2019年11月21日

ボジョレー ヌーボーの配達に、地味仮装でのぞむ

きょうは11月の第3木曜日。ボジョレー ヌーボーか解禁される日だ。
わたしがつとめる介護事業所は、この日にあわせて
お世話になった方々へ、ボジョレー ヌーボーをプレゼントする行事が、
10年以上まえからつづいている。
問題は、ボジョレーをとどけるにあたり、職員が仮装することで、
2名でペアをくんだ職員が、自分たちでアイデアをだした仮装でまわる。
はじめのころは、100均でかった
サンタの格好をするぐらいでよかったのに、
ハロウィンの影響もあってか、だんだんはでな仮装になってきた。
デイリーポータルZの「地味仮装」がすきなわたしは、
どこにでもいそうな、
町でよくみかけるひとへの仮装をこころがけている。

ことし、わたしたちのペアは、スターバックスの店員に仮装した。
ほんものそっくりなエプロンを、手芸雑貨の店でぬってもらい、
しろいシャツをきると、すごくもっともらしい姿になる。
ただ仮装するだけではおもしろくないので、
なにか必然性のあるストーリーがほしいところだ。
こんかいかんがえた筋書きは、
「これまでまいとしボジョレーをおとどけしてきましたが、
 事業所が貧乏になり、ことしはボジョレーを
 プレゼントできなくなりました。
 かわりにスターバックスの出張販売にたのみ、
 番茶と白湯をぞんぶんにめしあがっていただきます」
みたいな内容だ。
そして、紙コップに番茶と白湯をつぎ、のんでもらう。
そのあと用意したボジョレーのセット
(鶏肉のグリルと、事業所の製品)を
なーんちゃって、とわたすわけだけど、
もうひとひねりして、イソップ童話の金の斧、銀の斧をとりいれる。
「きのうあなたがわすれた袋は、古新聞がつまった紙の袋ですか、
 それともいかにもおめでたそうな、こちらのおおきな袋ですか?」
とお客さんにたずねる。
袋なんかわすれてない、というひとには、
どちらかというと、どちらをわすれられましたか?
としつこくきく。
地味な袋をえらんだひとには、正直ものとして、
はでな袋をえらんだひとには、あまり正直ではないひととして、
けっきょくどちらにも、用意してきたボジョレーセットをわたす、
というながれだ。
どれだけのお客さんが、わたしたちのストーリーに
ついてきてくれるか心配したけど、
あんがいみなさんすんなりと うけいれてくれた。

ふりわけられた12軒への配達をおえ、事業所にもどると、
さきにかえっていたペアが、仮装したまま まっていた。
ことしは、「もののけ姫」・「魔女の宅急便」・「トトロ」
「トムとジェリー」・「スパイダーマン」と、
アニメがらみの仮装がおおかった。
ラグビーW杯の「オールブラックス」を仮装したペアが
最優秀賞にえらばれている。
地味仮装は、わたしたちのペアだけだった。
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まいとし、よくこんなおさわがせ企画をつづけてきたものだ。
理事長は、ことしもぶじにボジョレーをおとどけできるのが、
ほんとうにうれしくて、この企画をつづけている。
事業所が、ことしいちねん、健全な経営をたもち、
質のたかいサービスで、利用する方々によろこんでもらえている。
その感謝の気もちを、理事長はボジョレーの配達にこめている。
まいとし仮装のアイデアをねるのはたいへんだけど、
ことしもかわりなくボジョレーをとどけられるのは、
職員としても、名誉であり、ありがたいことと、
よろこばなくてはならないだろう。
つつがなく、ことしもなんとかボジョレーの配達をおえた。
ほっとしながらも、はやくも来年の仮装がプレッシャーだ。
タグ:地味仮装

posted by カルピス at 22:35 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月07日

ことしのボジョレー=ヌーボーで、どんな仮装をするかの腹案

まいとしこの時期の記事にかいているのは、
事業所がボジョレー=ヌーボーをくばるとき、
どんなコスチュームをきるかについてだ。

これだけでは、なんのことかわからないだろう。
すこしくわしく説明すると、わたしがはたらく事業所は、
ボジョレー=ヌーボーが解禁される 11月の第3木曜日にあわせ、
この一年間おせわになったひとたちへ、
ボジョレーと鶏肉料理、それに
手づくりの雑貨などをプレゼントしている。
それらをただくばるのではなく、職員2人がペアをくみ、
なんらかの仮装をして家いえをまわる、というきまりが
ことをやっかいにしている。

わたしは、はでな仮装は趣味にあわないので、
デイリーポータルZがとなえてひろまりつつある
地味仮装により、これまでの3回をきりぬけている。
https://dailyportalz.jp/kiji/jimihalloween2019report
1回目はクロネコヤマトの配達人として、
2回目は、家出少女が近所で出没している、
という回覧板をとどけにきた町内のおじさんとして、
3回目は、選挙運動に家いえをまわる
国会議員候補とその秘書という設定で。

国会議員候補は、われながらいいアイデアで、
家をまわったときに 玄関でマニヘストの説明をし、
「ごあいさつ」としてボジョレーを手わたせばぴったりだった。
正直なところ、もうこれでわたしの貧困なアイデアはでつくしており、
つぎはなにをしようかと、プレッシャーにつぶれそうになりながら
この1年をモンモンとしてすごしてきた。
かんがえたところで、なにかおもしろいネタがおちてくるわけはない。
こまっていたところ、ことしのパートナーである女性職員が、
スターバックスの店員への仮装を提案してきた。
ただ仮装するだけでなく、なにかストーリーをくわえ、
必然性のある訪問とプレゼントにしたい。
いま まとまりつつ案は、

「まいとしボジョレーをおとどけしてきましたが、
 ことしはお金がなくなり、ボジョレーではなく
 番茶と白湯しかサービスできなくなりました」

というもの。
徹底的に貧乏な設定にしたらおもしろそうだ。
パリッとしたスターバックスの店員が、
洗練されたしぐさで番茶と白湯を紙コップにそそぎ、
ぞんぶんにのんでもらおう。

そうはいっても、けっきょくはボジョレーをふくむプレゼントを、
たずねた家でおわたしするわけで、
だったら すこしもったいぶってから「なーんちゃって」とわたしたい。
そのひとひねりをどうするか、このところずっとなやんでいる。
のこされた期間は2週間となった。
いろいろ検討し、できるだけあそんでからプレゼントしたい。

posted by カルピス at 21:23 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月24日

仲間といっしょになにかをするって、すごくたのしそう

BSプレミアムの「世界ふれあい街歩き」で、
ベルギーのブリュッセルをとりあげていた。
ブリュッセルというと、EUの本部があり、
国際社会の最先端をすすむ町、という印象がある。
とおりがかりのひとが、ブリュッセルは
170カ国のひとがくらす町、とおしえてくれた。

ということは、きょうのはなしでは どうでもよくて、
番組をみていて わたしが気にいったのは、
グループでうごいているひとたちの たのしそうなようすだ。
ある町かどで、2世帯の家族が、開店まえの店の掃除をしていた。
親はベルギー人で、むすこはラオスからきて、
妻はタイ人で、むこうにいるひとはなんとか人で、と
出身のことなるさまざまなひとたちが、
いっしょに店の壁をきれいにしている。
もうひとつのグループは、楽器をつくるという。
蚤の市でのうれのこり品(ガラクタにしかみえない)を、
ネコ車にのせて倉庫へもってかえり、
どんな楽器をつくろうかと相談している。
ひとりの女の子が、ホースをブンブンふりまわして
音をならしてみせてくれる。まわすスピードにより、
いろんな音をだせるのだという。
わたしにはさえないあそびにしかおもえなかったけど、
やっている本人たちがたのしければ それでじゅうぶんだ。

いまさらこんなことをいうのもなんだけど、
仲間といっしょになにかをするって、すごくたのしそうだ。
そんなのブリュッセルでなくてもできるわけだけど、
先進国の首都、とりわけおおくの民族があつまる街で、
「よりよく」なんてぜんぜんもとめない、
雑多なメンバーによるとりくみが 新鮮にうつった。
もっと徹底した個人主義がいきとどき、
ひとびとは、ひとりを基本のかたちとして、
しずかに、ひっそりとくらしているようにおもっていた。
ひとりがいいときもあるだろうし、
グループでの仕事は効率がわるいこともあるだろうけど、
なんにんかでとりくむのがあたりまえ、という
そもそものスタートラインがすてきだ。

日本では、少子・高齢化をさきどりする状況として、
活気のない農村が問題として とりあげられるけど、
ひとがすくなければ どうしてもうごきは停滞しがちだ。
わかいひとが、とくに女性がなんにんかくわわると、
いっぺんでその場にひかりがあたる。
ひとりで、ひっそりうごいていては活気につながらない。
どうしたら ひとがあつまる場所をつくれるかに、
知恵をしぼったほうがいいのではないか。
それができないから問題なんだろうけど、
とにかく、ひとがいなければ どうにもならない。

わたしの職場である介護事業所だって、
グループでのうごきが基本だ。
でも、グループでうごくからたのしい、
という活動にはなかなかならない。
仕事の効率をあげるには、だれがどんな仕事をうけもつ、
というのが暗黙のうちにきまっており、
職員がそのおおわくをきめがちだ。
ひとがすくないほうが、かえって効率がいいときさえあり、
活動にとりくむたのしさより、
つつがなく仕事をすすめることが 優先されてしまう。

『居るのはつらいよ』(東畑開人)をよんでから、
居場所をえる、とか、
「ただ、いる、だけ」の価値などが気になっている。
だれもが自分の居場所をもとめている。
たとえ仕事へのかかわりはすくなくても、
だからといって そのひとがいづらくなるようでは
なんのための活動なのかがずれてしまっている。

わたしはグループでうごくのがにが手で、
ひとりでの仕事のほうがよほどたのしい。
でも、仕事だとおもって(まさしく仕事なのだ)、
集団でゴソゴソうごくのをたのしまないと、
利用しているひとがつまらないおもいをする。
仲間といっしょにいる充実感もまた、
たのしさにかかわる たいせつな要素となる。
いっしょにいるだけでたのしい、を、どこまで保証できるか。
ものづくりのまえに、居場所づくりがわたしたちの仕事だ。
ブリュッセルの光景をみて、なぜだかそんなことが頭にうかんだ。

posted by カルピス at 21:50 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月06日

外国語をならってるみたいで たのしかった手話の勉強会

手話の勉強会に参加する。
職場の有志があつまっての会で、
今夜が2回目だという。
「盲」と「ろう」の障害をもつ方が 陸上のレースに出場されるため、
伴走のボランティアに せんじつ いちどはいった。
わたしは手話がまったくできないため、
相手の手のひらに、指で字をかいて
コミュニケーションをとる。
最小限のやりとりはなんとかなったけど、
わたしが手話をおぼえたほうがいいのは あきらかだ。
むかしかった手話の本をひっぱりだすけど、
本だけではなかなか身につかない。
今夜は10人のメンバーが先生をかこんで、
日常のあいさつにとりくんだ。

「おはようございます」は
こめかみに にぎりこぶしをあて、
その手を胸のまえにおろす。
そして、ひとさし指をのばした両手を、
胸のまえでむかいあわせ、指先を同時にまげる。
こめかみにあてた にぎりこぶしは
枕と頭のようすをあらわしており、
それをはずすことで、「おきる」の動作となる。

こんなふうに、手話はジェスチャーから
なんとなくイメージできる「単語」がおおく、
ひとつひとつは そうむつかしくないけど、
なんといっても「おぼえる」のがたいへんだ。
今夜おしえてもらったあいさつは、
よくつかうものばかりなので、なんとしても身につけたい。
あすの午前に、2回目の伴走ボランティアをする予定なので、
そのまえの日に勉強会があったのは運がよかった。
あしたの伴走が、いい復習になるだろう。

手話の勉強は、外国語の勉強とにているけど、
ややこしい文法や動詞の変化はない。
名詞に女性だの男性だのもないし、
例外だらけの規則に混乱させられたりしない(はず)。
単語だけをおぼえればいいのだから、
かんたんじゃん!、とおもったけど、
ぜんぜんかんたんじゃなかった。
おそわるそばからわすれてしまうので、
すこしこみいったあいさつになると理解がおいつかない。

今夜は、ひととおり あいさつをならったあとで、
2人ひとくみになって「会話」をした。
手話は、手のうごきだけでなく、顔の表情も大切といわれる。
手のうごきにしても、はげしく「つかれた」をあらわすと、
「すごくつかれた」意味になるし、
ゆっくりしたうごきだと「すこしつかれた」をあらわす。
コミュニケーションをとれたときのうれしさは、
外国語をはなしたときとおなじだ。
1時間おそわっただけで、頭がいっぱいになったけど、
ひさしぶりに外国語を勉強したような気がしてたのしかった。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月29日

「ただ、いる、だけ」が大切にされる居場所を

『居るのはつらいよ』(東畑開人)をよんでから、
自立と依存のかねあいが 気になっている。
障害者介護にたずさわるわたしは、
自立をたすけるのが仕事だと おもっていたけど、
はたしてそうかんたんに いいきれるだろうか。
自立をもとめすぎると、「いる」のがつらくなる。
「ただ、いる、だけ」をみとめ、
そこが自分の居場所だとおもってもらえなければ、
安心してすごせなくて、なにかと問題がでてきやすい。

わたしが所属するクッキー班のメンバーに、
このごろ仕事につけなくなっているひとがいる。
休憩室のイスにすわり、なかなかうごけない。
クッキーをつくる部屋に、ようやくこれたかとおもうと、
手袋がつけられず、また休憩室にかえってしまう。
表情がかたく、仕事にさそっても、首をよこにふる。
はじめはつかれかとおもっていたけど、
どうもそれだけではないようで、
この2週間おなじような状態がつづいている。
クッキー班以外ですごすときには、
これまでとかわりなく 笑顔がでるのだから、
おそらく問題はクッキーの仕事であり、
なにかひっかかり、こまっているのだろう。

クッキー班は、就労継続B型の事業所であり、
はたらくこと、はたらく意欲をひきだすのを大切にする。
クッキー工房にきても、仕事にむかえなければ、
休憩室で気分をかえてから仕事をしましょう、とうながす。
仕事をしなかったひとは、配達にでられず、「おるすばん」となる。
仕事をするひとは立派で、仕事をしないひとは「こまったひと」。
はたらく場なのだから、そうした「きびしさ」は
当然なのだと職員たちはおもっている。

でも、そうやって仕事をもとめられると、
「いる」のがつらくなるひともいる。
いま調子をくずしているメンバーも、
そうしたひとりではないだろうか。
はたらくとほめられるけど、
はたらかないと、居場所がなくなる。
これまでになんどもサインをだしていたのを、
職員たちは気づかずに、仕事ばかりをもとめてしまった。
その結果が、仕事へのプレッシャーというかたちとなり、
仕事につけなくなっているのでは。

わたしたちは、クッキー班のメンバーに、
ここにいるだけでいい、いてくれるだけでうれしいと、
自分たちの気もちをつたえる必要がある。
安心してすごせる場所であると、ふかくかんじてもらうこと。
それは、あいてのいいなりになるとか、あまえをゆるすとかではなく、
そのひとにあった自立と依存を保証する、というかんがえかただ。
もういちどクッキー班で笑顔をみせてもらえるように、
「ただ、いる、だけ」を大切にする場をつくりたい。

posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする