フランス代表のムバペ選手が注目をあつめている。
プレーのスピードだけでなく、味方をいかすパスのセンスや、
やわらかなボールタッチがすばらしい。
まだ19歳というから、フランスは、
とんでもない宝物を手にいれたようだ。
テレビ中継をみてるとき、はじめはアナウンサーが、
彼をなんとよんでいるのかわからなかった。
「エムバペ」にきこえるけど、
ユニフォームには「MBAPPE」とあり、
フランス語よみすると「ムバペ」のはずだ。
ウィキペディアをみると、
フランス語よみだけでなく、祖先の出身国である
カメルーンの発音がからんできて、
どれがただしいかをきめられないらしい。
その結果、いろんなよみ方がまかりとおっている。
テニスの錦織圭選手の「錦織」をどうよむかについて、
まえの記事にかいたことがある。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/440955744.html
錦織選手は「にしこり」とよむ。
島根には「錦織」という苗字がけしてめずらしくないけれど、
ややこしいのは、「にしこり」だけでなく、
「にしきおり」「にしこおり」というよみ方も
ふつうに通用している点だ。
わたしは、これを漢字のせいだとおもっている。
漢字があるばかりに、いろんなよみ方が通用してしまうので、
そうならないよう、
できるだけ漢字をつかわない表記法をこころがけている。
ムバペ選手は、ムバペとよむアルファベットでかかれているのに、
それをいくつものやり方でよぶのは、いったいどういうわけだろう。
日本語でいえば、ひらがなで「ムバペ」とかいてあるのに、
それをエムバペとかムバッペとか テキトーによむようなものだ。
これは、英語に責任があるかもしれない。
英語はつづりと発音が一致しない単語がめずらしくない。
英語を母語とするひとにとれば、「MBAPPE」とかいてあっても、
それを英語よみしてエムバペとよむのは朝飯まえだ。
フランス語よみではムバペだから、
ムバペが最終的にただしい、とはいいきれないのが、
ややこしいところだ。
祖先の出身国であるカメルーンをもってこられると、
そちらの発音が由緒ただしいというとらえ方もできる。
本人は「ンバペ」と自分のことをよんでいるようで、
だから「ンバペ」にきめよう、といううごきにもなってない。
けっきょく、どうよんでもいいという線で、
あいまいなままほっておくしかないのだろう。
つづりと発音の不一致は、どちらがただしいかを議論しても、
けっきょく決定版をきめられない。
論理よりも生理の問題だ。
2018年07月12日
2017年11月12日
Tシャツに外国語をつかいたくなる気もち
デイリーポータルZに、タイでみかけたへんな日本語がのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/171103201102_1.htm
Tシャツなどに、「可能な!」なんて 日本語でかかれていると、
たしかにへんなかんじだ。
正確な日本語でも、たとえば「がんばろう!」と
日本語でかかれていたら違和感がある。
Tシャツにかいてあるのは「もよう」としてわりきっているので、
はっきりしたメッセージは かえってじゃまなのかもしれない。
いまでこそ、陸上部などは くじけないでがんばるぞ、みたいな
「ポエム」がかかれたシャツをみかけるけど、
普段着のシャツだと はずかしくてきられない。
わたしは外国へ旅行にいったときに よくTシャツをかうけど、
その国のことばがデザインされていたほうが おみやげになる。
タイで、タイ語がのったTシャツをさがしたけど、
そのときはみつからなかった。
かりにあったとしても、タイ語なので、
なにがかいてあるのかわたしにはわからないのに、
それでもタイ文字のTシャツがほしい。
日本でうられているTシャツだって、外国人からみると、
へんなメッセージがけっこうあるのではないか。
Tシャツにかかれているのは、ほとんどが英語だろうけど、
正確な英語かどうかは 問題ではなく、
デザインとしてかっこいいかどうかを かうほうは大切にする。
「読んでる人大好き」みたいなデザインは
いくらでもやってそうだ。
タイには屋台がずらーっとならんでいるとおりがよくあり、
「うどん」「すし」とノボリがたっている。
「うどん」のところへいってみると「すし」だった。
かといって「すし」のノボリがたった店は
うどんがたべられるかというと、
ほんとうに「すし」がならべてあって肩すかしをくう。
メニューをしらせるためのノボリではなく、
ただのマークなのだからしょうがない。
欧米のひとにとって、町でみかけるTシャツのほとんどは
母語でかかれているわけだけど、
そういうのって、彼らの目に どう うつっているのだろう。
日本では、外国語でかかれた店のなまえやシャツがあたりまえなので、
ぜんぶ日本語でかかれていたら、かえってへんなかんじがするはずだ。
欧米人にとって、それが日常風景なのだから、
日本人からすれば、ずいぶん地味な景色のなかでくらしている。
タイだけでなく、欧米でもへんな日本語のTシャツをみかけるのは、
わたしがタイ語でかかれたTシャツをありがたがるのと いっしょだ。
http://portal.nifty.com/kiji/171103201102_1.htm
Tシャツなどに、「可能な!」なんて 日本語でかかれていると、
たしかにへんなかんじだ。
正確な日本語でも、たとえば「がんばろう!」と
日本語でかかれていたら違和感がある。
Tシャツにかいてあるのは「もよう」としてわりきっているので、
はっきりしたメッセージは かえってじゃまなのかもしれない。
いまでこそ、陸上部などは くじけないでがんばるぞ、みたいな
「ポエム」がかかれたシャツをみかけるけど、
普段着のシャツだと はずかしくてきられない。
わたしは外国へ旅行にいったときに よくTシャツをかうけど、
その国のことばがデザインされていたほうが おみやげになる。
タイで、タイ語がのったTシャツをさがしたけど、
そのときはみつからなかった。
かりにあったとしても、タイ語なので、
なにがかいてあるのかわたしにはわからないのに、
それでもタイ文字のTシャツがほしい。
日本でうられているTシャツだって、外国人からみると、
へんなメッセージがけっこうあるのではないか。
Tシャツにかかれているのは、ほとんどが英語だろうけど、
正確な英語かどうかは 問題ではなく、
デザインとしてかっこいいかどうかを かうほうは大切にする。
「読んでる人大好き」みたいなデザインは
いくらでもやってそうだ。
タイには屋台がずらーっとならんでいるとおりがよくあり、
「うどん」「すし」とノボリがたっている。
「うどん」のところへいってみると「すし」だった。
かといって「すし」のノボリがたった店は
うどんがたべられるかというと、
ほんとうに「すし」がならべてあって肩すかしをくう。
メニューをしらせるためのノボリではなく、
ただのマークなのだからしょうがない。
欧米のひとにとって、町でみかけるTシャツのほとんどは
母語でかかれているわけだけど、
そういうのって、彼らの目に どう うつっているのだろう。
日本では、外国語でかかれた店のなまえやシャツがあたりまえなので、
ぜんぶ日本語でかかれていたら、かえってへんなかんじがするはずだ。
欧米人にとって、それが日常風景なのだから、
日本人からすれば、ずいぶん地味な景色のなかでくらしている。
タイだけでなく、欧米でもへんな日本語のTシャツをみかけるのは、
わたしがタイ語でかかれたTシャツをありがたがるのと いっしょだ。
2017年08月02日
『漢字が日本語をほろぼす』(田中克彦)
『漢字が日本語をほろぼす』(田中克彦・角川SSC新書)
これまでに、なんどか日本語表記について
このブログにかいてきた。
(たとえばhttp://parupisupipi.seesaa.net/article/397858083.html)
漢字が問題なのだ。
できるだけ漢字をつかわないで日本語をかきたい。
わたしのまわりにいるひとにそうはなすと、
漢字がきらいなちょっとへんな人間におもわれ、
あまり肯定的にはうけとめてもらえない。
わたしなどが漢字問題に口をだしても 説得力にとぼしいので、
この本の著者である田中克彦さんや梅棹忠夫さんに
もっと漢字問題についてはなしてもらいたい。
漢字がすくなければ、子どもたちや
はじめて日本語にふれる外国のひとが、
かんたんに日本語をあやつられるようになる。
「かんたんに」「らくに」というと、
漢字がすきなひとのいかりをかうようで、
日本語はもっとおくぶかい世界のうえになりたっており、
かんたんに身につかなくてもかまわない、
とおもっているひとがたくさんいる。
わたしがフランス語やロシア語をまなぶとしたときに、
できるだけルールはかんたんなほうがいい。
みじかい時間でつかえるようになりたい。
漢字は、日本語にどうしてもなければならない要素ではなく、
ひとつの表記法にすぎない。
文化は、すべてをひきつがなければならないのではなく、
よいものはのこし、さらに発展させるのが
いまをいきるわたしたちのつとめだ。
問題がおおきければ、漢字を制限するのが
自然なかんがえ方だとおもうけど、
なかなか漢字ずきにはわかってもらえない。
やはりここは、梅棹さんと田中さんに、
もっと存在感を発揮してもらったほうがいい。
漢字には、たしかに魅力があるのだろう。
でも、パソコンでなければかけない漢字を、
パソコンで確認しながらかくのは、へんなはなしだ。
かけないほどむつかしいのなら、つかわないようにするのが
自然なかんがえ方だとわたしはおもう。
と、かいてもどうせ漢字ずきにはわかってもらえない。
けっきょく、梅棹さんと田中さんにでてきてもらうしかない。
これまでに、なんどか日本語表記について
このブログにかいてきた。
(たとえばhttp://parupisupipi.seesaa.net/article/397858083.html)
漢字が問題なのだ。
できるだけ漢字をつかわないで日本語をかきたい。
わたしのまわりにいるひとにそうはなすと、
漢字がきらいなちょっとへんな人間におもわれ、
あまり肯定的にはうけとめてもらえない。
わたしなどが漢字問題に口をだしても 説得力にとぼしいので、
この本の著者である田中克彦さんや梅棹忠夫さんに
もっと漢字問題についてはなしてもらいたい。
漢字がすくなければ、子どもたちや
はじめて日本語にふれる外国のひとが、
かんたんに日本語をあやつられるようになる。
「かんたんに」「らくに」というと、
漢字がすきなひとのいかりをかうようで、
日本語はもっとおくぶかい世界のうえになりたっており、
かんたんに身につかなくてもかまわない、
とおもっているひとがたくさんいる。
わたしがフランス語やロシア語をまなぶとしたときに、
できるだけルールはかんたんなほうがいい。
みじかい時間でつかえるようになりたい。
漢字は、日本語にどうしてもなければならない要素ではなく、
ひとつの表記法にすぎない。
文化は、すべてをひきつがなければならないのではなく、
よいものはのこし、さらに発展させるのが
いまをいきるわたしたちのつとめだ。
問題がおおきければ、漢字を制限するのが
自然なかんがえ方だとおもうけど、
なかなか漢字ずきにはわかってもらえない。
やはりここは、梅棹さんと田中さんに、
もっと存在感を発揮してもらったほうがいい。
私は次のように思う。中国はさらにさらに漢字改革をすすめるにちがいない。そうして、条件が熟せばかなりの範囲でピンイン表記がすすんで行くだろうと。(中略)
そうして気がついたら、日本語だけに漢字が残って、それのみならずひとはさまざまな読み方を漢字につけて、これはどうお読みしたらいいでしょうかと、ばかばかしくもむだな時間を過ごしながら、日本語って味わいのあるいいことばですねなどとなぐさめあうだろう。そうして、大したこともない味わいだけが残って、中身のないことばにしがみついているうちに日本語は静かに自滅への道をたどるだろう。
漢字には、たしかに魅力があるのだろう。
でも、パソコンでなければかけない漢字を、
パソコンで確認しながらかくのは、へんなはなしだ。
かけないほどむつかしいのなら、つかわないようにするのが
自然なかんがえ方だとわたしはおもう。
と、かいてもどうせ漢字ずきにはわかってもらえない。
けっきょく、梅棹さんと田中さんにでてきてもらうしかない。
2016年12月01日
「クラシックカヘ」と、ただしく発音するアナウンサーがすてきだ
ラジオをきいていたら、「クラシックカヘ」と、
番組名を紹介していた。
カフェでなく「カヘ」。
さすがのNHKだから、日本語にない音を口にするわけにいかず、
おそらくアナウンサーに「F」の発音をきんじているのだと
すごく感心してしまった。
下くちびるをかんで「V」を発音するのもきっとご法度だ。
うつくしそうな女性が、やさしい声で「クラシックカヘ」というのは
色っぽくてなかなか風情がある。
坊っちゃんの時代にタイムスリップしたような。
梅棹さんがなにかの本で、
日本人はフェスティバルがうまくいえず、
つい「ヘステバル」になってしまう、とかいていた。
日本語にないいくつもの音が、
外来語としてはいってきたために、
それをむかしからの日本語でやりくりすると
「ヘステバル」になる。
NHKのアナウンサーはフェスティバルでなく
ちゃんと「ヘステバル」と発音しているだろうか。
学校の授業で英語をならうときに、
いかにも英語っぽい発音をこころみるのは
かなり抵抗をかんじるものだ。
クラス全員をまえに、ひとりだけで朗読すると、
知識としては「f」や「th」が
「フ」や「ス」でないことをしっていても、
はずかしさから どうしても「コーヒー」や「サンキュウ」と
やってしまいがちだ。
これらの発音は、英語としてきくと
問題があるかもしれないけど、
日本語としては「カヘ」がただしいのだと、
ラジオのアナウンサーが気づかせてくれた。
すこしまえの「今日のダーリン」(ほぼ日)に、
「アボカド刑事」が紹介されていた。
なのだという。
「アボカド」がただしいのに、あいかわらず「アボガド」というひとが
あとをたたないために、そんな「おしごと」がもとめられるのだろう。
それにならって「カへポリス」というのはどうか。
「カフェ」なんてすかした発音をしたり、紙にかいたりしたひとに
注意をよびかけるボランティア警察だ。
英語を否定しているのではなく、
ただしい日本語をまもろうとするうごきなわけで、
「ストライク」を「いいたまいっぽん」なんて
いいかえるのとは わけがちがう。
わたしたちがはなしているのは日本語なのだから、
英語っぽく発音するのはおかしなはなしで、
「カヘ」でじゅうぶんだし、「カヘ」がただしい。
番組名を紹介していた。
カフェでなく「カヘ」。
さすがのNHKだから、日本語にない音を口にするわけにいかず、
おそらくアナウンサーに「F」の発音をきんじているのだと
すごく感心してしまった。
下くちびるをかんで「V」を発音するのもきっとご法度だ。
うつくしそうな女性が、やさしい声で「クラシックカヘ」というのは
色っぽくてなかなか風情がある。
坊っちゃんの時代にタイムスリップしたような。
梅棹さんがなにかの本で、
日本人はフェスティバルがうまくいえず、
つい「ヘステバル」になってしまう、とかいていた。
日本語にないいくつもの音が、
外来語としてはいってきたために、
それをむかしからの日本語でやりくりすると
「ヘステバル」になる。
NHKのアナウンサーはフェスティバルでなく
ちゃんと「ヘステバル」と発音しているだろうか。
学校の授業で英語をならうときに、
いかにも英語っぽい発音をこころみるのは
かなり抵抗をかんじるものだ。
クラス全員をまえに、ひとりだけで朗読すると、
知識としては「f」や「th」が
「フ」や「ス」でないことをしっていても、
はずかしさから どうしても「コーヒー」や「サンキュウ」と
やってしまいがちだ。
これらの発音は、英語としてきくと
問題があるかもしれないけど、
日本語としては「カヘ」がただしいのだと、
ラジオのアナウンサーが気づかせてくれた。
すこしまえの「今日のダーリン」(ほぼ日)に、
「アボカド刑事」が紹介されていた。
社会の「アボガド」という表記を見つけては、
厳重に注意するという「おしごと」
なのだという。
「アボカド」がただしいのに、あいかわらず「アボガド」というひとが
あとをたたないために、そんな「おしごと」がもとめられるのだろう。
それにならって「カへポリス」というのはどうか。
「カフェ」なんてすかした発音をしたり、紙にかいたりしたひとに
注意をよびかけるボランティア警察だ。
英語を否定しているのではなく、
ただしい日本語をまもろうとするうごきなわけで、
「ストライク」を「いいたまいっぽん」なんて
いいかえるのとは わけがちがう。
わたしたちがはなしているのは日本語なのだから、
英語っぽく発音するのはおかしなはなしで、
「カヘ」でじゅうぶんだし、「カヘ」がただしい。
2016年08月11日
「錦織」問題
朝日新聞の島根版で、
錦織問題がとりあげられた。
テニスの錦織圭選手は松江市出身なので、
地方版によく名前があがる。
リオデジャネイオリンピックに出場している
女子ホッケーの錦織えみ選手もおなじ名字だ。
問題は、「錦織」をどうよむのがただしいかで、
島根県におおい「錦織」姓は、
ニシコリ・ニシコオリ・ニシキオリ・ニシゴオリ・ニシゴリと、
いくとおりのよみ方ができるそうだ。
テニスの錦織選手は「ニシコリ」で、
ホッケーの錦織選手は「ニシコオリ」とよむ。
わたしも中学校のときの同級生に
錦織さんがいて、彼女はニシコリさんだったけど、
ときどきわけがわからなくなった。
にしきをおるから ニシキオリがただしそうなのに、
彼女はニシコリさんなのだ。
ニシコリさんだけど、ニシコオリとよばれても
自分の名前と認識してくれたようにおもう。
いちいちわたしは「ニシコリ」です、と
訂正するのがめんどくさかったのではないか。
漢字をできるだけつかわない主義のわたしにとって、
錦織問題は、漢字の問題点を指摘する かっこうの話題だ。
日本語における漢字問題のおおくは、
・いろいろなよみ方ができる
・おくりがながきめられない、
という点にある。
たとえば「おくる」は、
「送る」なのか「送くる」なのか、
どっちがただしいのかわからない。
「送る」がただしい、といったって、
じっさいに「送る」と「送くる」の両方がつかわれていて、
どちらでもいいのが現状だ。
錦織問題は、よみ方がさまざまという点において、
漢字のとりあつかいが、
いかにややこしいかをしめしている。
はじめからひらがなやカタカナ、
あるいはローマ字でかいていたら、
まちがいようがないのに、
漢字をつかうと、いちいち
自分の名字はどうよむのがただしいかを
説明しなければならないなんて
かんがえてみると すごく不思議なはなしだ。
漢字をつかうかぎり、錦織問題はなくならない。
おおくの錦織さんは、まちがってよばれたとしても、
よむほうがまちがっているわけではないのだから、
がんばって訂正しつづけるしかない。
錦織問題がとりあげられた。
テニスの錦織圭選手は松江市出身なので、
地方版によく名前があがる。
リオデジャネイオリンピックに出場している
女子ホッケーの錦織えみ選手もおなじ名字だ。
問題は、「錦織」をどうよむのがただしいかで、
島根県におおい「錦織」姓は、
ニシコリ・ニシコオリ・ニシキオリ・ニシゴオリ・ニシゴリと、
いくとおりのよみ方ができるそうだ。
テニスの錦織選手は「ニシコリ」で、
ホッケーの錦織選手は「ニシコオリ」とよむ。
わたしも中学校のときの同級生に
錦織さんがいて、彼女はニシコリさんだったけど、
ときどきわけがわからなくなった。
にしきをおるから ニシキオリがただしそうなのに、
彼女はニシコリさんなのだ。
ニシコリさんだけど、ニシコオリとよばれても
自分の名前と認識してくれたようにおもう。
いちいちわたしは「ニシコリ」です、と
訂正するのがめんどくさかったのではないか。
漢字をできるだけつかわない主義のわたしにとって、
錦織問題は、漢字の問題点を指摘する かっこうの話題だ。
日本語における漢字問題のおおくは、
・いろいろなよみ方ができる
・おくりがながきめられない、
という点にある。
たとえば「おくる」は、
「送る」なのか「送くる」なのか、
どっちがただしいのかわからない。
「送る」がただしい、といったって、
じっさいに「送る」と「送くる」の両方がつかわれていて、
どちらでもいいのが現状だ。
錦織問題は、よみ方がさまざまという点において、
漢字のとりあつかいが、
いかにややこしいかをしめしている。
はじめからひらがなやカタカナ、
あるいはローマ字でかいていたら、
まちがいようがないのに、
漢字をつかうと、いちいち
自分の名字はどうよむのがただしいかを
説明しなければならないなんて
かんがえてみると すごく不思議なはなしだ。
漢字をつかうかぎり、錦織問題はなくならない。
おおくの錦織さんは、まちがってよばれたとしても、
よむほうがまちがっているわけではないのだから、
がんばって訂正しつづけるしかない。