2017年04月26日

どこまでもつづく乾燥地帯の大平原に 胸をあつくする

『梅棹忠夫著作集 第4巻』におさめられている
「トルキスタンの旅」をよんでいたら、
『モゴール族探検記』にあたる部分をおえたあと、
カーブルへかえるまでの旅行がしるされていた。
土地はしだいに平坦になり、中央アジアの大平原の様相を呈してくる。まったいらな地平線があらわれてくる。(中略)わたしは、十数年ぶりに、びょうびょうたるアジア大陸の地平線をたのしむ。あの地平線は、そのままモンゴリアまでつらなっている。あのラクダのふみあとがそのまま北京までつづいている。(梅棹忠夫著作集 第4巻P268)

梅棹さんは、アジア大陸の内部につらなるこの大平原をみて、
『文明の生態史観』の着想をえている。
東北アジアから、西南アジアのアラビアまで、ユーラシア大陸を斜めに横断して走る大乾燥地帯がある。それは、際限もなくひろがる砂漠と草原の世界であり、それをつらぬいて点々と連なるオアシスの世界である。その大乾燥地帯の一角にとりつけば、あとは一しゃ千里である。三蔵法師もマルコ・ポーロも、みんなこの大乾燥地帯を利用して旅行したのであった。(『モゴール族探検記』P8)

わたしはまえにモロッコを旅行したとき、
この大乾燥地帯のはしっこをみたようにおもった。
マラケシュからアトラス山脈をこえると
それまで緑のおおかった植生にかわり、乾燥した土地があらわれる。
アトラス山脈にそって車が東へはしると、
右手には延々と大平原がひろがっている。
『文明の生態史観』をよんでいたわたしは、
この大平原がずっと東のはて、モンゴルまでつづいているのだと、
ひそかに興奮したものだ。
目のまえにあらわれた大平原をみて、
梅棹さんのいう「一しゃ千里」の意味がよくわかった。
機動力のある騎馬隊がこの一角にとりつけば、
なにもさえぎるものがないので、かんたんに距離をかせぐだろう。
乾燥地帯は悪魔の巣だ。(中略)昔から、何べんでも、ものすごく無茶苦茶な連中が、この乾燥した地帯の中からでてきて、文明の世界を嵐のようにふきぬけていった。そのあと、文明はしばしばいやすことのむつかしい打撃をうける。『文明の生態史観』(中公文庫P102)

夜ねむむるまえ、
お酒をすすりながらの読書にぴったりなのが探検記だ。
よいがまわるにつれ、こまかな描写には頭がついていかないので、
たいていは、いちどよんだ本をひっぱりだす。
このごろわたしがよくひらくのは、
冒頭にもかいた『梅棹忠夫著作集 第4巻』で、
この巻は「中洋の国ぐに」として『モゴール族探検記』など、
「中洋」を舞台にしたはなしがおさめられている。
わたしがすきな「カイバル峠からカルカッタまで」もこの巻にあり、
よいにまかせて適当にページをひらく。
梅棹さんは、このときの旅行で、
タイプライターをたたきながら、まどのそとにひろがる
風景を記録している。
みじかくきられたリズム感のある文章に、
まるで自分もいっしょに旅行している気がしてくる。
たとえば出発のようす。
 4時30分。用意はできた。江商バンガローの人たちは、懐中電灯をもって、門まで見おくってくれる。わたしは、みんなにさようならをいう。わたしたちは、車にのりこむ。シュルマン博士は、エンジンをかけ、ハンドブレーキをはずす。わたしは、ながいあいだ行動をともにしてきた友人、山崎さんに、最後のごきげんようをいう。そして、出発する。(梅棹忠夫著作集 第4巻P282)

梅棹さんのここちよい文体にひたり、
つい寝酒がすぎてしまいがちだ。

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2016年12月29日

『予言者 梅棹忠夫』(東谷暁)

『予言者 梅棹忠夫』(東谷暁・文春新書)

本書の広告をみたときは、
梅棹さんが予言者とよばれるのにひっかかった。
梅棹さんとしたら、予言が目的ではなく、
世界のうごきを観察し、自分の論理とてらしあわせ、
みちびきだされた結果としての 歴史的必然だったはずだ。

でも、とおしてよんでみると、一冊の評伝として
梅棹さん像が、よくまとめられている。
著者の東谷さんは、梅棹さんが設立した事務局につとめた経験があり、
世間でいう「予言者」とちがうのは よくわかっているひとだ。
梅棹さんについて、つけやき刃でまとめた本ではなく、
とおすぎず、ちかすぎもしない距離から、
梅棹さんの仕事をみてきた 編集者としての視点がいかされている。
こ梅棹さんについてかかれた本のおおくは、
文化人類学や知的生産にかんするもので、
東谷さんがいう
この本で試みたのは、言論人としての梅棹忠夫、思想家としての梅棹忠夫、文化行政プランナーとしての梅棹忠夫について

は、あまり目にする機会がない。
梅棹さんが、文化行政の主導者として 人脈や権力をいかしながら
どのように政治家や行政へ はたらきかけたかにもふれてあり
これまでの評伝にはない梅棹さんがしるされている。
梅棹さんは、おおくのプロジェクトにかかわりながら、
関係者にたすけられ、非常にスムーズに
ものごとがはこんだようにかくけれど、
いつもそんなときばかりではないはずだ。
この本には、編集者からみた梅棹さんの一面が紹介されており
かなり強引な発言もあって興味ぶかい。

わたしがすきな『わたしの生きがい論』からの引用がおおく、
日本の将来をかんがえるうえでのヒントとなっている。
エアコンのきいたいごこちのいい小屋でねむる豚が、
ふたたびキバをとりもどすかどうか、
こたえはあと数年のうちにあきらかになるだろう。

わたしは、漢字をつかわない文章など、
梅棹さんの影響をつよくうけたけれど、
この本をよむと、ひとりの梅棹ファンにすぎないのだとわかった。
ファンでしかない。
わたしからみると、梅棹さんなしで(「生きがい論」・知的生産など)
生きていけるひとが不思議におもえるけど、
そんなのはいちファンとしての心情であり、
客観的にいえば、世間一般での「梅棹忠夫」は、
もはやわすれられている存在なのかもしれない。
そんな梅棹さんを、本書はいままたとりあげ、
これまでの仕事をとらえなおす機会となった。
ひとりの梅棹ファンとして、
おおくのひとによまれるようねがっている。

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2016年10月26日

同居でおきる波しぶきは 道徳の問題ではない

仕事をしながらのおしゃべりで、
なんとなく家族構成のはなしになる。
わたしは母親の家で三世代の同居をしており
(むすこが大学へでたので、いまは二世代)、
いわゆる嫁・姑問題をひしひしとかんじている。
露骨な対立が表面化はしていないものの、
けしてうまくいっているわけではない。
おたがいに、いいたいことをいえず、
活発なコミュニケーションもなく、
おなじ家でくらしていながら たのしい関係とはいいがたい。
わたしがじょうずにあいだにはいればいいのだろうけど、
そもそも同居じたいが諸悪の根源であり、
そこをいじらなければ どうにもらない。
ものすごい修羅場を体験したわけではないけれど、
なんとなくへんな雰囲気というだけでも
じゅうぶんストレスなくらしとなる。
同居をはじめたのがまちがいだったと 同僚にはなしたら、
おなじく配偶者の親と同居している同僚は
ふかく共感してくれた。

梅棹忠夫さんが『モゴール族探検記』のなかで、
ひとりひとりの隊員が個人用テントをもつのは
「現代の探検技術における一つの常識」とかいている。
1956年、つまり60年もまえに出版された本に、
すでに「常識」とかかれているくらい、
プライベートな空間を確保するのが
探検では当然もとめられる配慮なのだ。
(一人ひとりが個人用テントをもつことは)個人の精神衛生を保つためにも、隊員間の平和を維持するためにも、経験的にいって最も有効な方法である。(中略)共同生活が長くなれば、波と波がぶつかりあって、しぶきを散らす機会も出てくる。そんなことは、探検心理学の対象となる自然現象であって、道徳の問題ではない。自然現象に対しては、技術的な処理が可能であり、かつ必要なのである。

異文化にとびこんでおこなう探検と家庭生活は
比較できないようにみえて じつはおなじ問題をはらんでいる。
「しぶきを散らす機会」がおきるのは、
嫁と姑のどちらかがわるいわけではなく自然現象であり、
「技術的な処理が可能であり、かつ必要なの」だ。
愛や道徳の問題ではない。

いっしょにくらす母はことしで85歳をむかえる。
まだひとりでたべたりおふろにはいったりはできるものの、
かいものや料理はすでに負担がおもすぎて 毎日はむつかしい。
はじめからべつべつにくらしていたら、
介護サービスにはいってもらい、
ひとりぐらしを支援してもらえたけど、
いまからではもうおそい。
『モゴール族探検記』をなんどもよみかえしていながら、
なぜ個人用テントのはなしを
自分への教訓としなかったのかとくやむ。

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2016年09月15日

わたしがえらぶ梅棹忠夫さんのベスト10

『本の雑誌 10月号』の特集は、
「400号記念なんでもベスト10!」。
なんのことかとおもったら、
ほんとに、とにかくなんでもベスト10にしたててある。

・書店ベスト10
・図書館10傑
・古本屋ベスト10
・雑誌編集長ベスト10

などはあたりまえとして、
目黒考二さんによる
・椎名誠のベスト10
は、いかにも「本の雑誌」らしい。
椎名さんの本についてのベスト10ではなく、
・平気で日にちを間違える
・カツ丼を勝手に頼む
など、椎名誠個人についてのベスト10だ。

400号をだせたおいわいに、
いろいろなベスト10をかんがえてみるのは
おまつりらしくていい企画だ。
わたしも便乗してベスト10をあげてみる。
まえに村上春樹さんの10冊をとりあげたことがあるので、
今回は 梅棹忠夫さんのベスト10をえらんでみたい。

・『モゴール族探検記』
・『東南アジア紀行』
・『わたしの生きがい論』
・『カイバル峠からカルカッタまで』
・『文明の生態史観』
・『情報の文明学』
・『日本語の将来』
・『知的生産の技術』
・『女と文明』(妻無用論)
・『夜はまだあけぬか』

・『モゴール族探検記』
アフガニスタンの奥地にモゴール族をさがしにいく探検記。
なにもわからないところにでかけ、
現地の状況をみながら 方針をきめていく。
探検のおもしろさがつまっている本。

・『東南アジア紀行』
1957年に 日本からジープ3台をもちこんで、
タイ・カンボジア・ベトナム・ラオスをまわった旅行記。
移動のためにだけではなく、
研究の拠点として本格的に自動車をつかっている。

・『わたしの生きがい論』
この本により、人生に目的はないとしらされた。
がんばってはいけない、
役にたたないほうがいい、など、
進歩をうたがう発言が刺激的だ。

・『カイバル峠からカルカッタまで』
これだけは1冊の本ではなく、
著作集第4巻「中洋の国ぐに」におさめられている。
「モゴール族探検」のあと 梅棹さんは、
しりあいの人類学者と、フォルクスワーゲンにのって
カイバル峠からカルカッタへ
おもいがけない自動車旅行にでかけた。
ガタゴトの道でも、夜くらくなっても、
ひざにのせたタイプライターで
記録をとりつづけたはなしが よくしられている。
スピード感にあふれ、自分もいっしょに
旅行しているような気になってくる。

・『文明の生態史観』
地理的・生態的な必然により、
日本とヨーロッパは
ユーラシア大陸のはじっこで
平行に進化した。

・『情報の文明学』
この本のおかげで 情報とはなにかを、
わたしはわりあい正確に理解しているつもり。

・『日本語の将来』
漢字のもつ問題点と、
ローマ字でかく日本語の可能性。

・『知的生産の技術』
この本をよみ、わたしは京大型カードを
3000枚印刷屋さんに注文した。

・『女と文明』(妻無用論)
ひとりの人間としてみたときに、
「妻」という立場はおかしくないか。
「妻であることをやめよ」。
女性をおとしてめているのではなく、
男なんかにつくさなくても、
自分の人生を生きたようがいい、という本なのに、
女性から ものすごい反発をうけたそうだ。
妻の座にしがみつきたい女性が
なぜそんなにおおいのか よくわからない。

・『夜はまだあけぬか』
65歳で視力のほとんどをうしなった梅棹さんが
そのご どのように研究と執筆をつづけたか。

わたしにとっての梅棹さんは、
民族学研究者であるとともに 思想家でもある。
世界をひろくあるいた経験と観察から、
歴史的な必然による 方向性をしめしてくれる。
目的からの離脱や ローマ字による日本語表記は、
そうした観察からみちびきだされている。

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2016年08月21日

梅棹さんのまねをして、「いまはなにもしないことにきめる」

ものすごくからだがだるい。
貧血なのか、血圧がひくいのか、
あんがい男の更年期というやつかもしれない。
ほかにもおもいあたることがあるけど、
よくかんがえてみると、これは
ただ単純につかれなのでは。

2週間まえにスイムランのレースをおえ、
そのあとゆっくりやすみをいれないまま、
11日から連続6日からだをうごかし、
いちにちあいだをおいて18日に
1時間のジョギングをしたところでちからつきた。
いまはもう足にちからがはいらない。
これではとてもトレーニングなどできないので、
きのうは完全休養の日とする。
つかれきってしまうと、からだはなかなか
もとにもどらない。
そうなるまえに シーズンオフとして、しっかりやすもう。

梅棹忠夫さんの『モゴール族探検記』で、
荷物をつんだ一行をまつあいだ、
体調をととのえるために、
梅棹さんがあえてなにもせず、
たべて ねるだけに専念する場面がすきだ。
もうなんどかこのブログで紹介したけど、
すきなのでまたかきうつす。
 わたしは、なにをする気もしない。したらようとおもうことはたくさんある。日記の整理も必要だ。植物採集もしなければならない。(中略)時間はある。やればよいことはわかっている。わたしはいま、馬力がない。いまはなにもしないことにきめる。みんなあとまわしだ。また機会があるだろう。いまは、「スリーピング・アンド・イーティング」だ。

梅棹さんでさえ、探検中においても、
こんな時期をすごすのだから、
わたしがすこしぐらい「なにもしないことにきめ」ても
ゆるされるだろう。

わたしの「スリーピング・アンド・イーティング」は、
まだ1日半だけだけど、だいぶからだがらくになった。
きょうは水泳の練習につきそう仕事がはいり、
50メートルを10本×3セットほどおよぐ。
いつもなら仕事で水泳の練習ができる
おいしい依頼だけど、
いまのわたしには はやくおよげぐのは負担がおもく、
おわったころにはまたヘロヘロになってしまった。
まあいい。原因がつかれなのはたしかなようだ。
今月はおやすみの月として、気もちがトレーニングにむくまで
罪悪感などもたずに からだをやすめよう。
『シン・ゴジラ』をみたいし、
かりてきたDVDの『パシフィック』シリーズもある。
2016年の8月は、
「スリーピング・アンド・イーティング」の月だったと、
いいおもいでになるだろう。

posted by カルピス at 18:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする