2017年09月22日

『裏が、幸せ』(酒井順子)

『裏が、幸せ』(酒井順子・小学館)

裏日本って、じつは魅力的な場所なんじゃないの、という、
酒井さんによる裏日本の再発見が一冊にまとめられている。
「表」の繁栄にかくれ、ひっそりとくらい印象のある裏日本だけど、
これからはその後進性こそをひとびとがもとめるかもしれない。
冒頭には、酒井さんがはじめて山陰本線にのったときのおどろきが
のべられている。
「鄙びている」を通り越して、日本海はあくまで澄んだ青、山々は緑、海山の間に建てられた家並みは統一感があって・・・と、ほとんど絶景の連続です。「こんな場所が日本にあったとは」と、私は思いました。

島根にすんでいるわたしは、日常的にこうした風景にせっしている。
あたりまえすぎて、なんともおもわない景色が、
「表」にすんでいるひとにとって、
おどろくべきうつくしさにうつるとは。
これこそが、すんでいるものには気づきにくい、
「裏」の魅力なのだろう。

酒井さんが石川県の旅館「加賀屋」をたずねると、
三代目の会長がこうはなしている。
裏日本が、表のようになったってしょうがないんです。かつて、明るく華やかな観光地を人びとは目指したけれど、これからはそうじゃないでしょう

今はもう消えてしまったもの、たとえば五右衛門風呂とか蚊帳とかね、そんなものを揃えて、その名も「裏日本」なんていう旅館をつくったら面白いだろうなぁと、これは商売人としても思いますね

ついでに、風呂にいれる水もじぶんで井戸からくみ、
マキをたきつけて湯をわかす体験もくみこんだら
人気がでるのではないか。
やったことのないひとには、マキに火はつけられないだろうから、
そこは旅館のスタッフが手だすけをする。
自分で「不便」のたのしさを体験できれば、
そうしたくらしが けして不便だけではないと気づくのでは。

酒井さんは、「日本海側美人一県おき説」を検証するために、
かつて青森から福井までの県庁所在地を調査している。
町をあるく女性が、美人か、そうでないかをカウントしてみると、
「一県おき説」がみごとに立証され、
なかでも秋田美人の健闘がめだった。
その3年後に、そのつづきとして、こんどは京都から福岡までの
日本海側の県における美人率をしらべている。
結果としては
はっきりした『一県おき』傾向は、西日本では見られませんでした。

島根は、とりあげられた6県のなかでは、
比較的たかいポイントをあげているものの(6.5%)、
平凡な数字にとどまっている(第3位)。
島根にすむものとしては、すこし残念な結果だ。
とはいえ、京都の4.5%よりも美人率がたかく、
東京でさえ、京都なみというから、
島根には美人がおおいと、いいきっておく。

表でなくてもいいではないか、と
いまをいきるひとびとがかんじるようになった。
光あるところばかりが魅力なのではない。
裏であるからこそのよさが裏日本にはあり、
これからは裏日本の時代、というよりも、
これからも裏ならではの魅力をうしなわないでほしいと、
酒井さんはねがっている。
わたしもまた、島根は島根でいいと おもうようになった。

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2017年09月03日

『中年だって生きている』(酒井順子)中年期をむかえる女性の本音

『中年だって生きている』(酒井順子・集英社)

先日よんだ群ようこさんの『ゆるい生活』とおなじように、
中年期にさしかかった女性が、自分におとずれた老化を
どうとらえるかについてかかれている。
年齢でいうと、群さんはわたしの7歳うえ、
酒井さんはわたしの5歳しただ。
わたしをふくめた3人がかんじている「老化」の微妙な差は、
すこしずつずれている 世代のちがいではないだろうか。

本の内容について、おおまかな印象としては、
群さんが、どこまでも個人の体験をこまかくかいているのに対し、
酒井さんは、自分だけでなく、まわりの女性たちの声もつたえている。
酒井さんのもち味は、主流派に位置する女性たちの声を
ありのままにおしえてくれるところだ。
少数派の意見ではなく、主流派というのがミソで、文章をかくひとは、
中心からすこしはなれたポジションをとる場合がおおく、
本をよんでいるだけだと、そうした少数派の意見ばかりが目にはいる。
酒井さんは、高校生のころから、
彼女と彼女の仲間たちが、いったいなにをかんがえ、
なにをしているのかをおしえてくれた。
教室のすみっこにいる 一部の女の子に焦点をあてるのではなく、
クラス全体の雰囲気をつたえている。
そうした声はなかなか男性にはとどかないもので、
まるで女子会ではなされている内容を、
おしえてもらっているような気がしてくる。
友人がおばちゃんに見える時というのは、すなわち「ラク」の方向に逃げた時です。「お洒落は我慢だ」という話もありますが、人は年をとると、肉体的な我慢がどうしたって利かなくなるもの。「お洒落」と「ラク」を天秤にかけて「ラク」の方に目盛りがぐっと傾いた時に、私たちはある一線を超えるのです。

「綿のパンツ」は、いうまでもなく非モテアイテムです。熟女ものAV、それもかなり特殊なセンスの作品にしか、綿のパンツを着用した女は登場しないことでしょう。女物の綿のパンツが干してあるご家庭は、明らかにセックスレスだと思う。

パンツの秘密を、ここまでおしえてくれるひとは なかなかいない。
そもそも、酒井さんはパンツをちゃんと「パンツ」とかいてくれる。
わたしの酒井さんへの信頼は、そうした感覚を共有しているからだ。

たった「ファッション」というひとつのみだしだけをとっても、

・ロングスカートのおばちゃん性
・おばさんになるとき
・きゅうくつを我慢できなくなり、ゆるさをもとめる
・なぜ綿のパンツなのか

など、いくつもの「気づき」や「告白」がつまっている。
女性のこんな事情を セキララにあかすのは、酒井さんだけだ。
人間、ウエストにゴムが入ったものを着るようになったらおしまいだ、という話もありますが、私はもはやゴム入りのものすら嫌いです。なぜならば、ゴムというのは伸びもするけれど縮みもするので、その縮み力が腹に食い込むのが嫌なのです。

「腹に食い込むのが嫌」とまでうちあけてくれる酒井さん。
酒井さんは、このようにして、いつも女性の本音をおしえてくれる。

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2016年11月14日

『泣いたの、バレた?』酒井順子さんによる 男たちを対象にした女性学講座

『泣いたの、バレた?』(酒井順子・講談社文庫)

酒井さんは以前、気のよわい女はいない、と
男たちにおしえてくれた。
今回の『泣いたの、バレた?』では、さらにつっこんで、
男にはわかりにくい女性の気もちをあかしてくれる。
この本のタイトルから想像されるのは、
小保方さんの釈明会見だろう。
酒井さんは小保方さんがひらいたこの会見を
「失敗だった」とみている。
オボちゃん(小保方春子さん)というのは、ヤワラちゃん以來、久しぶりに登場した「女に嫌われる女」であるわけですが、彼女達は何故そうなのかというと、女子校的環境にいたことがないせいで「女性の視線管理」に慣れていないためではないかと思われる。(中略)
対してオボちゃんはまた、泣き方も「メイクを崩さずに泣く」という女ウケしないもの。天に向かい、思いを噴出させるように泣いた真央ちゃんとの印象は、かなり違いましょう。

卵子老化の項では、
「(妊娠)したいのは山々!啓蒙するなら男性をしてほしい!」
というのが、多くの女性達の意見かと思います。何せ女性は、役割としてはキャッチャー側であるわけで、ピッチャーが「投げる気ないっす」「面倒臭いっす」といっているのに、
「さあ来い!」
とミットを叩いても、虚しいだけなのですから。

女性にミットをたたかせるなんて、
いまのわかい男たちはなにをやっているのか。

ロンブー淳さんをしとめた女性について、
酒井さんならではの視線で分析をくわえている。
様々な浮名を流したロンブー淳さんが結婚したお相手は、今時珍しい貞女。夫が何時に帰ってきても起きて待っているし、もしも夫が浮気をしたら「一緒に反省する」というのです。
その話を聞いて、男女の反応は分かれることでしょう。(中略)そして女性の場合は、「すごいテクニックだ!」と思うのです。
それはすなわち、嫁テク。(中略)
ぼーっとしているだけでは決して結婚できない現代において、テクニックを隠さずに嫁の座を獲得しようとする女性というのは、むしろスポーツマンのようで清々しい、と。
「確かにそうね。それも、ロンブー淳のように、結婚しても幸せになれるかどうかわからない人とあえて結婚するというのは、相当な猛者なのかもしれない」
「ていうかさ、色々な人が挑んでも結婚までいかなかった男性を前にした時、彼女のアスリート魂に火がついたんじゃないの?」

わたしだったら、おそくまでまってくれるのは、
うれしいよりもプレッシャーだし、
浮気を「一緒に反省」されたら
ギャーッとさけんでしまいそうだ。
酒井さんは「すごいテクニック!」と
まったくこころをうごかさないで、
嫁の座をいとめた女性のテクニックを、冷静にみやぶり、
アスリート魂と位置づける。

酒井さんによる女性心理の解説がなければ、
女うけしない泣き方がどのように失敗だったかとか、
ロンブー淳さんをしとめた女性を
「すごいテクニックだ!」
というふかいよみは、わたしにはとうていできなかっただろう。
週刊現代に連載されている酒井さんのこのエッセイは、
男たちが気づかない女性の心理を 親切におしえてくれる。
中年のおじさんよりも、わかい男たちにこそ
このシリーズに目をとおしてほしい。

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2016年07月21日

『泡沫日記』(酒井順子)中年期に体験する「はじめて」の記録

『泡沫日記』(酒井順子・集英社文庫)

わりとひとのかいた日記をよむのがすきで
(こっそりのぞきみ、という意味ではないです)、
関心をよせているひとの 日常をしりたくて、
エッセイだけでなく 日記までよみたくなる。

初体験はわかいころだけでなく、
歳をとればとったで こんどは
老化にともなう「はじめて」を体験するようになる。
本書は、中年期におとずれた「初体験」を、
日記のかたちでまとめたものだ。
具体的な日にちはかいてない。
ぜんぶ「某月某日」となっている。
エッセイのじょうずな酒井さんのことだから、
日記をかいても、よくできたエッセイとしかいいようがない。

本書には島根県もでてくる。
山陰本線は、本線とはいえ運行本数が非常に少ない。その上、出雲以西は山陰本線の中でも出色の絶景区間が続くので、乗り遅れるわけにはいかないのだ。

出雲でとびのった列車で、酒井さんははじめて席をゆずられる体験をする。

本物の老人として初めて席を譲られるというのは、相当ショックな体験なのだと思う。

そういわれてみると、たしかにそうだ。
わたしもマジで席をゆずられたら、
「ありがとう」といいつつ
かなり動揺してしまうのではないか。

震災をめぐる日記では、被災地をおとずれたり、
日常生活で省エネに気をくばったりと、
この本をよんで、酒井さんのまともさをしり
ますますすきになった。
震災以来、心の中には「申し訳ない」」という気持ちが、しんしんと降り積もり続けている。”東京”電力のせいで、福島の皆さんにとんでもない迷惑をかけて申し訳ない。オール電化で申し訳ない。庭園にならなくて申し訳ない。普通に生活して申し訳ない。

酒井さんは「申し訳ない」からと、
夏にもエアコンをつかわずにくらしている
(「・・・・あ、でも深夜電力タイムになったら、
ちょっとだけ冷房入れてるんですけどね、」という告白あり)。

こうしたまともな市民感覚が酒井さんの魅力であり つよみだ。
常識をよくわきまえ、まわりからいわれなくても
おのずと ひととしてただしい道をあゆんでいる。

中学生のとき卓球部に所属していた酒井さんは、
数年まえから卓球のレッスンにかよいだし、
ついには30年ぶりに試合にでる。
最近、こういった「セカンドバージン」を破るセカンド初体験が増えている。昔とった杵柄をもう一度、というお年ごろなのであろう。

「セカンド初体験」というとらえ方がうまい。
1966年生まれの酒井さんは、
ことし50歳をむかえる。
本格的な老化にともなう初体験の報告を、
たのしみにまちたい。

ひとつ注文をつけると、
「〜な私。」
というとめ方がしばしばみられたので気になった。
女性のかくエッセイには、このいいまわしがおおい。
酒井さんほどの達人なのだから、
わかったうえで あえてつかっているのだろうけど、
だれもかれもが「〜な私。」とやるので
だんだんハナについてきた。

posted by カルピス at 21:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 酒井順子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月04日

『この年齢(とし)だった!』(酒井順子)

『この年齢(とし)だった!』(酒井順子・集英社)

レディー=ガガ・山口百恵・オードリー=ヘップバーン
与謝野晶子・松田聖子・金子みすゞ・・・。
有名な女性たちの 人生における転機に注目し、
そこでいったいどんなできごとがあったのかを紹介する。
しっていそうであんがいしらない彼女たちの一生が、
非常にコンパクトにまとめられており、まるで偉人伝みたいだ。
それぞれの転機も興味ぶかいけれど、
わたしは以下の部分につよくひかれた。
 それまでの私は、過去の人を馬鹿にしていました。「今」を生きる人こそ一番偉い。「今」こそが最も進んだ時代なのだ、と。
 しかし清少納言は私に、「今の人が考えることは、たいてい昔の人も考えている」ということを教えてくれました。すなわち「どの時代に生まれていようと、人間は人間なのだ」ということを。

1000年まえに生まれた清少納言だけでなく、
アリストテレスやソクラテスが活躍していた時代だって、
すでにそうとうややこしいことをかんがえていた。
「どの時代に生まれていようと、人間は人間なのだ」は、
どこまでさかのぼれるだろう。

縄文時代にいきた人びとや、さらにいえば
アフリカ大陸をでて あたらしい土地へとむかった
ホモ=サピエンスたちも、すでに「人間」だったのか。
おおむかしに生きた人間たちは、
その日のたべものの心配だけをしていたのではなく、
ひととしてどう生きるかや、しあわせとはなにかを
ひとりで、あるいは仲間たちとかんがえていたかもしれない。
いまわたしがかんがえているようなことは、
当時の彼らだって とっくのむかしに(どれくらい?)
問題意識としてかかえていた。

このまえふるい映画をみていたら
(といっても第二次大戦後につくられた作品)、
ジェットエンジンをつんだおおきな旅客機が 世界じゅうをとびかい、
いまとおなじように空港にひとびとがあつまり、
あたりまえのように飛行機をつかって旅行している。
コンピューターがなくてもジェット機はつくられたし、
旅客機がとびかうシステムがすでにととのっていたことに、
いまさらながらおどろいてしまった。

「今」がいちばんえらいようにおもいがちだけど、
ひとむかしまえでも いまとにたような生活があった。
パソコンがなければ いまやっている仕事は
ぜったいに無理、とおもいこんでいるけど、
50年まえにはパーソナルなコンピューターなどなくても
だいたい いまとにたような形で仕事をすすめていた。
アマゾンやニューギニアのジャングルでくらしているひとびとは、
わたしたちがもっている道具とは
縁のないくらしをしているけれど、
必要がないからつかわないだけだ。
たとえばライターをもたないからといって
おとったくらしなわけではない。
人類は、どの段階でいまの人間とおなじ「人間」になったのだろう。

posted by カルピス at 21:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 酒井順子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする