2017年11月22日

紅白にSHISHAMOが出場

紅白歌合戦に出場するひとたちが発表された。
例によって、わたしのしらない名前のほうがおおく、
わたしがいかに芸能オンチかをおもいしらされる。
複数回目の出場となるひとでも、
おぼえのない名前がいくつもあるのだから、
ひらきなおるしかない。
それに、だれがでて、だれがでないのかは、
おおくのひとにとって すぐにはこたえられない難問だ。
たとえばAIが3回目の出場なのに、
aikoはなぜえらばれないのかなんて、
わたしにはむつかしすぎる。

ただ、初出場でもSHISHAMOだけはしっていた。
送迎のとき、ラジオでよくきく「ゆうがたパラダイス」で
SHISHAMOの「明日も」がかかり、
この曲のよさはわたしにもすぐわかった。
ことしを代表する歌になる予感があり、
むすこやしりあいにきかせると、だれもがいいという。
きっと、紅白にもでるだろうと、わたしはおごそかに宣言し、
そしてじっさいそのとおりとなった。
べつにわたしがえらいわけではなく、
反対に、いかにわたしがミーハーかの証拠ともいえる。
だれもがいいとおもう曲を、
わたしもまたいいとおもってしまう。
わたしのこのみがみんなよりもさきをいき、
あとからブームになったら得意だろうけど、
そんな体験はしたことがない。
あとをおいかけるのは、いつもわたしのほうだ。

ことし一年は、ガールズバンドについていこうとしてみた。
ヒャダインさんのラジオ番組”ガルポプ!”と、
月曜から木曜までのゆうがたパラダイス(NHKーFM)により、
これまでさけてきたガールズポップに、
意識して頭をなじませようとした。
アイドルの曲にだって耳をかたむけている。
紅白に2年つづけての出場がきまった欅坂46が、
ゆうがたパラダイスの月曜日を担当しており、
メンバーがふたりずつ順番にでている。
ほかの曜日をうけもつ女性たちとくらべ、
欅坂の女の子たちは、いかにもアイドルで、
舌たらずのしゃべりかたと、はなしの貧弱さがきわだち、
わたしにとって、ききつづけるのは そう楽ではない。
なかには自分のことばではなせるひともいるけど、
自立した女性をアイドルにもとめる
わたしのほうに無理があるのだろう。
アイドルとは、こういうひとたちのことをいうのだと、
ふなれなわたしに「アイドル」をおしえてくれたのが欅坂46だ。

一年の集大成として、ことしの大みそかは
しっかりと紅白をみてみよう。
すくなくとも、SHISHAMOと欅坂46だけは
どんな舞台となるかみとどけたい。
一年にわたるわたしのささやかなガールズポップ体験は、
どんな実をみのらせるだろうか。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月14日

ひさしぶりの「関白宣言」

きらいなものをわざわざブログにかく必要はないとよくいわれる。
たしかに。
でも、苦手については、すこしぐらいゆるされるのではないか。
なにかをきらいなことに理由はないけど、
なんで苦手かのなかには、わたしの深層心理にかんする
普遍的な問題点がかくされているかもしれない。

というわけで、さだまさしさん。
先日NHK-FMの「歌謡スクランブル」をきいていたら、
昭和・平成のヒット曲集を特集していた。
月曜日に昭和のふるい歌からはじまり、
だんだん時代をさかのぼって 金曜日には平成の曲にいたる。
わたしはさだまさしさんが苦手で、
あのひとの曲がかかると たいていすぐにチャンネルをかえるけど、
この日は、ヒット曲のながれをおいかけたかったので、
「関白宣言」がかかっても そのままききつづけた。
ひさしぶの「関白宣言」だ。

なんでわざわざこんな曲をつくったのか理解にくるしむ。
なんどきいても、感想はかわらない。
歌ってる本人は冗談だというかもしれないけど
冗談でも ああいう 歌詞が出るのは、
ほんとのところは、冗談でないからだろう。
自民党の議員が、どこかで問題発言をしてしまい、
「ジョークだから」と いいわけする場面をおもいだした。

なぜわたしはさだまさしさんが苦手なのか。
よくある現象として、さだまさしさんのなかに、
かくしている自分をかんじとってしまい、
なるべく距離をおきたくなるのかもしれない。
さだまさし的な要素が「関白宣言」にはつめこまれており、
だからこそつよく反発してしまうのでは。
あまりかんがえたくない仮説だけど、
つよく否定する裏には、それなりの理由があるはずだ。
自分という人間の存在基盤を あやうくしかねないので、
無意識のうちにさだまさしさんを
とおざけているとしたら かなり残念だ。
ネガティブな感情をあつかうのはむつかしい。
きらいでも苦手でも、わざわざブログにかくのは
やめたほうがいいみたいだ。

posted by カルピス at 22:46 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

RCサクセッションの「上を向いて歩こう」をきいたことがありますか

「上を向いて歩こう」は、もちろん
永六輔さんと中村八大さんがつくり、坂本九さんがうたった曲だ。
そして、九ちゃんだけでなく、RCサクセッションもうたっている。
RCのばかりきいてきたわたしは、
「上を向いて歩こう」といえば、RCのほうをまずイメージする。
https://www.youtube.com/watch?v=E2XHVqmlv_s

本の出版でいうと、九ちゃんのが旧訳で、
RCは新訳ということになる(ほんとうか!)。
ぜんぜんちがうとまではいえないけど、
かなりあたらしい解釈がもちこまれ、
別物の曲にしあがっている。
有名な曲をべつの歌手がうたうときに、
よくカバーとよばれるけれど、
カバーは新訳ほどの斬新性はなく、せいぜい改版でしかない。
この法則を発見したとき、
わたしは自分のするどさにおどろいてしまった。
とはいえ、これはわたしがえらいわけではなく、
RCの、あるいは清志郎のアレンジがそれだけすさまじく、
換骨奪胎がみごとにはきまっているからだ。
ちなみに、清志郎は「君が代」も新訳でうたったけど、
こちらはあまりおおくのひとになじまなかったようだ。

新訳なんて いきなりいいだしたのは、
「本の雑誌 10月号」の特集が、新訳だったからだ。
新訳といえば、光文社の「古典新訳文庫」が有名だけど、
ほかの出版社もたくさんだしており、
特集ではえりすぐりの50作が紹介されている。
亀山郁夫氏による新訳『カラマーゾフの兄弟』をよみ、
旧訳よりずっとすらすらよめた体験をもつわたしは、
本には賞味期限があるという説に賛成する。
村上春樹さんによる『ロング・グッドバイ』や
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、
それに『グレート・ギャツビー』も、旧訳よりしたしめた。

特集でもふれられていたように、
新訳はあたらしい読者へのよびかけでもあるけれど、
再読へのきっかけにもなる。
文体がよくねられていて よみやすいし、
たいていは活字がおおきくなっているので、
老眼となったわたしにはとてもたすかる。
わたしは、気にいった本を歳とってからの再読のために、
ごっそり本棚に確保してあるものの、
ふるい本のおおくは活字がちいさくて、よむのに難儀をする。
字のちいささは、再読のおおきな障害であり、
せっかく本棚にしまいこみながら、
再読のときにはあらたに新訳をかうかもしれない。

九ちゃんはが「上を向いて歩こう」をうたったのは1961年で、
RCサクセッションによる「新訳」は1979年。
もう、どちらもたっぷり時間にさらされて、りっぱな古典となった。
いまさらわたしがもちあげるまでもないけど、
RCの「上を向いて歩こう」をきいたことがないひとには、
ぜひスキヤキでないほうの新訳を味わっていただきたい。

posted by カルピス at 06:50 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月28日

音楽の世界は、いまも神童たちが生まれているのか

「クラシックカフェ」などの音楽番組では、
演奏家や作曲家を紹介するときに、
8歳から才能を開花させ・・・、みたいなはなしがよくでる。
おさなくして数十曲の作曲をしたとか、
10歳にならないうちから、国王のまえでピアノを披露したとか。
むかしの大音楽家たちのおおくが、おどろくほど おさないころから
ゆるぎない神童であった。
いまもまた、そうした天才たちが、音楽の世界にはいるのだろうか。
音楽の世界では超有名であっても、
一般にはあまりしられていないだけなのか。

音楽の天才たちが花をさかせた時代は、
音楽くらいしか、目だった才能を発揮できなかったのかもしれない。
貴族だったら乗馬やキツネがりなどで
ひいでたうでまえを披露する機会があるけど、
庶民クラスの階層では、音楽にすぐれるぐらいしか、
成功をおさめる場面がない。
だれもがきいて、はっきりわかる技能が、音楽だった。
音楽方面での突出した才能を
パトロンである貴族たちはまちのぞんでおり、
すぐれた子が才能をみせると、すぐにケアされて、
大演奏家のもとへでむいてトレーニングをうける
(ような気がする)。

いまは、スポーツやパソコンなど、
天才が能力をあらわせる場所が
音楽のほかにもたくさんある。
サッカー選手など、だれにもできないような技を披露し、
スポンサーが何十億もの価値をみとめるのだから、
むかしの音楽家に匹敵する天才たちといえるのではないか。
将棋の藤井四段も、わかりやすい形であらわれた超天才だ。
ひとけたの年齢で、すでに将棋界から注目されていた。

ものすごくおおざっぱにいってしまうけど、
ほんの100年か200年のあいだに
ポコポコと大音楽家たちが生まれ、
そのおおくはおさないころからの神童だった。
そしてクラシックは、大音楽家たちが世をさってからも、
歴史の波をかいくぐり、おおくのひとから愛され、
世界じゅうで演奏されつづけている。
音楽の世界では、8歳で作曲をはじめるような天才が、
いまもあちらこちらでそだっているのだろうか。

posted by カルピス at 23:14 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月25日

ブルートゥースイヤホンの自由におどろく

わたしの誕生日は7月15日だ。
そんなのどうでもいいというひとは、
糸井重里さんちのブイヨンくんとおなじ日だといえば
すこしはおぼえやすいだろうか。
いまさら誕生日をいわう年でもないので、
ほかの日とおなじように淡々とすごしたけど、
自分にプレゼントするのは わるくないかも、
とあとからおもいついた。
アマゾンでブルートゥースのイヤホンをさがす。
SoundPEATS(サウンドピーツ)Q12という
2400円ほどの商品を注文した。

まえからワイヤレスイヤホンがほしかったけど、
線がないだけのイヤホンが ほんとうに必要かというと、
ムダなかいものでしかないような気がしてくる。
これまでになんどかおなじ筋道で
ほしくなる、でも我慢する、をくりかえしてきた。
でもまあ、これはプレゼントなのだからと、
必要かどうかより、あそびの要素を大切にしたいとおもった。
もうのこりの人生はそうながくないのだから、
我慢するより はじめての体験をあじわったほうがいい。

ひとむかしまえのおもいでになるけど、
ノートパソコンをはじめて無線LANにつないだとき、
あんまり快適なのに すっかりおどろいてしまった。
線をいくつもつけたノートパソコンなんて、
ノート型であるメリットをほとんどいかしていない。
ノートパソコンをかかえて部屋を移動しても
ずっとネットにつながっているのは
ものすごく自由で身がるな世界だった。
線につながれたパソコンと、ワイヤレスのパソコンは、
まったく別ものだとつよくかんじだ。

ワイヤレスイヤホンは、あのときのおどろきを
ふたたびわたしにもたらすかも、という予感があった。
線があるかないかは、みかけよりずっとおおきな変化で、
なにかを決定的にかえるのでは。

わたしとしてはめずらしく、
この予想はぴったりあたった。
ブルートゥースのイヤホンをつけると、
ものすごく自由で身がるだ。
なんでいままでつかわなかったのだろう。

イヤホンをつけてあるいているひとを、
あたりまえながら 町でよくみかける。
そのほとんどがコードつきのイヤホンだ。
おおくのひとは、わたしとおなじように、
たかだか線があるかないかのちがいだからと、
ワイヤレスイヤホンにきりかえるのを
あとまわしにしているのではないか。
線につながれていない世界をいちど味わえば、
もうあとにはもどれないだろう。
無線LANと有線ランのちがいとおなじだ。

posted by カルピス at 22:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする