2017年04月27日

ハックルベリー・フィンにでてきた「12リットルのウィスキー」をみてみたい

『ハックルベリー・フィンの冒険』には、
出発のまえに食糧を用意する場面がときどきあり、
たとえばボートにつみこむ食糧を、
ベーコンやコーヒーなど、ひとつひとつおしえてくれる。
こういうのは小説のたいせつなテクニックで、
たとえば「ごちそうをたべました」よりも、
具体的になにをたべたのかが かきだしてあるほうが、
よむほうは安心する。

「ハックルベリー」のなかに、
「12リットルいりのウィスキー」がでてきた。
日本にも、4リットルいりの焼酎やウィスキーがうれているけど、
12リットルはさすがにないのでは。
12リットルもはいったビンや樽がでまわっていたのだから、
ウィスキーは、男たちがただよっぱらうためにのむ、
雑な酒だったのだろうと推測する。
そんな大量のウィスキーが家にあれば、
酒をたしなむ程度ではおさまらず、
のみすぎて仕事にならないにきまっている。
12リットルのウィスキーが、
あたりまえに流通していた当時のアメリカは、
いったいどんな社会だったのだろう。

朝日新聞の島根版に、お弁当にいれるおかずの数が、
島根は全国でいちばんおおい、とのっていた。
全国平均が4.5品のところ、島根は5.8品らしい。
ニチレイフーズのアンケートの結果であり、
じっさいにうれた商品からわりだした数字ではなく、
5.8品といわれてもピンとこない。

・江戸時代の藩主は食通として知られており、
 県民にそのDNAが引き継がれている
・冬の寒さが厳しく、いつでも食べられるように、
 冷蔵庫につくだ煮や漬物などを常備する家庭がおおい。
・島根は米も魚介類も野菜も本当においしい。
・大家族が多く、食卓に並ぶおかずや作りおきが多いことが
 影響しているのかも

など、いくつかの憶測がかかれているけど、
どれもたいした根拠にはおもえない。
「島根は米も魚介類も野菜も本当においしい」なんて、
ただのおもいこみであり、
だれもが自分たちの県は「米も魚介類も野菜も本当においしい」
とおもっているのでは。

わたしは毎朝 自分のお弁当を自分でつくっている。
のこりものをいれるだけだったり、
タマゴやきでスペースをうめたりがおおく、
品かずをかぞえたことはない。
冷凍食品をつかったり、色どりをかんがえたりはせず、
おなじようなおかずが毎日くりかえされる。
島根県民のお弁当としては、ふさわしくない内容だ。
キャラ弁などからは、対極に位置するお弁当といえる。
といっても、コンビニ弁当を
お弁当箱にただうつしただけでは さすがにさみしい。
雑ななかにも、なにかひかるところのあるお弁当をめざしている。
お酒だって、いくらやすくても
4リットルいりのペットボトルウィスキーをかおうとはおもわない。
なんだかんだいっても、わたしには
島根県民のDNAがながれているのだろうか。

posted by カルピス at 21:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月30日

キャベツはえらい

きのうの朝日新聞に、クックパッドの分析をもとにした
「おうちごはん 毎日どうしてる?」がのった。
食材としては、キャベツがいちばん検索されているという。
もうひとつ キャベツがらみのはなしでは、
しばらくまえの「今日のダーリン」で、
糸井重里さんが、野菜とは、キャベツのことではないか、
と「発見」していた。
「野菜をいっぱい食べなさいね」
 というセリフがあるとき、その野菜とは、
 ほぼ80%くらいがキャベツのことを示しているだろう。

クックパッドで検索1位の実績は、
糸井さんの「野菜=キャベツ説」を裏づけしている。

わたしもキャベツにお世話になっている。
キャベツをいれた野菜いためを まいにちのようにつくるし、
ほかになにも食材がないときでも、
キャベツさえあれば バターでいため
ちょっとしょーゆをたらすだけで、立派な一品となる。
やいても むしても なまでもいいし、
お腹にたまる実力だって かなりたかい。

わかいころ島根の村で1年間の農業研修に参加していたとき、
冬のあいだ ずっと畑が雪におおわれ
なかなか野菜が手にはいらなかった。
そんなとき、豚の飼料用としてそだてられていたキャベツが
わたしたちの野菜不足をすくってくれた。
飼料用だからか やたらとおおきなキャベツで、
どんなにおおざっぱな味かと警戒していたけど、
たべてみると、ふつうのキャベツとまったくかわりがない。
キャベツはどんな料理にいれても それなりにおさまる。
キャベツのえらさをしった はじめての体験となった。

とはいえ、緑黄色野菜がえらいとか、
タマネギは血圧をさげるとかいわれるなかで、
キャベツは その実力のわりに ひくくみられている気がする。
糸井さんが「発見」してくれなかったら、
わたしだって 日本の野菜はキャベツであるという現実が
いつまでも目にはいらなかったにちがいない。
きょねんの秋に、野菜がねあがりしたとき、
キャベツと白菜がたかくてたいへんだった。
キャベツのありがたさが身にしみたので、
いかにも泥縄式だけど 畑にキャベツのタネをまいている。
例によって 無肥料・非耕起のせいか、
芽はでたものの あまりそだたず、
農業研修のときみたいな救世主には ならなかった。
スーパーでかうキャベツだって そこそこおいしいのだから、
畑でつくれば きっと味のこゆいキャベツがたべられるだろう。
タマネギと白菜は むつかしいのであきらめたけど、
失敗にこりず、キャベツはもうすこしねばってみよう。

キャベツのことをかいていたら、
コーンビーフのキャベツいためが きゅうにたべたくなってきた。
とにかくお腹にたまればいいだろうという
なりふりかまわない下品さがすきだ。

posted by カルピス at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月15日

村上作品のようなかいもので 夕ごはんをつくりたい

我が家は夕ごはんをわたしと配偶者が交代でつくっている。
おたがいの勤務表をみて、都合のつくほうが夕ごはんをうけもつ。
月に15〜20回はわたしがつくるので、
できぐあいについてこまかいことをいわなければ、
わるくないパートナーだと 自分ではおもっている。
夕ごはんをつくる日のかいものは、
あらかじめメニューがきまっているときもあるけど、
スーパーにならんでいる商品をみながら
なんとなく 献立案がまとまっていくときもおおい。
いずれにしても、夕ごはんをつくるたびにかいものをする。

かしこい主婦は、こんな非効率な家事をしないかもしれない。
1週間の献立をきめ、それにそってかいものをすませておくと、
夕ごはんをつくるたびに スーパーへでかけなくてもすむ。
わたしにはとてもそんなまねはできないので、
あまり上等でない主夫と わりきっていた。

なににかいてあったかわすれたけど、
まとめてかいものするのは、合理的にみえて、
それはそれでストレスなのだそうだ。
材料があまらないように なにかと気をつかうし、
計画にそって材料をつかっていくのは
自由に料理をするたのしみがない。
そのひとは、けっきょく食事をつくるたびに
かいものにでかけるようになり、
そっちのほうがずっと気らくなのにおどろいていた。

村上春樹さんの小説には、かいものの場面がときどきでてくる。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、
駅の近くのスーパーマーケットで食料品を手あたり次第に買いこみ、それから酒屋に寄って赤ワインと炭酸水とオレンジ・ジュースを買った。

とある。
酒屋でなければ、アルコール飲料をかえなかった時代の小説、
ということはこのさいどうでもよく、
肝心なのは、献立をきめたり、かいものリストをつくるのではなく、
「手あたり次第」にかうところだ。
てきとうにかっておいて、
あとは冷蔵庫にはいっている材料でやりくりする。
のこりがすくなくなれば、つくるメニューはおのずとかぎられるし、
ときには 「パン屋再襲撃」のときみたいに、
なにもつくる材料がなくて、
しめったクッキーを2枚ずつわけあったりする。
村上作品のかいものと料理は、いつもこんなかんじだ。
たべたくなった料理を 冷蔵庫にあるものでつくる。
ありあわせの材料で、まにあわせる。
ないからといって わざわざかいにでかけない。

1週間ぶんの献立をきめ、
それにそったかいものなんて、わたしにはとてもできないと
はなからあきらめていた。
かといって、毎回かいものするのも時間のむだだ。
できれば村上さんの小説みたいに、
手あたりしだいに材料をかいこんでおき、
のこされた材料をみながら テキトーにつくりたい。
いまはまだ、家族のために夕ごはんを用意しているし、
配偶者と交代でつくっているうちは、
自分だけのスタイルはもちこめない。
台所にふたりが共存できない原則をかみしめる。

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2017年03月14日

松本圭司氏の「揚げ物に油をかけると、すっげーウマイい」に共感する

デイリーポータルZに松本圭司氏の
「揚げ物に油をかけると、すっげーウマイい」がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/170314199029_1.htm
油をひかえましょう、というご時世からは
しんじられない大胆な記事だけど、
わたしはすんなり共感できた。
このごろのわたしは、つねに人類200万年、
ホモ・サピエンスからかぞえても、
20万年の歴史がいつも頭にある。
炭水化物をぞんぶんにとりいれられるようになってから、
たかだか数十年しかたっていない人類は、
これまで 穀物よりも、油にたよってカロリーを摂取してきたはずだ。
からだのしくみだって 油をいかせるよう つくられているにちがいない。

松本氏は、チーズやポテチにオリーブオイル、
カラムーチョにはラー油、あげせんにごま油、
ソフトサラダにこめ油をかけていく。
ヤケクソで油まみれにするのではなく、
そうしたほうがよりおいしいからだ。
これまで、油で揚げたものは油を切るのが当たり前で、さらに油をかけるなんて発想はありませんでした。
僕はなんてつまらない常識アニマルだったのでしょう。
しかしてポテチに油をかけるとすごいおいしさ。
これは、開けてはいけない扉を開けてしまったのかもしれません。そしてもう後戻りはできない。

僕は油を誤解していました。
油は揚げたり焼いたりするときの補助的素材ではなく、それ自体が調味料だったのです。

と、松本氏は油の本質を喝破している。
圧巻は、スーパーでかってきたコロッケとアジフライに
油をかけて いきかえらせる料理法だ。
夜おそくなり、やすくなったフライものをスーパーでかってきて、
キッチンペーパーにくるみ、ひとばん油をすわせる。
油をぬいてかるくするとみせかけて、
豚バラからとりだしたラードを、そのフライものにたっぷりかける。
おもてだけでなく、裏側にも。
いったん油をぬきながら、あらためてギトギトの油をすわせる
究極の料理法だ。すごくおいしそう。

すこしまえの「世界入りにくい居酒屋」で
バケットにオリーブオイルをたらしてたべているおじさんがでてきた。
そのときは、すこしかわったオヤジだとおもったけど、
かんがえてみると、パンにバターをぬるのだから、
バケットにオリーブオイルをたさして おいしくないはずがない。
そして このごろは、わたしも似たようなやり方でごはんをたべている。
バターごはんだ。
さいわいわたしはカロリーを気にしなくてもいい体型なので、
あつあつのごはんにたっぷりバターをのせる。
バターはかなり塩分をふくんでおり、
しょーゆをかけなくてもじゅうぶんうまい。
動脈硬化やコレステロールが心配なひとは、
動物性脂肪をひかえましょう、なんてよびかけをよくきくけど、
どうせたいした根拠なしにいわれているだけだ。
あと何年かしたら、油のよさがみとめられるだろうから、
はやいうちに油のよさをとりいれておいたら おおきな顔ができる。

ごはんにバターをのせながら、
いつもこのたべかでは下品かも、と
すこしためらいがでていたけど、
松本氏の記事により、まよいがふっきれた。
ますますたっぷりの油をかけ、料理をおいしくしてたべよう。

posted by カルピス at 22:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月06日

しょぼいお店が町にあるしあわせ

デイリーポータルZに、ものすごい量のテンプラをのせた
「もりあわせ丼」をだすお店が紹介されていた。
http://portal.nifty.com/kiji/170306198962_1.htm
テンプラがやまもりになっていて、
もちろんごはんはみえない。
それでいて550円だから、こんなお店が近所にあれば、
人生におけるしあわせが 3割ましになるよう、
保障されたようなものだ。
ほかのメニューだって「わかめうどん(そばも)」350円など、
どれもすてきにやすい。
天かすがとりほうだい、おろししょうがもいれほうだい、
インスタントみそ汁を自分でつくるなど、
お客さんに ここちよくすごしてもらいたい、という姿勢がすばらしい。

このお店の記事をよみながら、
わたしは、まったくべつのタイプのお店をおもいだした。
中学・高校のときお世話になったちいさな食堂で、
1階が大判焼をつくるスペースと、ささやかな厨房になっており、
2階が客席だ。
客席といってもテーブルが3つくらいの すごくせまい部屋でしかない。
2階からうどんやかき氷を注文すると、1階でつくって
おばさんがせまい階段から 2階にはこんでくれる。
何種類もいっぺんに注文すると、
かなりの確率でまちがった料理がはこばれてきた。
ブツブツいいながらも わたしたちは
注文していないべつの品をたべた。
かき氷とうどん、それにラーメンくらいしかメニューになく、
でもかき氷はやすいイチゴからゴーカな宇治金時まで、
サイフにあわせてえらべるようになっている。
どれもやまもりなので、たべおわるころは
首のうしろや頭がいたくなったものだ。
クーラーがききすぎていて、
かき氷をたべたらつぎにうどんがほしくなる。

いまおもうと、わたしはあの店にそだてられたのではないか。
お店のおじさん・おばさんは、ぜんぜんあいそがよくないし、
中高生をかわいがるひとでもなかったけど、
しんどい練習のあと 仲間とたちよる場所があるのはありがたかった。
なにもしらなかった おろかなわたしは、
こうしたお店の価値を正当に評価できなかったものの、
へんてこで、しょぼいものへのこのみは、
無意識のうちにわたしのからだにしみついていった。
すべては幼稚園の砂場でまなんだ、みたいな本があるけど、
いまおもえば、わたしの場合もこれにちかい。
仲間とのつきあいかた、ひまのつぶし方、注文の仕方など、
おおくの社交術を わたしはあの店で身につけた
(だからわたしはいまだにケチくさい注文しかできない)。

ずいぶんあとになって、しりあいに
「おいしいラーメン屋さんをしらない?」
とたずねたら、なぜかこのお店をすすめられた。
わたしの記憶では、けしておいしいラーメンをだす店ではなかった。
おとなになってからも支持するなんて、きっとわたしのしりあいも、
このお店にそだたられたとおもっているクチではないか。
なつかしさから、記憶を事実とはちがう方向へ かきかえている。
残念ながら、このお店は わたしが30代のころにつぶれてしまった。
生まれそだった町に、あのような店があるしあわせを、
お店がなくなってから しみじみとかんじた。

posted by カルピス at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする