2021年03月18日

そういえばわたしは双子だった

デイリーポータルZで北向ハナウタさんが双子をとりあげていた。
https://dailyportalz.jp/kiji/interview-with-twins
わたしも二卵性双生児なので、双子のはなしはひとごとではない。
わたしが双子のかたわれだとしると、
一卵性か二卵性かをたずねるひとがおおい。
女と男の双子は、ほとんどの場合 二卵性双生児だ。
二卵性双生児は、多排卵のうち(異なる精子に)受精した二卵が、同時に子宮壁に着床した場合の双胎妊娠から誕生する。二卵性双生児は同時に生まれて来る兄弟と同じ事なので一卵性双生児と異なり、遺伝情報は各々で独自のものである。普通の兄弟姉妹と同じように性別や血液型等が異なる場合もあるし、顔形も通常の兄弟姉妹程度に似ることになる。髪質や肌の色がまったく異なる場合も多い。日本の二卵性双生児出生率は、かつて0.2%ぐらいであった(一卵性より出生率は低かった)が、現在は0.6%程度になっている。

ウィキペディアにあるとおり、
ふつうの兄弟ていどに顔がにている(かもしれない)、
という程度で、基本的に年のはなれた兄弟とかわりがない。
さきにうまれたというもっともな理由から、
むこうが姉で、わたしは弟という立場でそだった。
でも、しょせん双子なので、姉・弟の位置づけにたいして意味はなく、
自分たちも、「姉」「弟」という意識はほとんどなかった。
兄弟なので、子どものころは ふつうにケンカをするし、
中学にはいると、ほとんどはなしをしなくなった。
大人になると、とくになかがわるいわけではないけど、
かといって 親密なつきあいがあるわけではない。
おたがいを、双子と意識することはなく、
ふつうの兄弟とまったくおなじだ。

デイリーポータルZの記事には、
双子のかたわれと、クラスをいれかわって・・・、
というのが、双子あるあるらしいけど、
二卵性の双子の場合、そういう技がつかえず、
おもしろみはなにもない。

おなじ年齢の、異性の兄弟がいると、
女性に幻想をもたなくなる。
身ぢかな存在である姉から、女の子たちが
どんなはなしをしているか、とか、
いっけんかわいいなんとかさんは、
じつはけっこうひどいヤツで・・・、
なんて情報が自然と耳にはいってくるので、
女性が特別な存在とはおもわず、
男とおなじように、いろいろ問題のあるひとたちと、
おさないころから認識していた。

双子にたいして よくきかれる質問という
「おなじひとをすきになったら?」については、
双子はクラスをわけられるので、
おなじクラスの子をすきになる可能性はひくい、
とこの記事をかいた北向さんは推察している。
わたしたちのように、男と女の双子の場合
おなじひとをすきになる可能性はきわめてひくい。
小説ではありそうだけど、現実にはすくないのではないか。
・ふたり同時に風邪をひくと「やっぱり双子だね」と言われるが、ただの家庭内感染だ。
・学校でオバQを描き、帰り道にスモモを買おうか悩んでたら、家で妹がオバQ読んでスモモ食べてた。

という 北向さんのまとめがおかしかった。

posted by カルピス at 21:45 | Comment(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月06日

「まるで家族みたい」を、ほめ言葉としてとらえない

どこでよんだのかわすれたけど、
「家族」への疑問をなげかける視点をしり、ふかく共感した。
それをかいたひとは、家族ではないひとたちとすごしていて、
とてもいい関係にみえることから
「まるで家族みたい」とよくいわれるそうだ。
そして、それをきくと がっかりするのだという。
ふつうだったら「まるで家族みたい」は ほめ言葉だ。
でも、それは家族のむすびつきこそ
なにものにもかえがたい、という価値観が前提となっている。
家族でなくても「まるで家族みたい」にいい関係もあるし、
家族であってもうまくいってない家もある。
それなのに、いつまでたっても「家族みたい」が
ほめ言葉として、なんのうたがいもなく つかわれている。

ラジオをきいていたら、
「ほんものの家族みたいに食事をするシーンがある」、
と担当者がはなしていた。
家族を肯定的にとらえ、家族ではないけれど、
家族みたいにいい関係をたもっている、という意味だろう。
しかし、このいいかたでは、
「ほんものの家族」こそがただしい、みたいにきこえる。
「ほんものの家族」でなくてもいいじゃないか、
いい関係のあつまりだったら。

ひとりでくらしているひとがいるし、同性のカップルもいる。
家族の多様性がいわれてひさしいのに、
いつまでも血縁関係のある家族こそが、
ほんとうの「家族」だ、という価値観がかわらない。
血縁関係があろうがなかろうが、
ふかくむすばれた関係であれば それが家族だ。
「まるで家族みたい」を、ほめ言葉としてつかわないよう
このごろは注意するようになった。

新型コロナウイルスの影響から、家ですごす時間がふえ、
DVの被害がひろがっている。
DVをめぐっては、国連が4月下旬、世界で外出規制策が半年続いた場合、新たに3100万人の女性たちが暴力の被害を受けかねない、と警告している。(朝日新聞)

いっしょにくらすことで、暴力をうけるリスクがふえるなんて、
家族って、いったいなんなのだ。
「家族」のありようはさまざまで
「まるで家族みたい」はけしてほめ言葉ではない。

posted by カルピス at 15:22 | Comment(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月17日

母親の腰のいたみから、介護がリアルにせまってきた

同居している88歳の母が、腰のいたみをうったえてきた。
ヒビがはいってるような気がする、という。
もともと骨粗鬆症を診断されており、
カルシウムの錠剤をのんだり、
ヨーグルトや牛乳をたべたりしていた。
年をとると、カルシウムの吸収がわるくなるそうで、
いくらとりいれても、それにみあうほど
骨が丈夫になるわけではないようだ。

わたしが半年まえに足をいためたとき、
お世話になった病院へ 母をつれていく。
母が自分でみたてたとおり、
骨にヒビがはいっているのだという。
くわしい診断は、もっとおおきな病院で、といわれ、
いたみどめの薬が処方される。
ひとまずこれでしのげたか、と安心していたら、
だされた薬が母にはつよすぎた。
いたみはきえないし、食欲がなくなるしで、
ほんとの病人のようになってしまった。
あるくのもつらそうで、壁に手をついて、
やすみやすみでないとうごけない。

いっきょに母の介護が リアルな現実になってきた。
このままうごけなければ、入院するしかないし、
もしかしたら、そのままねたきりになるかもしれない。
病院での入院だと、ながくみてもらえないので、
そのあとは、介護施設をさがすことになるだろうか。
親の介護をきっかけに、こどもたちが
仕事をやめるはなしをよく耳にするけど、
こんなにはやく、わたしもそのなかまにはいるとは。
仕事にみれんはまったくないけど、
かといって、親の介護のために仕事をやめると、
不満がたまり、母親にむけてひどい対応をしそうだ。
老後にむけた準備だって、じゅうぶんにできてないので
(いま話題になっている2000万円なんて、問題外だ)、
わたしの老後全体が危機をむかえかねない。

さいわい、母がきょう もういちど病院へいくと、
電気をあてる治療をうけ、座薬もだされ、
だいぶらくになったという。
夕ごはんをいつもの半分くらいたべられたし、
お風呂にもひとりではいれた。
なんとか最悪のシナリオはとおざかったようだ。
ただ、いたみがおさえられといっても、
骨のヒビがなおったわけではないので、
これからだんだんと、状況はわるくなっていくだろう。
母がひとりでうごけなくなったとき、
家でどれだけみられるか。
わたしの 気らくな生活は、かなりの部分、
母の状態しだいというのがわかってきた。
88歳まで生きたのだから、
もうじゅんぶんでしょ、ともおもうけど、
だからといって、治療や介護をうけないわけにはいかない。
こんなふうに、だれもがズルズルと
親の介護にひきこまれていくのかと感心した。
予行練習ではなく、これは実質的な介護のスタートと、
自覚したほうがいいのかもしれない。

posted by カルピス at 22:00 | Comment(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月29日

「平成さいご」にうんざり

10連休がどうしたこうしたと、ガタガタさわぐんじゃない。
まいとしのように、年末年始のやすみをふくめ、
2週間ほど旅行するわたしは、
10連休なんて、たいしてありがたくない。
10連休にまいあがるほど、ながい休暇にこまってないぞ。

なんて、うそぶいていたけど、旅行ではなく
家ですごす10連休は、リズムをつくりにくいのもたしかだ。
家にいては、ただボンヤリの時間になってしまうので、
午前のうちにジョギングをすませ、からだと頭をリセットする。
でも、1時間半もひるねをしてしまい、
またまたどよんとしたからだになってしまった。

たてなおすために、本屋さんへ。
まえにしりあいがすすめていた『宝島』(真藤順丈)をもとめる。
2000円ちかくするのでためらっていた本だけど、
このまえ3000円する『クロストーク』をネットでかったし、
なによりも、この連休によんだ本として、記憶にのこしたかった。
あの年の10連休に、そういえば『宝島』をよんだなー、みたいに。

世間は「平成さいご」でかまびすしい。
Jリーグタイムでは、平成さいごのゴールを
浦和レッズの興梠選手がきめたとほうじていた。
とうぶん「平成さいご」、
そして、「令和さいしょ」がさわがれそうだ。
わたしは年号をつかわないので、
個人的には「平成さいご」にも「令和さいしょ」にも
まったく興味がない。

連休ちゅうにとりくむ仕事として、
・稲の種まき
・30キロのながあるき
・KDPによる本づくり
をあげている。
「稲の種まき」はすでにすませたし、
「30キロのながあるき」はお天気をみて実行にうつす予定だ。
問題は、「KDPによる本づくり」で、
連休ちゅうにとりくむぞ!だけでは、
からふりになるのが目にみえている。
いつ、どうやってとりかかるのかを、具体的にきめないと、
10連休などすぐにおわってしまうだろう。
あしたからちゃんと、とりかかろう、
と、みごとにわるいスタートのお手本となりそうだ。

もうひとつ、母親の米寿のいわいというタスクがあった。
連休ちゅうに、姉夫婦(とメイ2人)がやってくるので、
それにあわせ、ことし88歳になる母親の米寿を、
どんな形であれ、なんとかおいわいしたことにしたい。
焼肉屋さんかもしれないし、スーパーでかってきた
おすしとおそうざいになるかもしれない。
赤いチャンチャンコをプレゼントする、
ちゃんとした会ではなく、なんちゃって米寿の会だ。

わたしの母親は、むすこのわたしがいうのもなんだけど、
なにごとにも感謝し、おおくをもとめず、
質素なくらしで満足する、仙人みたいな人間だ。
ごはんやおかずは、のこりものからたべるし、
朝ごはんのときにいれた玄米茶を、昼ごはんのときも、
急須にはいっているお茶っぱをすてないで、そのままつかう。
母親みたいな人間ばかりなら、
地球は環境問題にこまらないし、世界は平和になるだろう。
唯一の失敗が、わたしを わたしのような
わがままな人間にそだてたことで、
なんちゃって米寿の会などでごまかされてしまうのも、
わたしへのしつけをまちがえた結果ともいえる。
そういう意味では、身からでたサビ、
といえなくもない(ほんとうか?)。

posted by カルピス at 20:34 | Comment(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月16日

『熱風』での対談「仕事と家庭」 家庭のやりくりがいかにむつかしいか

ジブリのフリー小冊子、『熱風』7月号に、
鈴木敏夫さんと森健さんによる対談
「仕事と家庭」がのっていた。
森健さんは、クロネコヤマトの経営者として有名な
小倉昌男さんを取材した『祈りと経営』により、
大宅壮一メモリアルノンフィクション大賞を受賞している。
経営者として超一流だった小倉氏だけど、
家庭においては配偶者・子どもたちと
いろいろな問題をかかえていたようで、
この対談では仕事と家庭はべつものという視点が、
くりかえしかたられている。
想像だけど、やっぱり家庭が落ち着かなかったから仕事に逃げた、だから仕事が成功した、そういう関係にあったんじゃないかなって思うけど。だってびっくりするぐらい仕事で頑張るわけでしょ。運輸省との交渉、規制緩和の問題を平気で交渉していたわけですよ。それは家庭で抱えていた問題に対するいらつき、その解消の意味でもあったと、撲なんかは読んでいたけどね。(鈴木)

わたしも、自分の「仕事と家庭」についてかんがえてみる。
仕事は、もうほとんど軸足をのこしておらず、
いわれたことだけは粛々とやるけど、
地味でやる気のとぼしい職員だ。
いわれたらやるし、常識の範囲内で
意見をだしたりはするけど、それ以上の存在ではない。
かといって、そのぶん家庭にエネルギーをそそいでいるかというと、
けしてそんなことはなく、
自分の部屋にひきこもり、すきなことだけをする
ろくでもない夫であり父親だ。
とうぜんながら、家庭はあたたかな雰囲気につつまれたりはしない。
ネコのピピは、もうすこしわたしを評価してくれそうな気がするけど、
ネコなので発言力はあまりたかくない。

30代のころは、いまとくらべものにならないぐらい仕事をした。
行政からの補助がすくなく、きわめて貧乏な事業所だったので、
自分たちで運営費をかせがなくてはならなかった。
日用品のバザーをひらいたり、映画会や音楽会を企画して、
サービス残業があたりまえだったし、休日にも職場にでていた。
本業の介護についての専門知識はとぼしかったけど、
事業所の経営を、仲間たちと必死にささえていた。

そうしたがんばりを、配偶者がみとめていたかというと、
たいしていまとかわらないような気がする。
つまり、仕事にうちこもうが、そうでなかろうが、
家におけるわたしのポジションは たいしてかわりはない。
わたしの意識は、一貫して
家庭にはむけられていなかったのだろうか。
そうだともいえるし、それなりに最善をつくしたともいえる。
その程度の意識では うまくいかないほど、
家庭はむつかしい問題なのだ。

鈴木さんと森さんの対談をよみ、
わたしの家庭だけが、うまくいってないわけではないと、
なんだか安心させられた。
むしろ、うまくいってないのがあたりまえと、
おおくのひとが はじめからあきらめるほど、
家庭をうまくまとめるのはむつかしい。
おなじ空気をすい、おなじテーブルで食事をとるだけでも、
それはそれで、ひとつの家庭のありかただと、
ひくいところから みつめなおしたほうが うまくいきそうだ。
きのうはわたしの誕生日で、
配偶者はいつものように半袖シャツとTシャツをくれた。
いったいそれ以上、なにをのぞめというのか。

posted by カルピス at 22:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする