはつらいよ』をよみ、
自立と依存についてのとらえ方がかわった。
「大佛次郎論壇賞を受賞して」のなかで東畑さんが
とかいている。
自分は自立できており、依存などしていない、
とおもいがちだけど、
だれもがおおかれすくなかれ依存しながら自立している。
わたしはネコのココに依存している自覚がある。
わたしのために ずっといっしょにいてくれと いいきかせている。
「依存」についてのエッセイがのっている
(「恋人を殺さなかったDV殺人犯の思い」)。
「依存」というのは人を混乱させる概念である。
「人は一人で生きていくことはできない」という言葉と「一人になれない人は二人にもなれない」という言葉とではどちらが共感できるだろうか。
アメリカでは、親密な関係の96%が「共依存」であるという説もある。96%が過度に親密で、適正な距離を保つことができない。しかし、96%が「共依存」なら、もはや異常と呼ぶことはできない。日本でも、金婚式を迎えるような夫婦は「共依存」だと指摘する人もいる。(中略)サラリーマンが定年まで会社にいるのも同じである。日本人は会社と過度に親密なため「過労死」するまで働く人も出てくる。もともと日本は「依存型」社会なのである。
障害者福祉に関する法律は、
それまで「障害者自立支援法」だったのが、
2013年から「障害者総合福祉法」へとかわった。
「自立支援法」では
自立した生活を営む事ができるように支援を行う
「総合福祉法」の基本理念は、
基本的人権を持つ個人として尊厳を尊重され、共に生きる社会を実現すること
自立というと、どうしても就労とむすびつけてかんがえられがち、
という説明をテキストでよんだことがある。
依存とおなじように、自立もまた
「人を混乱させる概念」である。
東畑開人さんの『居るのはつらいよ』をよみ、
自立と依存についてのとらえ方がかわった。
「大佛次郎論壇賞を受賞して」のなかで東畑さんが
誰かに依存していることを忘れるほどに依存できている状態が自立である
とかいている。
自分は自立できており、依存などしていない、
とおもいがちだけど、
だれもがおおかれすくなかれ依存しながら自立している。
わたしはネコのココに依存している自覚がある。
わたしのために ずっといっしょにいてくれと いいきかせている。
2020年02月07日
障害者グループホームの「新規立ち上げセミナー」に参加する
「ゼロから始める障がい者GH(グループホーム)
新規立ち上げセミナー」に参加する。
建築会社が主催するセミナーで、
グループホームを経営するときに、
どうやれば利益をだせるかのはなしがある。
障害者のグループホームは、老人のものとちがい、
日中はべつの事業所で仕事をし、
夜になるとグループホームにかえってきて、
必要なケアをうけつつ生活をする。
重度の障害者と、軽度の障害者では、
ちがうタイプのグループホームとなり、
サービス単価もちがってくるけど、
いずれにしても、親元をはなれ、
自立した生活をおくりたい障害者にとって、
とても重要な場所となる。
本人だけでなく、保護者にとってもニーズはたかい。
自分たちが年をとれば、いつまでも子どもの世話はできない。
グループホームでしっかりしたケアがうけられたら安心だ。
それなのに、いまの段階では、
まだじゅうぶんな数のグループホームが提供されていない。
わたしがつとめる事業所でも、
グループホームの必要性はよくわかりながら、
これまでふんぎりをつけられずにきた。
2003年に事業をはじめたので、
そのときは保護者もまだわかく、
グループホームは切実な要望ではなかったけれど、
開設から17年がたち、利用者である障害者も、
保護者の方たちも だんだんと年をとった。
自分たちが生涯にわたってわが子の世話をするのではなく、
日中の活動の場だけでなく、夜に生活する場もまた
提供してもらいたいという希望を よくきくようになった。
わたしたちの事業所が、なぜこれまで
グループホームを経営しなかったかというと、
しっかりしたサービスを提供しつづける責任に
たじろいていたからだ。
サービスを提供すれば、それにみあった報酬を
国から得られるのはわかっているけど、
いまいる職員で人的配置をまわそうとした場合、
夜のとまりなど、負担がおおきすぎ、実施にうつれなかった。
リタイヤした元介護職員や、パートの職員をつのり、
べつ事業としてグループホームを経営すればいいのに、
べつの職員集団にまかした場合、
サービスの質がおちるようで、ためらっていた。
いまおもえば、いまの仕事をしている職員たちで、
グループホームもまたやろうとするのはむりにきまっている。
完全に別事業としてグループホームにとりくむしかない。
サービス管理責任者がしっかりケア方針をたて、
サービスをつづけられるよう、必要なパート職員を配置する。
そこらへんが整理されないまま、グループホームは無理、
という雰囲気のままずるずると10年がすぎてしまった。
ようするに、どうしてもグループホームをやろうというだけの
覚悟がきまらなかったし、手をあげる人間もいなかった。
もうひとつネックになるのが、お金の問題だ。
スプリンクラーの設置などの基準をクリアーするには、
ふるい借家よりも、あたらしく家をたてたほうがいいらしい。
グループホームをはじめるにあたり、新築の家をたてれば
すくなからぬお金をかりる必要があり、
重度の方が利用するグループホームの場合、
どうしても1億円以上の借金となる。
オーナーに家をたててもらい、
月々でお金をかえしていくやり方もあるけど、
できれば自分たちで家をたて、
オーナーの顔色をうかがわずに経営したい。
きょういただいたレジュメは、グループホームについて
わかりやすく整理されており、やる気さえあれば、
黒字経営ができるしくみなのがわかった。
ただ、いかにいい資料があっても、
その資料を判断材料にグループホームをはじめるわけではない。
まずもとめられるのは、
どうしてもグループホームをやるという気もちであり、
覚悟であり、決心である。
できない理由はいくらでもつくれる。
問題は、やりたいか、やりたくないか。
気もちさえさえあれば、道はどこかにかならずある。
新規立ち上げセミナー」に参加する。
建築会社が主催するセミナーで、
グループホームを経営するときに、
どうやれば利益をだせるかのはなしがある。
障害者のグループホームは、老人のものとちがい、
日中はべつの事業所で仕事をし、
夜になるとグループホームにかえってきて、
必要なケアをうけつつ生活をする。
重度の障害者と、軽度の障害者では、
ちがうタイプのグループホームとなり、
サービス単価もちがってくるけど、
いずれにしても、親元をはなれ、
自立した生活をおくりたい障害者にとって、
とても重要な場所となる。
本人だけでなく、保護者にとってもニーズはたかい。
自分たちが年をとれば、いつまでも子どもの世話はできない。
グループホームでしっかりしたケアがうけられたら安心だ。
それなのに、いまの段階では、
まだじゅうぶんな数のグループホームが提供されていない。
わたしがつとめる事業所でも、
グループホームの必要性はよくわかりながら、
これまでふんぎりをつけられずにきた。
2003年に事業をはじめたので、
そのときは保護者もまだわかく、
グループホームは切実な要望ではなかったけれど、
開設から17年がたち、利用者である障害者も、
保護者の方たちも だんだんと年をとった。
自分たちが生涯にわたってわが子の世話をするのではなく、
日中の活動の場だけでなく、夜に生活する場もまた
提供してもらいたいという希望を よくきくようになった。
わたしたちの事業所が、なぜこれまで
グループホームを経営しなかったかというと、
しっかりしたサービスを提供しつづける責任に
たじろいていたからだ。
サービスを提供すれば、それにみあった報酬を
国から得られるのはわかっているけど、
いまいる職員で人的配置をまわそうとした場合、
夜のとまりなど、負担がおおきすぎ、実施にうつれなかった。
リタイヤした元介護職員や、パートの職員をつのり、
べつ事業としてグループホームを経営すればいいのに、
べつの職員集団にまかした場合、
サービスの質がおちるようで、ためらっていた。
いまおもえば、いまの仕事をしている職員たちで、
グループホームもまたやろうとするのはむりにきまっている。
完全に別事業としてグループホームにとりくむしかない。
サービス管理責任者がしっかりケア方針をたて、
サービスをつづけられるよう、必要なパート職員を配置する。
そこらへんが整理されないまま、グループホームは無理、
という雰囲気のままずるずると10年がすぎてしまった。
ようするに、どうしてもグループホームをやろうというだけの
覚悟がきまらなかったし、手をあげる人間もいなかった。
もうひとつネックになるのが、お金の問題だ。
スプリンクラーの設置などの基準をクリアーするには、
ふるい借家よりも、あたらしく家をたてたほうがいいらしい。
グループホームをはじめるにあたり、新築の家をたてれば
すくなからぬお金をかりる必要があり、
重度の方が利用するグループホームの場合、
どうしても1億円以上の借金となる。
オーナーに家をたててもらい、
月々でお金をかえしていくやり方もあるけど、
できれば自分たちで家をたて、
オーナーの顔色をうかがわずに経営したい。
きょういただいたレジュメは、グループホームについて
わかりやすく整理されており、やる気さえあれば、
黒字経営ができるしくみなのがわかった。
ただ、いかにいい資料があっても、
その資料を判断材料にグループホームをはじめるわけではない。
まずもとめられるのは、
どうしてもグループホームをやるという気もちであり、
覚悟であり、決心である。
できない理由はいくらでもつくれる。
問題は、やりたいか、やりたくないか。
気もちさえさえあれば、道はどこかにかならずある。
2019年12月10日
あたため機能つきの非常食セットに感心する
台所のテーブルに、アマゾンからよくくるサイズの箱がのっていた。
配偶者にたずねると、1日分の非常食だという。
たしかに、箱のおもてに「一日セット」とかいてある。
レスキューフーズ、ともある。

配偶者のつとめさきは、島根県を中心に介護事業を展開しており、
ひとつの施設は鳥取と島根の県境である境港市(鳥取県)にある。
島根原発の事故にそなえ、鳥取県は
県内にある入所型の施設に、こうした非常食をくれるらしい。
もっとも、入所者が1週間すごせるだけのセット数、
といういたりつくせりな くばり方ではなく、
たりない分は、施設側でそなえなければならないという。
我が家にあった「一日セット」は、
賞味期限がちかづいていたので、職員にくばられたものだった。

中身をみてみると
・おかゆ
・とりそぼろ
・ウインナーと野菜のスープ煮
・白いごはん
・ビーフカレー
・ポテトツナサラダ
・栗五目ごはん
・鶏肉うま煮
・みそ汁
となっている。
これで1日分だ。
どの料理もレトルトパックと缶詰にはいっている。
配偶者によると、まずまずの味らしい。
「一日セット」のなかに、発熱剤と発熱溶液もいれてあり、
ビニール袋のなかで熱反応をおこさせ、
おかずをあたためてたべられるのにおどろいた。
説明書をみると、あたためるのに30分かかるらしく、
けっこうめんどくさそうだけど、
さむくてつらい状況のときに、あたたかな食事がとれるのは、
なによりの「ごちそう」かもしれない。
配偶者のつとめさきのうち、
島根県にある施設には、なにもくばられないそうで、
災害へのそなえは、島根と鳥取で、あきらかに差がついている。
原発のある島根のほうが、鳥取よりもほったらかし、
というのはいかがなものか。
かんがえてみると、病院や、入所型の介護施設では、
災害がおきたときのために、本気でそなえようとするとたいへんだ。
燃料に水。食料や介護用品を、どれだけ備蓄したらいいのだろう。
準備のひとつとして、「一日セット」がくばられるのは
災害にそなえる意識をたかめるうえでも意味がありそうだ。
きょうの仕事で、島根県にある社会福祉施設をたずねると、
賞味期限がちかづいた乾パンとおかゆが机につまれており、
「ご自由におとりください(おひとりさま3個まで)」となっていた。
はなしのタネにと、ひとつずつ職場にもってかえる。
お弁当のあとで、乾パン(5枚いり)をみんなでわけてたべた。
むかしの乾パンより、たべやすい気がしたけど、
それでも乾パンは乾パンで、よほどさしせまった状況でなければ、
食事のかわりにしたくない風味だ。
「さしせまった状況」でたべるのが乾パンかもしれないけど、
さきほど紹介した「一日セット」とは50年ぐらい発想がおくれている。
わたしはこれまで被災者の立場にたたされたことがないとはいえ、
乾パンやつめたいおかゆでは、あまりげんきがでそうにない。
『コンバット』でみたアメリカ陸軍のCレーション(戦場での携帯食)
みたいなのがたべられたら、とおもってウィキペディアをみると、
いまでは廃止されたとある。
そういえば、何年かまえは、家族用の備蓄用食料を用意していた。
袋ラーメンやら、レトルトカレーなど、カロリーがあり、
おいしそうなインスタントものをダンボール箱にいれておく。
いれっぱなしでは賞味期限がいちどにくるので、
ふるくなったものから料理につかっていく。
「一日セット」より場所をとらず、お金もかからないので実用的だ。
なぜやめてしまったのか おぼえていない。
あそびごころをくすぐられなくなったのかもしれない。
配偶者にたずねると、1日分の非常食だという。
たしかに、箱のおもてに「一日セット」とかいてある。
レスキューフーズ、ともある。

配偶者のつとめさきは、島根県を中心に介護事業を展開しており、
ひとつの施設は鳥取と島根の県境である境港市(鳥取県)にある。
島根原発の事故にそなえ、鳥取県は
県内にある入所型の施設に、こうした非常食をくれるらしい。
もっとも、入所者が1週間すごせるだけのセット数、
といういたりつくせりな くばり方ではなく、
たりない分は、施設側でそなえなければならないという。
我が家にあった「一日セット」は、
賞味期限がちかづいていたので、職員にくばられたものだった。

中身をみてみると
・おかゆ
・とりそぼろ
・ウインナーと野菜のスープ煮
・白いごはん
・ビーフカレー
・ポテトツナサラダ
・栗五目ごはん
・鶏肉うま煮
・みそ汁
となっている。
これで1日分だ。
どの料理もレトルトパックと缶詰にはいっている。
配偶者によると、まずまずの味らしい。
「一日セット」のなかに、発熱剤と発熱溶液もいれてあり、
ビニール袋のなかで熱反応をおこさせ、
おかずをあたためてたべられるのにおどろいた。
説明書をみると、あたためるのに30分かかるらしく、
けっこうめんどくさそうだけど、
さむくてつらい状況のときに、あたたかな食事がとれるのは、
なによりの「ごちそう」かもしれない。
配偶者のつとめさきのうち、
島根県にある施設には、なにもくばられないそうで、
災害へのそなえは、島根と鳥取で、あきらかに差がついている。
原発のある島根のほうが、鳥取よりもほったらかし、
というのはいかがなものか。
かんがえてみると、病院や、入所型の介護施設では、
災害がおきたときのために、本気でそなえようとするとたいへんだ。
燃料に水。食料や介護用品を、どれだけ備蓄したらいいのだろう。
準備のひとつとして、「一日セット」がくばられるのは
災害にそなえる意識をたかめるうえでも意味がありそうだ。
きょうの仕事で、島根県にある社会福祉施設をたずねると、
賞味期限がちかづいた乾パンとおかゆが机につまれており、
「ご自由におとりください(おひとりさま3個まで)」となっていた。
はなしのタネにと、ひとつずつ職場にもってかえる。
お弁当のあとで、乾パン(5枚いり)をみんなでわけてたべた。
むかしの乾パンより、たべやすい気がしたけど、
それでも乾パンは乾パンで、よほどさしせまった状況でなければ、
食事のかわりにしたくない風味だ。
「さしせまった状況」でたべるのが乾パンかもしれないけど、
さきほど紹介した「一日セット」とは50年ぐらい発想がおくれている。
わたしはこれまで被災者の立場にたたされたことがないとはいえ、
乾パンやつめたいおかゆでは、あまりげんきがでそうにない。
『コンバット』でみたアメリカ陸軍のCレーション(戦場での携帯食)
みたいなのがたべられたら、とおもってウィキペディアをみると、
いまでは廃止されたとある。
そういえば、何年かまえは、家族用の備蓄用食料を用意していた。
袋ラーメンやら、レトルトカレーなど、カロリーがあり、
おいしそうなインスタントものをダンボール箱にいれておく。
いれっぱなしでは賞味期限がいちどにくるので、
ふるくなったものから料理につかっていく。
「一日セット」より場所をとらず、お金もかからないので実用的だ。
なぜやめてしまったのか おぼえていない。
あそびごころをくすぐられなくなったのかもしれない。
2019年12月02日
朝日新聞beにとりあげられた丹野智文さん
先週の朝日新聞土曜日版beに、
認知症の当事者活動をすすめている
丹野智文さんがとりあげられていた。
丹野さんは、39歳のときに
若年性アルツハイマー型認知症と告知された。
そのときはつらい時期をすごしたものの、
家族会や中高時代の仲間にささえられ、
そして、職場の理解もあり、
いまではじゅうじつした日々をおくっておられる。
おれんじドアは、丹野さんが仲間たちとはじめた活動で、
認知症の当事者が相談をうける側にまわる、
全国でもめずらしいとりくみだ。
3年ほどまえに、Eテレが丹野さんをとりあげているのをみた。
テレビにうつる丹野さんは、あかるくふるまいながらも、
これから症状がすすんだらどうなるかと、自信なさげだった。
番組のなかで、丹野さんがスコットランドをたずねている。
スコットランドでは、認知症になっても、運転をつづけられるし、
当事者のひとたちが、自分で できることはつづけ、
できなくなったことはまわりにてつだってもらい、
堂々とくらしている印象をうけた。
この、スコットランドでの体験が、
丹野さんにおおきな影響をあたえたそうで、
Beの取材にこたえる丹野さんは、
自信をもって当事者運動をすすめているようにみえる。
認知症をとりあげる番組や記事は、
「認知症になったらおしまい」、ではなく、
そうなってからも、まえむきに生きていける、
とつたえたいふうだけど、すんなりと うのみにできない。
認知症になったら、やっぱりたいへんだなー、と
どうしてもわたしはおもってしまう。
記憶がなくなっていく恐怖は
そうかんたんにまぎらわせるものではないだろう。
beの取材で将来への不安をたずねられた丹野さんは、
健康にかんするわたしの不安は、
認知症と脳梗塞(によるマヒ)だったけど、
心配してもしょうがないのもたしかだ。
そうなればなったで、状況をうけいれ、生きていくしかない。
丹野さんのとりくみをしり、認知症についての記事で、
はじめてまえむきにとらえられた。
認知症の当事者活動をすすめている
丹野智文さんがとりあげられていた。
丹野さんは、39歳のときに
若年性アルツハイマー型認知症と告知された。
そのときはつらい時期をすごしたものの、
家族会や中高時代の仲間にささえられ、
そして、職場の理解もあり、
いまではじゅうじつした日々をおくっておられる。
おれんじドアは、丹野さんが仲間たちとはじめた活動で、
認知症の当事者が相談をうける側にまわる、
全国でもめずらしいとりくみだ。
目の前の不安な当事者を笑顔に変えたいだけなんです。結果として、社会が変わってくればいい。
3年ほどまえに、Eテレが丹野さんをとりあげているのをみた。
テレビにうつる丹野さんは、あかるくふるまいながらも、
これから症状がすすんだらどうなるかと、自信なさげだった。
番組のなかで、丹野さんがスコットランドをたずねている。
スコットランドでは、認知症になっても、運転をつづけられるし、
当事者のひとたちが、自分で できることはつづけ、
できなくなったことはまわりにてつだってもらい、
堂々とくらしている印象をうけた。
この、スコットランドでの体験が、
丹野さんにおおきな影響をあたえたそうで、
Beの取材にこたえる丹野さんは、
自信をもって当事者運動をすすめているようにみえる。
忘れることを気にしすぎなんです。道がわからなくなったら、通行人に聞いて目的地に着けばよい。そうすれば、成功体験を積み重ねられるんです。
仙台市内のクリニックでは、診療を終えた当事者と僕が面談する「ピアサポート活動」をしています。なかなか外に出ない当事者にとっては、こちらのやり方が効率的です。(中略)みんな来た時は暗い表情だったのが、帰るときは笑顔になる。これは「認知症でもできる仕事」ではなくて、「認知症だからこそできる仕事」なのです。
認知症をとりあげる番組や記事は、
「認知症になったらおしまい」、ではなく、
そうなってからも、まえむきに生きていける、
とつたえたいふうだけど、すんなりと うのみにできない。
認知症になったら、やっぱりたいへんだなー、と
どうしてもわたしはおもってしまう。
記憶がなくなっていく恐怖は
そうかんたんにまぎらわせるものではないだろう。
beの取材で将来への不安をたずねられた丹野さんは、
不安がない、と言ったらうそになります。診断された6年半前に比べ、記憶力は落ちています。夜も薬の影響なのか脳が覚醒しているため、何度も目が覚めます。でも、仲間とともに今を楽しく生きることで、その不安を和らげられます。当事者たちの笑顔もエネルギーになります。
確かに症状はあって大変だけど、今は「それはそれでいいかな」と思えるようになった。(中略)僕が選んだのは、認知症を悔やむ道ではなく、認知症とともに生きる、という道なのです。
健康にかんするわたしの不安は、
認知症と脳梗塞(によるマヒ)だったけど、
心配してもしょうがないのもたしかだ。
そうなればなったで、状況をうけいれ、生きていくしかない。
丹野さんのとりくみをしり、認知症についての記事で、
はじめてまえむきにとらえられた。