第8回目となる「村上RADIO」をきく。
せんしゅう放送された第7回目をききのがしたので、
今夜はなんとしても、とおもっていたのに、
間にあわなくて10分ほどききそびれる。
あとでしったけど、放送にさきだち、
18時からは第7回目が再放送されていた。残念。
内容は、6月26日におこなわれた公開収録イベントを、
前半・後半にわけたものらしい。
今夜の放送は、だからイベントの後半にあたる。
おしゃべりのほとんどは、「村上RADIO」のサイトにのっているけど、
https://www.tfm.co.jp/murakamiradio/
村上さんが朗読したビル=クロウの小話は未収録だ。
すごくおかしかったので、
おもいだせる範囲で紹介する。
サファリのツアーにきている観光客が、
夜テントのなかで不気味なドラムのおとをきいた。
現地人のガイドは平気な顔だ。
「ドラムがなっていれば大丈夫。
ドラムがやむと、すごくまずい」
つぎの夜もまた、ドラムの音がなりだした。
観光客たちはおそろしくてふるえるが、
ガイドは昨夜とおなじことばをくりかえす。
「ドラムがなっていれば大丈夫。
ドラムがやむと、すごくまずい」
3日目の夜、とつぜんドラムがやんだ。
「ドラムがやむと、すごくすごくまずい」
ガイドはまっさおになる
(まっさおになった黒人って、どんな色なんだろう?)。
「すごくまずい、って、どうまずいんだ?」
観光客のひとりがたずねると、ガイドがいった。
「ドラムがやむと、ベースソロがはじまる」
すこし間をおいて、わらいがこみあげてくる。
よほどへたくそなベースひきなんだろう。
そのあと村上さんの作品である『夜のくもざる』から
「天井裏」が朗読される。
天井裏に、なおみちゃんという小人がすんでいる不思議なはなし。
こちらは、興味のある方は、作品をあたってほしい。
村上さんは、この作品をかいた記憶がないそうで、
朗読のあと、
「でも天井裏になおみちゃんがいるといやですよね」
が、まったく第三者の感想みたいで おかしかった。
村上さんのはなしかたは、文章からうける印象より、
ずっとおしがつよくきこえる。
淡々と自信にみちており、それでいて、いやなかんじはうけない。
リラックスしておしゃべりをたのしんでいる。
村上さんとしても、ラジオの企画はたのしいのだそうで、
また機会がつくられそうなようすだ。たのしみにまちたい。
2019年09月01日
2019年07月04日
『午後の最後の芝生』(村上春樹)にでてくる中年女性が どれだけ酒をのんでいたか
短編小説『午後の最後の芝生』(村上春樹)がすきで、
夜ねるまえなどにときどきよみかえす。
大学生の「僕」が、アルバイトで芝かりをするはなしだ。
あらすじをざっと紹介すると、
もうアルバイトをやめようとおもった「僕」は、
さいごの仕事として 中年女性のすむ家をおとずれる。
「僕」が仕事をしてるあいだ、ひるごはん、
芝かりがおわったときなどに、
この女性はなんどか「僕」のまえにあらわれて
みじかい会話をかわす。
女性は、たいていなにかの酒をのんでいる。
こんな紹介では、この作品のおもしろさがわかるわけないけど、
ここでは、女性がどれだけお酒をのんでいたのか しりたいだけなので、
あえてこれくらいの説明にとどめる。
つきあっていた彼女から、わかれたい、
という手紙が「僕」にとどいたこと、
中年女性のむすめとおもわれる
わかい女性がつかっていた部屋へ「僕」を案内し、
部屋のもちぬしをどうおもうかとたずねたり、
いくつかのはなしがからむおもしろい作品なので、
酒の量に注目するだけでなく、
ぜひとおしてよんでみるようおすすめしたい。
すごくたくさん女性が酒をのむので、
からだをこわしはしないかと心配になる。
ほんの26ページというみじかいものがたりのなかで、
いったい、彼女がどれだけ酒をのんでいるのか、
酒がからむ場面を ぜんぶかきだしてみたい。
・ウィスキーのみずわり
(11時20分に)ひるごはんはどうするかと、
女性が「僕」にたずねたとき
・ビール
昼ごはんとして彼女がサンドイッチをつくり、
それを「僕」がたべているまえで、ビールをのむ
・レモンぬきのウォッカ・トニック
芝かりの仕事がおわったと、「僕」が中年女性につたえたとき
・レモンぬきのウォッカ・トニック
中年女性のむすめとおもわれる 女性の部屋に
「僕」をつれていったとき
「僕」が午前10時に中年女性の家をたずね、
午後3時ごろ、おなじ家をあとにするまでの5時間に、
これだけ彼女が酒をのむ場面がある。
彼女が登場しないときにも、
なにかの酒をのんでいたとかんがえられる。
なぜこれだけの量の酒を、彼女はのまなければならなかったのか。
ちなみに、
二回にわけてのみくだせない。
こののみ方では、かなりのスピードで
グラスのなかが からっぽになるだろう。
これが彼女の日常だとすると、
健康面からみたその後のものがたりに 興味がわいてくる。
とはいえ、もし彼女が酒をのまなかったとすると、
この小説は まるでちがったテイストになる。
「僕」が芝かりをして、家のなかから
ふつうの中年女性がでてきたら、まるで絵にならない。
この小説の魅力は、彼女ののみっぷりにささえられている。
夜ねるまえなどにときどきよみかえす。
大学生の「僕」が、アルバイトで芝かりをするはなしだ。
あらすじをざっと紹介すると、
もうアルバイトをやめようとおもった「僕」は、
さいごの仕事として 中年女性のすむ家をおとずれる。
「僕」が仕事をしてるあいだ、ひるごはん、
芝かりがおわったときなどに、
この女性はなんどか「僕」のまえにあらわれて
みじかい会話をかわす。
女性は、たいていなにかの酒をのんでいる。
こんな紹介では、この作品のおもしろさがわかるわけないけど、
ここでは、女性がどれだけお酒をのんでいたのか しりたいだけなので、
あえてこれくらいの説明にとどめる。
つきあっていた彼女から、わかれたい、
という手紙が「僕」にとどいたこと、
中年女性のむすめとおもわれる
わかい女性がつかっていた部屋へ「僕」を案内し、
部屋のもちぬしをどうおもうかとたずねたり、
いくつかのはなしがからむおもしろい作品なので、
酒の量に注目するだけでなく、
ぜひとおしてよんでみるようおすすめしたい。
すごくたくさん女性が酒をのむので、
からだをこわしはしないかと心配になる。
ほんの26ページというみじかいものがたりのなかで、
いったい、彼女がどれだけ酒をのんでいるのか、
酒がからむ場面を ぜんぶかきだしてみたい。
・ウィスキーのみずわり
(11時20分に)ひるごはんはどうするかと、
女性が「僕」にたずねたとき
彼女はウィスキー・グラスを持ち上げて、一口で半分ばかり飲んだ。それから口をすぼめて息を吐いた。
・ビール
昼ごはんとして彼女がサンドイッチをつくり、
それを「僕」がたべているまえで、ビールをのむ
テーブルの上には半分に減ったホワイト・ホースの瓶もあった。流しの下にはいろんな種類の空瓶が転がっていた。
彼女自身はそのサンドイッチをひときれも食べなかった。ピックルスをふたつかじただけで、あとはずっとビールを飲んでいた。あまり美味そうには飲まなかった。しかたないから飲んでいるという風だった。
・レモンぬきのウォッカ・トニック
芝かりの仕事がおわったと、「僕」が中年女性につたえたとき
我々は庭先に並んで芝生を眺めた。僕はビールを飲み、彼女は細長いグラスでレモン抜きのウォッカ・トニックを飲んでいた。
彼女はうがいでもするみたいにウォッカ・トニックをしばらく口にふくみ、それからいとおしそうに半分ずつ二回にわけて飲み下した。
・レモンぬきのウォッカ・トニック
中年女性のむすめとおもわれる 女性の部屋に
「僕」をつれていったとき
彼女は五分後にウォッカ・トニックを二杯と灰皿を持って戻ってきた。僕は自分のウォッカ・トニックをひと口飲んだ。全然薄くなかった。僕は氷が溶けるのを待ちながら煙草を吸った。彼女はベッドに座って、おそらくは僕のよりずっと濃いウォッカ・トニックをちびちびと飲んでいた。時々こりこりという音をたてて氷をかじった。
「体が丈夫なんだ」と彼女は言った。「だから酔払わないんだ」
「僕」が午前10時に中年女性の家をたずね、
午後3時ごろ、おなじ家をあとにするまでの5時間に、
これだけ彼女が酒をのむ場面がある。
彼女が登場しないときにも、
なにかの酒をのんでいたとかんがえられる。
なぜこれだけの量の酒を、彼女はのまなければならなかったのか。
ちなみに、
うがいでもするみたいにウォッカ・トニックをしばらく口にふくみ、それからいとおしそうに半分ずつ二回にわけて飲み下した。をわたしもやってみたけど、かなり大量の酒を口にいれないと、
二回にわけてのみくだせない。
こののみ方では、かなりのスピードで
グラスのなかが からっぽになるだろう。
これが彼女の日常だとすると、
健康面からみたその後のものがたりに 興味がわいてくる。
とはいえ、もし彼女が酒をのまなかったとすると、
この小説は まるでちがったテイストになる。
「僕」が芝かりをして、家のなかから
ふつうの中年女性がでてきたら、まるで絵にならない。
この小説の魅力は、彼女ののみっぷりにささえられている。
2019年06月09日
「午後の最後の芝生」(村上春樹)は、わかれた恋人についてかかれていた
「午後の最後の芝生」(村上春樹)
それまでつきあっていた恋人が、
「僕」のところへ手紙をおくってきた。
手紙には、わかれてほしいとかかれている。
それまで芝かりのアルバイトをしていたけど、
すこしまとまったお金がたまっており、
恋人とわかれると、そのつかい道がないと気づく。
これ以上お金をかせぐ必要がなくなったので、
「僕」は芝かりのアルバイトをやめようときめる。
タイトルにあるように、この小説は、
最後の芝かりとして仕事をした、
すこしかわった家でのできごとがかかれている。
わたしはずっと、家の主人である中年女性にひっぱられて、
彼女のうごきばかりが気になっていた。
ぶっきらぼうで、ちょっとかわったしゃべり方をする女性だ。
彼女は昼まえからウィスキーやら
ジンのソーダわりやらをのんでいる。
「僕」が芝かりをおえると、彼女はていねいな仕事ぶりをほめ、
と「僕」を家にあげる。
そして、娘がつかっていたとおもわれる部屋に案内し、
洋服ダンスをあけさせ、ひきだしもあけさせ、
「どう思う?」
とたずねてきた。
中年女性がかわっているし、
むすめの洋服ダンスをあけさせるなんて、
はなしのながれもどこかふつうじゃない。
でも、なにかふかい余韻をかんじさせ、
わたしがすきな短編小説だ。
芝かりをおえ、さいごのチェックをしているときに、
「僕」は恋人からとどいた手紙をおもいだす。
わかれをきりだすときの、お手本みたいな手紙だ。
相手がわるいのではなく、自分のせいでもない。
どうしようもないのがつたわってくる。
でも、内容としてはかなりきびしい。
こんなことを もしわたしがいわれたら、かなりがっくりきそうだ。
中年女性の家をでた「僕」は、かえるとちゅうに
恋人からの手紙のつづきをおもいうかべる。
さいごの芝かりについてかたりながら、
この小説は わかれた恋人のことがかかれている。
芝かりのすすめ方、中年女性との会話、
家にあがり、洋服ダンスのなかをみても、
おもいだすのは恋人のことだ。
未練がましいといっているのではない。
だれだって 「僕」みたいに日常生活をおくりながら
恋人にいわれたあれこれを おもいだす。
それだけでいいと、わたしもおもう。
それまでつきあっていた恋人が、
「僕」のところへ手紙をおくってきた。
手紙には、わかれてほしいとかかれている。
それまで芝かりのアルバイトをしていたけど、
すこしまとまったお金がたまっており、
恋人とわかれると、そのつかい道がないと気づく。
これ以上お金をかせぐ必要がなくなったので、
「僕」は芝かりのアルバイトをやめようときめる。
タイトルにあるように、この小説は、
最後の芝かりとして仕事をした、
すこしかわった家でのできごとがかかれている。
わたしはずっと、家の主人である中年女性にひっぱられて、
彼女のうごきばかりが気になっていた。
ぶっきらぼうで、ちょっとかわったしゃべり方をする女性だ。
彼女は昼まえからウィスキーやら
ジンのソーダわりやらをのんでいる。
「僕」が芝かりをおえると、彼女はていねいな仕事ぶりをほめ、
「中に入んなよ」と女は言った。「外は暑すぎるよ」
と「僕」を家にあげる。
そして、娘がつかっていたとおもわれる部屋に案内し、
洋服ダンスをあけさせ、ひきだしもあけさせ、
「どう思う?」
とたずねてきた。
中年女性がかわっているし、
むすめの洋服ダンスをあけさせるなんて、
はなしのながれもどこかふつうじゃない。
でも、なにかふかい余韻をかんじさせ、
わたしがすきな短編小説だ。
芝かりをおえ、さいごのチェックをしているときに、
「僕」は恋人からとどいた手紙をおもいだす。
「あなたのことは今でもとても好きです」と彼女は最後の手紙に書いていた。「やさしくてとても立派な人だと思っています。これは嘘じゃありません。でもある時、それだけじゃ足りないんじゃないかという気がしたんです。どうしてそんな風におもったのか私にもわかりません。それにひどい言い方だと思います。たぶん何の説明にもならないでしょう。十九というのは、とても嫌な年齢です。あと何年かたったらもっとうまく説明できるかもしれない。でも何年かたったあとでは、たぶん説明する必要もなくなってしまうんでしょうね」
わかれをきりだすときの、お手本みたいな手紙だ。
相手がわるいのではなく、自分のせいでもない。
どうしようもないのがつたわってくる。
でも、内容としてはかなりきびしい。
こんなことを もしわたしがいわれたら、かなりがっくりきそうだ。
中年女性の家をでた「僕」は、かえるとちゅうに
恋人からの手紙のつづきをおもいうかべる。
「あなたは私にいろんなものを求めているのでしょうけれど」と恋人は書いていた。「私は自分が何かをもとめられているとはどうしても思えないのです」
さいごの芝かりについてかたりながら、
この小説は わかれた恋人のことがかかれている。
芝かりのすすめ方、中年女性との会話、
家にあがり、洋服ダンスのなかをみても、
おもいだすのは恋人のことだ。
未練がましいといっているのではない。
だれだって 「僕」みたいに日常生活をおくりながら
恋人にいわれたあれこれを おもいだす。
僕の求めているのはきちんと芝を刈ることだけなんだ、と僕は思う。最初に機械で芝を刈り、くまででかきあつめ、それから芝刈ばさみできちんと揃える--それだけなんだ。
それだけでいいと、わたしもおもう。
2019年06月06日
「納屋を焼く」の「僕」は、キロ4分22秒のペースではしる
村上春樹の短編「納屋を焼く」をよんでいたら、
主人公の「僕」が、7.2キロを31分30秒ではしっている。
なんのことかというと、
家にあそびにきた青年が
「時々納屋を焼くんです」と、脈絡なくきりだした。
33歳の「僕」は、つぎにどの納屋をやくのか、
もうきめているかとたずねる。
青年は、きめてあり、この家の近所だとこたえる。
そこで「僕」は、どの納屋がやけるのかをチェックしようと、
近所にある5つの納屋を 毎日みまわりはじめる、
という不思議なはなしだ。
そのコースが7.2キロであり、それを31分30秒ではしるという。
7.2キロを31分30秒といえば、1キロが4分22秒で、
ランニングとしては かなりはやいペースだ。
フルマラソンのトップランナーたちは、
1キロ3分ペースで 42キロをはしるのだから、
それにくらべればおそいとはいえ、
市民ランナーとしては かなりのレベルといえる。
もしこのペースでフルマラソンをはしると、3時間をすこしきる。
いわゆるサブスリーで、ここまではしれるのは、
ランナーの3〜5%にすぎない。
もちろん、ランニング愛好家のなかには、
もっとはやくはしるひともいるだろうけど、
ちょっとジョギングに、という
気分転換や健康づくりをこえたスピードの設定だ。
もし町をキロ4分22秒のペースでランニングするひとがいたら、
ひとさわがせなスピードに まわりが迷惑するだろう。
村上さんは、ご自身もランナーとして
毎日はしっているし、レースにも参加されている。
キロ4分22秒がどれだけのペースなのか、
かんがえずにかいているはずがない。
村上さんのフルマラソンのベストタイムは
3時間半ほどなので、キロ5分のペースとなる。
納屋のみまわりは、1周7.2キロとはいえ、
自分よりもはるかにはやく「僕」にはしらせて、
村上さんはなにをつたえようとしたのか。
新潮文庫におさめられている「納屋を焼く」(1987年)をみてみると、
となっていた。
2005年に出版された「納屋を焼く」は朝だけだったみまわりが、
さらに夕方もはしっているので、
ますます市民愛好家レベルのランナーではなさそうだ。
おなじ新潮文庫版なのに、すこしあとでは
「朝と夕方」が「毎朝」にかわっているし、
ものがたりのおわりにも
とある。
朝と夕方はしっていた習慣が、
いつなくなったのかは ふれられていない。
ここらへんのばらつきは、なにかわけがあるのだろうか。
週に4日ほど、キロ7分のペースで7.5キロはしっているわたしは、
「納屋を焼く」の「僕」が、
なぜこんなにはやくはしれるのか、納得できない。
わたしには縁のないスピードで、
のろまなランナーは ひがむしかない。
主人公の「僕」が、7.2キロを31分30秒ではしっている。
なんのことかというと、
家にあそびにきた青年が
「時々納屋を焼くんです」と、脈絡なくきりだした。
33歳の「僕」は、つぎにどの納屋をやくのか、
もうきめているかとたずねる。
青年は、きめてあり、この家の近所だとこたえる。
そこで「僕」は、どの納屋がやけるのかをチェックしようと、
近所にある5つの納屋を 毎日みまわりはじめる、
という不思議なはなしだ。
僕は毎朝どうせ六キロは足っていたから、一キロ距離を増やすのはそれほどの苦痛ではない。
「納屋を焼く」短編集『象の消滅』(2005年)から
そのコースが7.2キロであり、それを31分30秒ではしるという。
7.2キロを31分30秒といえば、1キロが4分22秒で、
ランニングとしては かなりはやいペースだ。
フルマラソンのトップランナーたちは、
1キロ3分ペースで 42キロをはしるのだから、
それにくらべればおそいとはいえ、
市民ランナーとしては かなりのレベルといえる。
もしこのペースでフルマラソンをはしると、3時間をすこしきる。
いわゆるサブスリーで、ここまではしれるのは、
ランナーの3〜5%にすぎない。
もちろん、ランニング愛好家のなかには、
もっとはやくはしるひともいるだろうけど、
ちょっとジョギングに、という
気分転換や健康づくりをこえたスピードの設定だ。
もし町をキロ4分22秒のペースでランニングするひとがいたら、
ひとさわがせなスピードに まわりが迷惑するだろう。
村上さんは、ご自身もランナーとして
毎日はしっているし、レースにも参加されている。
キロ4分22秒がどれだけのペースなのか、
かんがえずにかいているはずがない。
村上さんのフルマラソンのベストタイムは
3時間半ほどなので、キロ5分のペースとなる。
納屋のみまわりは、1周7.2キロとはいえ、
自分よりもはるかにはやく「僕」にはしらせて、
村上さんはなにをつたえようとしたのか。
新潮文庫におさめられている「納屋を焼く」(1987年)をみてみると、
僕は毎日朝と夕方に六キロずつのコースを走っているから、一キロずつ距離を増やすのはそれほどの苦痛ではない。
となっていた。
2005年に出版された「納屋を焼く」は朝だけだったみまわりが、
さらに夕方もはしっているので、
ますます市民愛好家レベルのランナーではなさそうだ。
一ヶ月間、そんな風に僕は毎朝同じコースを走りつづけた。しかし、納屋は焼けなかった。
おなじ新潮文庫版なのに、すこしあとでは
「朝と夕方」が「毎朝」にかわっているし、
ものがたりのおわりにも
僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。
とある。
朝と夕方はしっていた習慣が、
いつなくなったのかは ふれられていない。
ここらへんのばらつきは、なにかわけがあるのだろうか。
週に4日ほど、キロ7分のペースで7.5キロはしっているわたしは、
「納屋を焼く」の「僕」が、
なぜこんなにはやくはしれるのか、納得できない。
わたしには縁のないスピードで、
のろまなランナーは ひがむしかない。
2019年02月28日
河合俊雄さんがよみとく村上春樹作品の垂直性
毎週木曜日の10時から、NHKカルチャーラジオで
「河合俊雄が読み解く村上春樹の“物語”」をきいている。
すこしはなれたお店にクッキーをとどけると、
ちょうどこの番組がまるまるおさまる。
なんてかくと、わたしが自分の趣味にあわせて
配達場所をえらんだみたいだけど、
もちろん たまたまの偶然でしかない。
はじめのころの放送は、きいていて
あまりおもしろくなかったけど、前回の「垂直性」から、
わたしにもはなしの内容が いくらかわかるようになってきた。
垂直性は、「パン屋再襲撃」にでてきた
「特殊な飢餓」を説明するとき、
洋上にうかぶボートというかたちで顔をだしている。
河合さんによると、これが「垂直性」だという。
水平ではなく、垂直な構造をとりいれることによって、
ものがたりのふかみがますらしい。
ただ、垂直性をだそうとしながら、
「パン屋再襲撃」ではマニュアルにたよった
ハンバーガーショップの対応をうけ、
水平な関係にとどまっているらしい。
うまいことをいうものだと感心した。
わたしは、洋上にうかぶボートの描写をよんでも、
かかれたとおりにうけとめるだけだ。
それが垂直性だなんて、まるで気づかないし、
パン屋をふたたびおそうことと、
なにか関係があるとも もちろんかんがえなかった。
でも、河合さんによって 構造がときあかされると、
この短編にひかれるのは、垂直性と水平性の
おもしろさにあると気づかされる。
「パン屋再襲撃」は、短編集『パン屋再襲撃』におさめられている。
突然おとずれた理不尽なほどの空腹は、
むかしパン屋をおそいそこねた
のろいにちがいないと 奥さんがいいだし、
もういちどパン屋をおそいなおすはなしだ。
深夜にひらいているパン屋さんは、
すくなくとも当時はなかったので、
かわりにハンバーガーショップをおそうことになる。
わたしは、奥さんがきゅうに
機関銃のレミントンをとりだしたおかしさにつりだされ、
軽ハードボイルドとしてよんでいたぐらいだから、ひどい読者だ。
『パン屋再襲撃』のなかには、
いい歳になっても、あそびつづけるおにいさんのはなし、
「ファミリー・アフェア」もおさめられていて、
わたしはこのいいかげんそうなおにいさんがだいすきだ。
わたしはこのおにいさんから、
ささやかなおいわいにシャブリをおくること、
デートでは、ウィスキーのI・W・ハーバーをのむこと、
そして、
をまなんだ。
文学的なふかみはないかもしれないけど、
人生における実用書として、「ファミリー・アフェア」は
「パン屋再襲撃」よりもやくにたつ。
「河合俊雄が読み解く村上春樹の“物語”」をきいている。
すこしはなれたお店にクッキーをとどけると、
ちょうどこの番組がまるまるおさまる。
なんてかくと、わたしが自分の趣味にあわせて
配達場所をえらんだみたいだけど、
もちろん たまたまの偶然でしかない。
はじめのころの放送は、きいていて
あまりおもしろくなかったけど、前回の「垂直性」から、
わたしにもはなしの内容が いくらかわかるようになってきた。
垂直性は、「パン屋再襲撃」にでてきた
「特殊な飢餓」を説明するとき、
洋上にうかぶボートというかたちで顔をだしている。
1 僕は小さなボートに乗って静かな洋上に浮かんでいる。
2 下を見下ろすと、水の中に海底火山の頂上が見える。
3 海面とその頂上のあいだにはそれほどの距離はないように見えるが、しかし、正確なところはわからない。
4 何故なら水が透明すぎて距離感がつかめないからだ。
河合さんによると、これが「垂直性」だという。
水平ではなく、垂直な構造をとりいれることによって、
ものがたりのふかみがますらしい。
ただ、垂直性をだそうとしながら、
「パン屋再襲撃」ではマニュアルにたよった
ハンバーガーショップの対応をうけ、
水平な関係にとどまっているらしい。
うまいことをいうものだと感心した。
わたしは、洋上にうかぶボートの描写をよんでも、
かかれたとおりにうけとめるだけだ。
それが垂直性だなんて、まるで気づかないし、
パン屋をふたたびおそうことと、
なにか関係があるとも もちろんかんがえなかった。
でも、河合さんによって 構造がときあかされると、
この短編にひかれるのは、垂直性と水平性の
おもしろさにあると気づかされる。
「パン屋再襲撃」は、短編集『パン屋再襲撃』におさめられている。
突然おとずれた理不尽なほどの空腹は、
むかしパン屋をおそいそこねた
のろいにちがいないと 奥さんがいいだし、
もういちどパン屋をおそいなおすはなしだ。
深夜にひらいているパン屋さんは、
すくなくとも当時はなかったので、
かわりにハンバーガーショップをおそうことになる。
わたしは、奥さんがきゅうに
機関銃のレミントンをとりだしたおかしさにつりだされ、
軽ハードボイルドとしてよんでいたぐらいだから、ひどい読者だ。
『パン屋再襲撃』のなかには、
いい歳になっても、あそびつづけるおにいさんのはなし、
「ファミリー・アフェア」もおさめられていて、
わたしはこのいいかげんそうなおにいさんがだいすきだ。
「でも本当の生活というのはそういうものじゃないわ。(中略)あなたはまるで自分のことしか考えてないし、真面目な話をしようとしても茶化すばかりだし」
「内気なだけなんだ」と僕は言った。
「傲慢なのよ」と妹は言った。
「内気で傲慢なんだ」と僕はワインをグラスに注ぎながら渡辺昇に向かって説明した。「内気と傲慢の折りかえし運転をしてるんだよ」
わたしはこのおにいさんから、
ささやかなおいわいにシャブリをおくること、
デートでは、ウィスキーのI・W・ハーバーをのむこと、
そして、
良い面だけを見て、良いことだけを考えるようにすれば、何も怖くないよ。悪いことが起きたら、その時点でまた考えればいいさ
をまなんだ。
文学的なふかみはないかもしれないけど、
人生における実用書として、「ファミリー・アフェア」は
「パン屋再襲撃」よりもやくにたつ。